椅子に座りますか

 全員が息を呑み、画面の中で国会議事堂に鋭い警報が鳴り響き、あの残酷な地獄の幕が上がるのを、身を乗り出して待った。

 しかし、何も起こらなかった。

 数秒が過ぎても、さらに重苦しい時間が経っても、国会議事堂は死んだような静寂を保ったままだった。

 爆炎の兆しとなる煙も上がらなければ、地を揺るがす轟音も聞こえない。警報も鳴らなければ、システムが作動した痕跡すらない。

 真昼の眩い光にすっぽりと包まれた議事堂は、澄み切った青空の下で、ただ冷たい威容を誇っているだけだった。

「どういうことだ!? なぜ作動しない!」
 門別が激情に駆られ、パイプ椅子を乱暴に蹴り倒して立ち上がった。
「馬鹿な、タイマープログラムが走らない……ッ!」
 カラスも血相を変え、喰らいつくようにキーボードへ向かった。凄まじい勢いで指を走らせ、何度も、何度も手動での起爆システムへのアクセスを試みる。

 しかし、黒い画面に無慈悲に叩きつけられるのは、赤い警告文字と、システムからの完全な拒絶を示すエラー表示ばかりだった。
「ダメだ……起爆システムへのアクセスが完全に弾かれてる! 誰かがマスターパスワードを書き換えて、俺たち全員をシステムから締め出してる……ッ!」

 その直後だった。

 ガチャンッ!! という、まるで断頭台の刃が落ちたかのような重苦しい金属音が、アジト中に響き渡った。
「な、なに!?」
 深川が悲痛な声を上げて叫ぶ。

 それは、アジトの唯一の出入り口である頑丈な防音扉の電子ロックが、外側から強制的に、そして開かないよう施錠された音だった。
「扉が開かない! 閉じ込められたぞ!」
 門別が扉にすがりつき、ノブを乱暴にガチャガチャと回すが、分厚い鉄の扉はびくともしない。

「嘘でしょ……そんなことできるの、ユウ以外にいないじゃない!」
 相田が悲鳴に近い悲痛な声を上げ、震える指でスマートフォンを取り出した。画面をタップし、何度もリダイヤルを押すが、耳に届くのは無機質で冷たい呼び出し音が繰り返されるだけで、ユウが電話に出ることは決しなかった。
「お願い……電話に出てよ、ユウ……! なんで、どうして……!」
 全員が理解の及ばない事態に陥り、完全な混乱と焦燥の濁流に呑み込まれかけた、まさにその時だった。

 壁一面を占めていたアジトのメインモニターが、前触れもなく突然暗転した。

 数秒後、あらかじめ緻密なタイマーで仕込まれていた録画映像が再生され、画面いっぱいにユウの姿が映し出された。

 そこにいた彼は、いつものように穏やかで、しかしどこか見ている者の胸を締め付けるような、ひどく悲しげな微笑みを浮かべていた。

『――みんな、ごめん。俺はここで、みんなとは別れる』
「ユウ……ッ!?」 カラスがモニターへすがりつくように身を乗り出し、食い入るようにその顔を見つめた。
『決めたんだ。……これ以上、みんなの手を血で汚させるわけにはいかない』

 画面の中のユウの瞳は、テロリストのそれではなくなっていた。

 それは、かつて激しい嵐の中で、命を落としかけていた傷ついた小鳥を、泥だらけになりながら助けようとした少年のような――あの純粋で、透明な優しさを宿した目で、仲間たちを愛おしそうに見つめていた。

『俺たちの罪は、俺一人で終わらせる。みんなには、これ以上の大罪を背負わせない。……俺は、奴隷たち全員のスマホに「計画は中止だ、もう誰も殺さなくていい、自由だ」と通知を送った。日下部さんたち警察内部の人間に仕掛けさせたシェルターの爆弾も、システムごと完全に破壊してある』

 ユウは少しだけ伏し目がちに視線を落とし、憑き物が落ちたかのように、心から穏やかに笑った。

『みんながここから出て、俺を止めに来られないように、ロックをかけさせてもらった。……今まで、本当にありがとう』
 プツン、と。 そこで映像は無惨に途切れた。

「ふざけんなよ……今更何言ってんだよ、ユウ!!」
 門別が慟哭しながら、拳から血が滲むほどコンクリートの壁を殴りつけた。

 相田は糸が切れたようにその場へ崩れ落ち、膝を抱えて声を押し殺して泣き始める。

 カラスだけは、何も言えず、ピクリとも動くことなく、暗くなったモニターをただ呆然と見つめ続けていた。

 あの夜。冷たい密室で、真っ直ぐな兄の言葉を聞いた時から。 ユウは、彼らが心血を注ぎ、完璧に練り上げたはずのこれほどまでに周到で残酷な国会議事堂爆破計画を、たった一人で跡形もなく解体し、静かに捨て去っていたのだ。


