椅子に座りますか

 * * *

 密室の電子ロックが解除されたのは、あの日から二日後だった。
「……ユウ! いるか、ユウ!」
 パスワードのタイマーが切れ、開錠音が響いた直後。私は重い鉄扉を押し開け、アジトの中へ飛び出した。

 しかし、弟も、カラスたちもいない。

 乱雑に散らかった機材と、死んだような静寂だけが残されていた。

 息を切らしながら部屋を見回したその時、部屋の奥でつけっぱなしになっていたテレビへ目が止まった。

 画面には、国会議事堂前に集まった大量の報道陣と、ブルーシートに覆われたおぞましい血だまりの映像が映し出されていた。それは真昼の惨劇を報じる、繰り返しのニュース映像だった。

『――国会議事堂前のテロ主犯死亡事件から、今日で二日が経過しました。死亡した主犯の男は、なんと久我幹事長の息子である久我晃生氏であると見られており、政界には激震が走っています』

 アナウンサーの沈痛な声と共に、別の映像へ切り替わる。

『また、起爆を試みるテロリストに単身飛びかかり、身を挺して惨劇を阻止しようとした結果、やむを得ない制圧射撃に巻き込まれて殉職した日下部巡査の遺体は、本日無言の帰宅を果たし――』

「……は?」

 私はテレビへ釘付けになったまま、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。

 心臓が鷲掴みにされたように痛む。 死んだ? ユウが? 日下部が、殉職? 馬鹿な。そんなはずはない。
「なんでだ……どういうことだよッ!!」
 私はモニターへすがりつき、叫んだ。画面を両手で叩き、信じられない現実を否定しようと声を振り絞った。
「お前たち、議事堂を爆破するって言ってたじゃないか!! なんでユウが議事堂の前に立ってるんだよ!! なんで日下部が、一緒に死んでるんだよ!!」

 混乱する頭で、ニュースが伝える断片的な情報と、現場の映像を必死に繋ぎ合わせた。

 ユウはあの残酷な国会議事堂爆破計画を中止した。

 奴隷たちを解放し、代わりにたった一人で白日の下、マスコミの前へ現れ、久我家の闇を告発した。

 そして現場に駆けつけた日下部の目前で、隠していた起爆装置を操作しようとしたため、警察の指示により射殺されたという。
「……違う」
 
 私は震える両手で頭を抱え込んだ。
 あいつが、ユウが、日下部の前でそんなことをするはずがない。

 ユウが日下部を傷つけるはずがないし、日下部がユウを射殺させるような隙を見せるはずがない。

 それなら、なぜ計画を変えた。 なぜ国会議事堂を爆破しなかった。

 密室で別れる直前、私がユウへ投げかけた言葉が、呪いのように鮮明に蘇った。
『お前が脅した、日下部だよ。日下部は俺が命を救ったことで、ちゃんと大事なものが見えるようになった。俺たちはこれから来る者のために、未来を変えていくために、今動くんだよ』
 あの時、ユウは泣きそうな顔をして、何かを堪えるように胸を押さえていた。

 ようやく、その意味が分かった。

 私の語った『未来』を。私が信じた『正しい警察』の姿を、あいつは信じたのだ。 だからすべてを解体し、殺すことをやめた。

 一人ですべての罪を被り、仲間に血を流させるのをやめ、真っ当な警察官である日下部に逮捕されようとした。

 その結果、二人とも、腐った権力の手によって理不尽に殺された。

「……俺が……」
 その先は、声にならなかった。

 私は冷たい床へ崩れ落ちた。 爪が割れ、血が滲むほどコンクリートの床を掴み、額を擦りつけながら、獣のように声を上げて泣いた。

 ああああああっ、と無様な絶叫がアジトの中に響き渡る。
 正義も、優しさも、この国では何の意味も持たなかった。


それから半年が過ぎた。

 ユウが自らの命と引き換えに国会議事堂前へばら撒いた膨大な告発資料は、結局、社会をひっくり返すことはなかった。

 久我家の圧倒的な権力。それと癒着した警察上層部。そしてメディアによる報道統制。彼らは数か月をかけて、ユウの残した証拠を『久我幹事長の息子を騙るテロリストによる捏造であり、すべて事実無根』という物語へと書き換えていった。

