椅子に座りますか

 私は間髪入れずに言い放った。
「お前だって、本当は分かっているはずだ。かつては冷酷な怪物だった久我総一郎でさえ、お前の描いた絵の優しさに触れて、確かに心を変えたじゃないか。お前の優しさは、権力の深い闇にすら届く力を持っていたんだ!」

 ユウは息を呑み、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

「俺が日下部を、自分の命を懸けて助けようと思ったのには、理由があるんだ」
「え……?」
「あの嵐の夜、お前はスズメの『ちーこ』を助けるために外へ飛び出した。俺が怒った時、お前は泣きながら言ったよな。『助けられるのに、助けないのはおかしいよ!』って」

 ユウの顔が、くしゃりと歪んだ。
「俺が泥水の中で、自分の命を懸けてでも人を救おうと思えたのは……親父の言葉だけじゃない」

 私は堪えきれず、声を強くした。
「あの日のお前の、その純粋な優しさがあったからなんだよ! お前の優しさは、久我総一郎を変え、俺を変え、俺の中でずっと生きているんだ!」
 
 私の叫びが、冷たいコンクリートの部屋に響き渡った。

 ユウは、目に見えない刃で胸の奥を深く抉られたように顔を歪め、自分の胸元を強く握り締めた。

 その瞳の奥で、テロリストとして積み上げてきた冷酷な決意と、かつての純粋な弟としての感情が、激しくせめぎ合っているのが痛いほど分かった。

 だが、ユウは何も答えなかった。

 限界まで張り詰めた沈黙が続いたあと、ユウはゆっくりと私へ背を向け、重い鉄扉の取っ手へ手を掛けた。

「ユウッ!」

 たまらず、その背中へ向かって叫んだ。

 扉に手を掛けたまま、ユウは動きを止めた。
 それでも、私の方を振り返ることはなかった。

 しばらくして、押し殺したような声だけが聞こえてきた。
「……数日後に、このドアのロックは自動的に解けるようになっている。だから、それまでここで待っていてくれ」

 次の瞬間、重い鉄扉が閉まり、冷たい金属同士が噛み合う鈍い音が、コンクリートの部屋へ響いた。

「待て、ユウ! 話はまだあるんだ!」
 私は分厚い鉄扉へ駆け寄り、両拳を叩きつけながら喉が裂けるほど叫んだ。
「ユウ! 開けろ! まだ終わってないだろ!!」

 しかし、返ってくるのは電子ロックの赤いランプだけだった。
 扉の向こうから、足音さえ聞こえない。

 やがて私は、力を失うようにその場へ膝をついた。
 親父の教えも、私の言葉も、ユウには届かなかったのか。
 静寂に包まれた密室の中で、私はただ閉ざされた鉄扉を見つめ続けた。


 * * *


 数日後。

 世界から隔絶されたような薄暗いアジトの静寂を、壁一面に増殖するように並べられた無数のモニター群が打ち破っていた。

 発光する青白い電子の光が、カラスたち『七つの大罪』のメンバーの顔に落ち、底知れぬ業を背負った亡霊のように彼らを不気味に照らし出している。
 ひときわ巨大なメインモニターの中央に映し出されているのは、雲一つない蒼穹の下、白日の光に容赦なく晒される、

 重厚にして傲慢な国会議事堂の全景だった。

 久我幹事長をはじめ、これまで特等席に座り続け、この国を根底から腐らせてきた元凶たちが一堂に会する会議。

 真昼の太陽が高々と昇る今まさにそれが行われているその場所こそ、彼らが途方もない時間と執念をかけて準備してきた『最終計画』の舞台であった。

 だが、刃物の上を歩くような張り詰めた空気の中で、相田がふと我に返ったように周囲を見渡し、微かな震えを帯びた不安げな声を漏らした。
「……ねえ。ユウは? さっきから姿が見えないんだけど」
 その何気ない言葉に、獣のように部屋をひたすら歩き回っていた門別が、ピタリと足を止めた。

 機材の陰で息を潜めていた深川も、怪訝そうに顔を上げる。
「そういえば……少し外の空気を吸ってくるって言ったきり、戻ってきてないな」

 門別が苛立ち交じりに、鋭く舌打ちをした。
「おいおい、冗談だろ? あと数分で計画の最終フェーズだぞ。あいつ、どこで油断してやがる」
「カラス、外の監視カメラにユウは映ってないの?」
 相田に急かされ、カラスは無言のまま手元のキーボードを激しく叩き、アジト周辺のあらゆるカメラ映像を次々と呼び出した。

