椅子に座りますか

「君だって、あの音声を聞いて怒りを感じただろう! 君も心のどこかでは思っていたはずだ。こんな狂った社会は壊すべきだと!」

 私は四方から突きつけられた銃口を見ても、目を逸らさなかった。
「ああ……お前らの気持ちは、よく分かる」

 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
「親や家族を奪われ、それでも平然と特等席でふんぞり返っている連中を……殺したいと思う気持ちも、痛いほど分かる」
「だったら仲間になるんだ!!」
 カラスが叫んだ。

「今さら、こんな警察の犬が信じられるか!!」
 門別が激昂し、引き金に掛けた指へ力を込めた。
「門別!!」
 ユウの怒号が、コンクリートの壁を震わせた。

 次の瞬間、ユウは銃を構える四人と私の間へ、自ら身体を滑り込ませた。
「……兄さんだ。手を出すな」
「だが、ユウ!」
「手を出すなと言っている」
 低い声だったが、その言葉には絶対的な意志があった。

 門別は歯を食いしばり、カラスも、相田も、深川も納得できない表情を浮かべていた。それでも、ユウの言葉に従い、四つの銃口は少しずつ床へ向かって下がっていった。

 ユウは私へ向き直り、もう一度手を差し出した。
 何も言わない。
 ただ真っ直ぐ私の目を見つめ、私がその手を取るのを待っている。

 自分たちの正義を、兄なら必ず理解してくれると信じているようだった。
 私は、かつて弟だった男の手をじっと見つめた。

「……俺を拘束しろ」
「え……?」
 ユウの顔に、初めてはっきりとした動揺が走った。
「俺は今、謹慎中の身だが……それでも、警察官だ」

 私は自ら両手を前へ差し出し、ユウの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺を拘束してくれ」

 その言葉を聞くと、門別が鋭く舌打ちし、部屋の隅へ向かおうとした。
「……縛り上げる紐を持ってきます」
「待て。紐はいらない」

 ユウが静かに止めた。
「この部屋に閉じ込めるだけでいい。電子ロックのパスワードが分からなければ、この扉は中から絶対に開かない。兄さんは、この部屋で閉じ込める」

 門別は怒りを隠そうともしなかったが、ユウの指示には逆らわなかった。
 そのやり取りの横で、カラスが痛切な表情を浮かべて私を見つめていた。

「……真下刑事」
 いつもの飄々としたハッカーの面影はなく、その声はひどく震えていた。
「俺は……あんたと手を組みたかった。俺は、あんたが好きだったんだ」
 私とカラスは、互いに本当の名前も素性も知らないまま、過去に命を救い合ったことがある。

 だが、私が警察官としての矜持を手放さなかった今、二人の道は完全に分かれてしまった。

「……みんな。兄さんを拘束するんだから、もういいだろ。少しだけ、二人にしてくれないか」

 ユウが静かに促した。
 カラスは最後まで何かを言いたそうに私を見ていたが、やがて視線を逸らした。

 相田が拳銃をしまい、深川もそれに続いた。門別だけは最後まで険しい表情を崩さなかったものの、ユウの命令に従い、三人と共に重い鉄扉へ向かった。

 カラス、相田、門別、深川。
 四人が順番に廊下へ出ていく。

 最後にカラスが振り返った。
 一瞬だけ、私と目が合った。

 しかし、何も言わなかった。
 やがて鈍い金属音と共に重い鉄扉が閉まり、冷たいコンクリートの部屋には、私とユウの二人だけが残された。

 改めて室内を見渡してみると、そこが彼ら全員の作戦本部というより、ユウ個人のプライベートルームに近い場所だと分かった。

 ふと、棚の上に一枚の写真が置かれていることに気づいた。
 幼い頃の私とユウが並び、無邪気にピースサインをしている、実父が生きていた時の古びた写真だった。

 さらに部屋の隅には、描きかけのキャンバスや絵の具のチューブが無造作に置かれている。

「……相変わらず、絵を描くのが好きなんだな」

 私が静かに問いかけると、ユウは絵の具のチューブへ指を伸ばし、その表面をゆっくりなぞった。

「昔からの癖でさ。同じ色に見えても、配合次第でまったく違う色になる。色には違いがあるんだ」

 その横顔だけを見ていると、冷酷なテロリストには見えなかった。
 幼き頃、私の隣で笑い、色を混ぜることを楽しんでいた、ただの『弟』へ戻っているように見えた。
 私は、そのどこか寂しそうな横顔へ向かって、静かに口を開いた。
「……後悔はないか?」