* * *

 その頃。 白日に照らされ、威風堂々とそびえ立つ国会議事堂の内部。厳重な警備の任務に就きながら、指示通りに地下シェルターへの爆弾設置を終え、指定の時刻を待っていたはずの日下部は、冷房の効いた大理石の廊下を走りながら、全身にじっとりと嫌な冷や汗をかいていた。

 数十分前。彼が制服の内側に隠し持っていた特殊な端末が震えた。

 非通知からの着信、しかもそれは『ビデオ通話』だった。

 警戒しながら応答ボタンを押した日下部の目に飛び込んできたのは、スマートフォンの画面越しに見つめてくる、どこか悲しげな青年の顔だった。

 その顔を見た瞬間、日下部は心臓を鷲掴みにされたように息を呑んだ。
「なっ……あんたは、久我晃生……!?」
 連日ニュースで大々的に報道され、数ヶ月前に不審な死を遂げたはずの次期総理候補のご子息。その男が、今、生きた瞳で自分を見つめている。
『――日下部さんですね。……はい。俺は、死んだと報道されている久我晃生です』
 青年は静かに頷き、爆弾のような言葉を落とした。
『そして……あなたを脅迫した、一連のテロ事件の主犯です』
「なんだと……!?」
 画面越しの青年は、日下部の驚愕をよそに、ゆっくりとスマートフォンのカメラを反転させた。

 画面に映し出されたのは、青空の下にそびえる重厚な建物――今まさに日下部がいる、国会議事堂の正門前だった。

『警戒しないでください。これは罠ではありません。……俺は、計画を完全に中止しました。日下部さんに仕掛けさせた爆弾も、システムごと破壊しました。もう、誰も死にません』
「どういうことだ……」
『俺は事前に、各主要メディアへ「テロの主犯が国会議事堂前で真実を明かす」と通報しました。俺はこれからマスコミのカメラの前で、久我家の闇をすべて公表します。そして、武装を解いて投降する』
 カメラが再び反転し、青年の静かな顔が映る。
『あなたに、俺を逮捕してほしいんです』
 日下部がさらに問い詰めようとする間もなく、通話は一方的に切られた。

 真っ暗になった画面を握り締め、日下部は弾かれたように走り出していた。
 
 日下部は本来の持ち場である地下深くのシェルターを完全に放り出し、遥か上の地上階にある正門へ向かって、狂ったように階段を駆け上がっていた。

 時を同じくして、全国のテレビでは番組が強制的に切り替わり、緊急ニュース速報が流れていた。

 ユウからのリークを受け、国会議事堂前にはすでに大勢のマスコミが詰めかけていたのだ。
『――現在、国会議事堂前に、一連のテロ事件の主犯を名乗る男が現れました! 現場は完全にパニック状態に陥っています!』

 雲一つない青空の下。無数のフラッシュが真昼の太陽と競い合うように飛び交う中、たった一人で国会議事堂の正門前に立っていたのは、死んだはずの『久我晃生』の顔を持つ男だった。
「おい、あいつ……まさか!」
「嘘だろ、数ヶ月前に死んだはずじゃ……!」
「カメラ回せ! 早く顔を抜いて、全国ネットへ繋げ!!」
 議事堂前に集結していた報道陣の間で、悲鳴のようなざわめきが波となって広がっていく。

 一斉に焚かれるフラッシュの光が嵐のように瞬き、怒号とシャッター音が現場の空気を異様なほどに歪ませた。
 その直前。国政の最高機関たる国会議事堂、その中枢である本会議場。

 全国の茶の間にテレビ中継される、定例の代表質問が行われていた。国の舵取りを担う重鎮たちがひな壇に居並び、カメラのレンズが無数に向けられるその白日の舞台こそが、特等席の権力者たちを一網打尽にし、その罪を白日の下に晒すための最もふさわしい「処刑場」として選ばれていたのだ。

 だが、中継カメラが粛々と議事を映し出していたその時、議場内にさざ波のような異音が広がり始めた。

 最初は数人の若手議員が、手元のスマートフォンやタブレットを見て血相を変えたのが始まりだった。

 次いで、あちこちの席でヒソヒソとした私語が沸き起こり、それは瞬く間に議場全体を飲み込むざわめきへと変わっていく。
「おい、外の正門前に……ニュース速報だ!」
「テロの主犯が現れただと!?」
「馬鹿な、顔が……死んだはずの晃生くんじゃないか!」
 議員たちの顔から次々と血の気が引き、議場はテレビ中継中であることすら忘れたかのような、完全なパニック状態に陥った。議長が静粛を求めて木槌を鳴らすが、その音すら怒号と喧騒に掻き消されていく。

「……ええい、何事だ! 騒がしいぞ!」
 ひな壇の特等席に座り、不機嫌そうに眉をひそめていた久我幹事長が、苛立ち紛れに周囲を怒鳴りつけた。

 その直後、隣の席にいた青ざめた顔の重鎮議員が、震える手でタブレットの画面を久我の目の前へ突き出した。
「く、久我先生……これをご覧ください! 正門前にマスコミを呼びつけたテロの主犯……あれは、数ヶ月前に亡くなられたはずの、晃生くんです!!」
「……なんだと!?」