 画面が猛烈な勢いで切り替わる。しかし、どのモニターの死角を探っても、ユウの姿は一切ない。それどころか、彼がいつの間にかアジトの敷地外へ出ていることすら、システムの履歴には確認できなかった。
「……おかしい」
 カラスの声が、地の底から這い出るように低く沈んだ。いつもの飄々とした余裕は完全に消え失せ、天才ハッカーとしての鋭い直感が、脳内で最悪の警鐘をけたたましく鳴らしていた。
「あいつが、この土壇場で勝手に持ち場を離れるわけがない。それに、俺の監視網を抜けて外へ出たってことは、意図的にシステムを回避したってことだ」

 カラスの吐き出した言葉に、全員の背筋に氷のような冷たいものが走った。 彼らがこれから実行しようとしている計画は、単なる暗殺ではない。

 国家を転覆させるほどの大罪であり、同時に、人間の尊厳というものを根こそぎ踏みにじり、徹底的に破壊する悪魔のような残酷さを秘めていた。

 ――『人間封鎖』。 それが、彼らが神に代わって鉄槌を下すはずだった最終計画の全貌である。

 まず、日下部をはじめとする「あの忌まわしいサイトで処刑に投票してしまった警察関係者たち」を容赦なく脅迫し、彼らが持つ警察の権限を最大限に悪用して、国会議事堂の地下深くに眠る『VIP専用地下避難シェルター』へ、すでに超高温で全てを灰にする焼夷爆弾を仕掛けさせていた。

 次に、あらかじめカラスが仕込んでおいた自動ハッキングプログラムがシステムの中枢へ侵入し、指定時刻ぴったりに議事堂内へけたたましいテロ警報を鳴らす。

 久我幹事長ら特等席でふんぞり返る重鎮たちは、SPの肉の壁に守られながら、疑うこともなくその「最も安全な地下シェルター」へと逃げ込むだろう。

 だが、彼らがシェルターへ足を踏み入れた瞬間、分厚い防爆扉が外側から完全にロックされ、絶対に逃げ出すことのできない『巨大な鉄の棺桶』が完成するのだ。

 だが、この計画が孕む本当の異常さ、真の狂気はここからだった。

 安全な自宅のソファで息を潜めているであろう数万人の『奴隷(投票者)』たちのスマートフォンには、すでに解除不能な特殊アプリが強制インストールされていた。

 彼らの手元には、こんな血も凍るような冷酷な脅迫がすでに届けられており、今は青ざめた顔で、カタカタと震えながら暗い画面を見つめ、ひたすら待機しているはずだった。
『お前たちはあのサイトで、他人の死を軽い気持ちで投票した。だから今度は、お前たち自身の手で権力者たちを焼き殺せ。画面に起爆ボタンが出た時、それを押さなければ、お前も家族もどうなるか保証はない』

 そして、巨大な鉄の棺桶と化したシェルター内の監視カメラ映像を、奴隷たちのスマホへ生々しくライブ配信し、絶望に顔を歪め、閉じ込められた特等席の権力者たちには、冷徹なスピーカーを通してこう告げる手はずになっていた。

『お前たちの命は今、お前たちが散々利用し、見下してきた底辺の市民たちの指先に委ねられている。生きたければ、モニターの向こうの彼らに向かって無様に這いつくばり、土下座し、命を乞え』と。

 自らは決して手を汚さず、安全な高みから他人を利用してきた権力者たちが、見下していた無力の市民に向かって涙と鼻水を流し、泣き叫びながら命を乞う。

 一方で、自業自得の罪で追い詰められた市民たちが、生きた人間が炎に巻かれていく阿鼻叫喚の姿を画面越しにまざまざと見つめながら、自らの震える指で処刑のボタンを押す。

 それは、誰もが加害者であり、誰もが被害者となる、一縷の救いすら存在しない逃げ場のない究極の地獄絵図だった。
「……時間だ」
 門別が、祈るように、あるいは呪うように組んだ両手を口元へ当てながら、低く呟いた。

 モニターの隅で、冷徹にカウントダウンを刻んでいた作動タイマーが、無慈悲に『00:00』を示す。カラスがセットした自動プログラムが発動する運命の時刻だ。