 世界は、何も変わらなかった。
 久我家は変わらず特等席に座り続けている。

 そして、あの日、ユウと日下部という二つの未来を撃ち殺すよう命じた郷田は、あろうことか『テロリストの凶行を阻止した英雄』として称賛された。

 管理官だった彼は、本庁中枢を担う『参事官』へ異例の出世を遂げ、以前よりさらに大きな権力の椅子を手に入れていた。

 個人の命など、巨大な泥水の前では何の価値もない。

 あの夜からずっと胸の奥で光り続けていた『優しさ』という希望も、この半年間の冷酷な現実によって、一欠片も残らないほど擦り潰されていた。
 
 そして今日、半年間に及んだ私の長い謹慎が解けた。
 だが、私が足を踏み入れたのは、所属する新宿署ではなかった。
 向かったのは、日本の警察組織の中枢――警視庁本庁舎だった。

 一階の厳重なセキュリティゲート。

 私は制服の警備担当者へ警察手帳を提示し、無表情のまま告げた。
「新宿署の真下です。郷田参事官から直接お呼び出しを受けています。……例の資料を持参しました」

 警備担当者が手元の端末を確認すると、すぐに緊張した面持ちでゲートを開けた。郷田は私が『過去の隠蔽に関する不都合な資料』を持ってくると信じ込んでいる。自分の醜聞が他に漏れないよう、事前に私をフリーパスで最上階へ通すよう手配していたのだ。

 冷たい大理石の床が続く本庁の廊下を、私は一人で無言のまま歩いた。
 すれ違うのは、本庁勤務の見知らぬ警察官ばかりだった。新宿署の一刑事にすぎない私の顔を知る者など、ここにはほとんどいない。誰も挨拶をせず、立ち止まることもなかった。

 私はコートのポケットへ手を入れ、小型のICレコーダーと、分厚い茶封筒の重みを確かめた。

 栄転した男へ新たに与えられた、広く真新しい個室。

 ――郷田参事官の部屋だった。

 誰もいない静かな個室で、私は部屋の中央に置かれた高級な革張りの『椅子』へ深く腰を下ろし、その時を待っていた。

 やがてドアノブが回り、上機嫌な足音と共に部屋の主が入ってきた。

 郷田参事官は、自分のデスクの向こう側に、所轄の一刑事でしかない私が座っているのを見つけた瞬間、露骨に顔を歪めた。

「真下……ッ! 貴様、何をしている! 私の椅子に座るな!!」
 他人の手柄を奪い、部下を犠牲にしてまで手に入れた、郷田にとっての『特等席』だった。

 郷田は苛立たしげにドアを閉め、内側から鍵をかけると、私へ向かって偉そうに手を突き出した。

「……まあいい、さっさと用件を済ませるぞ。私を脅してこの部屋へ入ることを承諾させたからには、例の『証拠資料』とやらはすべて持ってきたんだろうな? 大人しく差し出せば、これまでの勝手な振る舞いは不問にしてやる」

 郷田は自分が完全に主導権を握っていると信じ切っていた。自分の醜聞を隠蔽するためとはいえ、私を部屋え通したのは、ここで証拠をすべて回収し、私を再び都合のいい手駒として飼い殺すためなのだ。

 私は椅子へ深く腰掛けたまま、デスクの上へ置いていた小型ICレコーダーの再生ボタンを押した。

 ノイズ混じりの音声が、静まり返った個室へ流れ出す。

『――こちら郷田! 大鳥官房長官、久我幹事長をはじめとする重鎮の方々、および避難した市民の救出を完了しました!』

 あのタワーが炎に包まれ、崩壊しかけていた時の通信記録だった。

『ですが……真下と、その父である修造、それとあと数人の市民がまだ取り残されています!』
『……これ以上、被害を大きくするわけにはいかん。救出には向かうな。見捨てろ』
『しかし、本部長!』
『二次災害で警察官の犠牲を増やす気か! VIPの安全が確保されたならそれで十分だ。これ以上被害を増やしたくない。……繰り返す、救出は放棄しろ』
『……かしこまりました』