 私が静かに問いかけると、ユウはしばらく答えず、部屋の隅に置かれた絵の具のチューブへ視線を落とした。

「後悔? さあね……そんなの、分からないよ」
 その声には、強がりとも諦めともつかない響きがあった。

「俺は……お前のことを分かったつもりになっていた」

 ユウがゆっくりとこちらを見る。
「でも、違った。久我家に入って、あの部屋を見るまで、お前が何を失って、何を抱えて生きてきたのか……俺は何も知らなかった」
「……兄さん」
「お前の絵を見たよ。あの嵐の夜に助けた、チーコの絵もな」

 その言葉を聞いた瞬間、ユウが弾かれたように顔を上げ、信じられないものを見るように目を丸くした。

「えっ……なんで、まだ俺の絵が残ってるんだ……?」
「久我総一郎だ。お前はあの家で政治の深い闇を知って、絶望した。……けれど、あんな冷酷な家の中にも、お前のことを本気で思ってくれていた人間がいたんだよ」

 ユウの瞳が微かに揺れた。長い間まとわりついていた何かが、ほんの少しだけ剥がれ落ちたように見えた。

 やがて彼は、自嘲するようでいて、どこか優しい笑みを浮かべた。
「……ああ。じーちゃんだけは、俺の絵を見ていてくれたんだ。『お前の絵には命が宿っている』って言ってくれた」

 だが、ユウはすぐに暗い影を落とし、乾いた声で言葉を継いだ。
「でも……後になって知ったんだ。俺を愛してくれたあのじーちゃんでさえ、昔は久我晃一郎以上に血の通わない冷酷な政治家だったってね。自分に逆らう人間や、役に立たない人間を容赦なく切り捨てて、権力のためなら平気で人の人生を踏み躙るような……正真正銘の『怪物』だったって」

 ユウの声には、微かな絶望が混じっていた。
 信じていた唯一の家族さえも、元を辿れば自分たちが憎むべき『権力の亡者』と同じだったという事実が、彼を苦しめていたのだ。

 だが、私は真っ直ぐに弟の目を見据えて言った。

「……だとしたら。そんな冷酷だった人間の心を、お前の描く絵が変えたんじゃないのか?」

 その言葉に、ユウはハッとして息を呑んだ。
 私は静かに続けた。

「権力と利権しか見ていなかった怪物の目に、お前の描いた優しい夕焼けや、スズメの命の輝きが焼き付いたんだ。……お前が持っていた『優しさ』が、冷え切っていたあの老人の心を変えたんだよ」

 ユウの瞳から、ポロリと一筋の涙が零れ落ちた。
 彼はまるで、長年自分を縛り付けていた呪いが解けたかのように、震える手で顔を覆った。

「……どうかな」
 ユウは涙を拭うこともせず、ひどく掠れた声で呟いた。
「でも、じーちゃんとまともに話ができたのは、たった三年間だけなんだ。俺が整形されて『久我晃生』の顔になってからは、絵を描くことも許されなくなった。それに、じーちゃんはもともと傲慢だった本物の久我晃生をよく思っていなかったから……俺の顔が変わってからは、俺だと気づかずに、ほとんど話すこともなくなったんだよ」

 愛してくれた祖父との関係さえ、権力者の身代わりになったことで強制的に断ち切られた。その事実が、改めて胸へ重くのしかかった。

 私はしばらく言葉を失っていたが、やがて別の疑問が頭をもたげた。
「……そういえば、数か月前に『久我晃生』が亡くなった事件だ」