 音声が終わり、個室に再び重い沈黙が落ちた。
 郷田は舌打ちし、忌々しそうに私を睨んだ。
 私は椅子に座ったまま、その目を真っ直ぐ見返した。

「郷田参事官」
 自分でも驚くほど、声は静かだった。
「あなたはあの時、一度だけ『しかし』と言いましたね。……俺たちを、助けようとしてくれたんですか?」

 数秒の沈黙が流れた。
 やがて郷田は、ゆっくりとネクタイを直した。

「……現場には、優先順位がある」
「……」
「全員を救える状況ではなかった。VIPを先に避難させる。二次被害を防ぐ。それが、あの時の任務だった」
「親父も、俺も、まだ中にいた」
「分かっていた」
 郷田は、私から目を逸らさなかった。
「それでもだ。現場は感情では動かせない」

 私はしばらく黙って郷田の顔を見つめた。

「……そうですか」
 深く、静かに息を吐いた。

 そして、郷田の『特等席』からゆっくり立ち上がった。
 持参していた分厚い茶封筒を、デスクの中央へ置く。

「あなたが今まで、私だけでなく多くの部下たちの手柄を隠蔽し、自分のものとして上層部へ報告してきた証拠資料です」
 郷田がひったくるように封筒へ手を伸ばそうとした。 だが、私はその上に、もう一枚の薄い封筒を重ねて置いた。
「……なんだ、これは」
「退職願です」
 私はさらに、懐から黒い革張りの警察手帳と、腰に下げていた冷たい鋼の手錠を外し、無造作にデスクの上へ置いた。 カチャリ、と重く鈍い金属音が個室に響く。

「なっ……真下、貴様……!」
「貸与品はすべて返却します。……本日付で、警察は辞めました」
 郷田の手が止まった。
「……は?」
「刑事としての俺の仕事は、これで終わりだ」
 それだけを残し、私は郷田の横を通り過ぎた。
 一度も振り返ることなく部屋を出て、静かにドアを閉める。


 * * *

 一人残された郷田は、閉ざされたドアをしばらく睨んだあと、鼻で笑った。
「ふん、負け犬め。尻尾を巻いて逃げただけではないか」
 そして、自分の権力の象徴であるふかふかの革張りの椅子へ、どっかりと腰を下ろした。

 デスクの上に置かれた茶封筒を開け、中身を一瞥する。最初こそ馬鹿にしたような顔をしていたが、そこに並ぶ資料が言い逃れのできない完璧な証拠だと悟ると、苛立ちと共に「チッ」と舌打ちをして、資料を封筒ごとデスクの端へ投げ捨てた。

 その時だった。

 ふと視線を上げた郷田は、散らばった資料の下――真下が置いていったICレコーダーのすぐ横から、一枚の『古い写真』が顔を出していることに気づいた。
「……なんだ、これは?」
 訝しげに手を伸ばし、写真を拾い上げる。

 写っているのは、幼い二人の兄弟だった。ジョウとユウが並び、何も知らない顔で無邪気にピースサインをしている。

 郷田は何気なく写真を裏返した。
 そこには、不器用な文字で、たった一言だけ書かれていた。

『椅子に座りますか』

「……は?」
 郷田が眉をひそめ、反射的に椅子から腰を浮かせようとした、その瞬間だった。

 * * *

 カチッ。

 小さなスイッチ音が、ポケットの中に響いた。

 直後、百メートル後方にそびえ立つ日本の警察の最高中枢、警視庁本庁舎の上階から、鼓膜を劈くような凄まじい爆発音が轟いた。

 見上げるような高層階の窓ガラスが内側から粉々に砕け散り、黒煙と業火が東京の空へ噴き上がる。郷田は悲鳴を上げる間もなく、自らの「特等席」と共に消し飛んだ。

 突然の轟音に、地上を行き交う人々が足を止めて上空を指差し、周囲はあっという間に悲鳴と喧騒に包まれた。

 真下は、それでも一度も振り返ることなく、パニックに陥り騒ぎ立てる群衆の中をただ静かに歩き続けた。

 あなたは、椅子に座りますか?

 完