椅子に座りますか

 さらに、もう一つの記憶が鮮明に蘇る。
 深夜の廊下で出会った、認知の混濁した元総理大臣・久我総一郎。

 その老人が、涙ぐみながら語った言葉。

『……あの子は写真に魅せられていた。ファインダー越しに見る世界は、私が見る無機質な権力の景色よりもずっと澄んでいて、美しかった。あの子は絵の具を水で溶き、パレットの上で慎重に色を混ぜ合わせる……。あの子の手にかかれば、夕焼けのグラデーションも、雨上がりの湿った空気の色さえも、息を吹き返したように再現された。……あれは、私の家で唯一、慈しんだ「命」の跡なのだから』

 私はとうとう堪えきれず、涙を零した。
 総一郎が語っていた『優しい子』は、間違いなく目の前にいるユウだった。

 権力と利権ばかりを追い求める久我家という冷たい鳥籠の中で、ユウの描く色に魅せられ、その優しさを見つめ、本当に愛してくれた人間が、一人だけでも確かに存在していたのだ。

 だが、ユウは私の涙を見ても表情を変えなかった。
 昔の懐かしい笑顔は消え、代わりに感情の抜け落ちたような、冷たく虚無的な顔になっていた。

「その後、俺は『将来の総理の息子』として、嫌でもこの国の政治の裏側を見せつけられた」

 ユウは静かに私を見た。
「……兄さん。政治の真実を知ると、本当にこの社会が嫌になるよ」
「……政治の、真実?」
「ああ。兄さんはずっと下っ端の刑事として泥水をすすってきたから、信じたくないかもしれない。でも……警察なんて、官僚や大物政治家が相手になれば、どれほど明白な不正や法律違反があっても、上から『揉み消せ』と命令が下れば平気で隠蔽する。あの郷田や本部長を見てきた兄さんなら、それくらい痛いほど分かってるはずだろ?」

 私は何も言い返せなかった。

 実際、警察組織は自分たちの保身のためなら、犯人の声明を都合よく歪め、内部文書さえ勝手に書き換えてきた。真実を守るはずの組織が、組織そのものを守るために真実を捻じ曲げる場面を、私は何度もこの目で見ている。

「そして政治家の後ろには、必ず坂巻のような腕の立つ弁護士がついている。どんなに不利な状況に追い込まれても、奴らは悪びれることなく『法律の抜け道』を見つけ出して、黒を白にひっくり返す。……それでも逃げ切れないほど致命的な事態になった時、奴らがどうするか分かるか?」

 薄暗い部屋の中で、ユウの目がぞっとするほど冷たい光を帯びた。
「奴らは、『法そのもの』を変えちまうんだよ」
「法を……変える?」
「そうだ。自分たちを捜査できないように検察や警察の人事へ介入し、『法の解釈』を都合よく捻じ曲げる。数の力を使って、自分たちや支援者だけが甘い汁を吸える特例法を作ることだってある。自分たちがルールを破って裁かれそうになったなら、裁かれないようにルールそのものを作り替えてしまえばいい。それが、あの『特等席』に座っている連中のやり方だ」

 ユウは自分自身を嘲るように、短く息を吐いた。

「俺は『久我晃生』として、その狂った仕組みの中で生きることを強制された。弱い人間からあらゆるものを搾り取り、自分たちは絶対に捕まらない安全圏でふんぞり返っている。そんな連中に囲まれながら、俺は『将来の総理』になるための駒として育てられたんだ」

 その声には、二十二年間もの長い時間をかけて押し殺してきた、果てしない絶望と怨念が渦巻いていた。その深さを前に、私はただ息を呑むことしかできなかった。
 重い沈黙がコンクリートの部屋に降りた。しばらくしてユウは静かに息を吐くと、傍らに立つカラスへ視線を向けた。

「……カラス。みんな、もういい。前に出てもらってくれ」
「……了解」
カラスが短く答えると、私をここまで連行してきた二人と、部屋の奥に潜んでいた一人が、ゆっくりと明るい場所へ歩み出してきた。

 最初に私の背後へ回り込み、後頭部に拳銃を突きつけてきた男は、先ほど私に極められた右手首を押さえながら、苦々しい顔でこちらを睨んでいた。
 外階段でカラスの隣に立っていたもう一人が、黒いフードを外す。肩へ長い髪が落ち、女性であることが分かった。

 続いて、部屋の奥に潜んでいた最後の一人も、顔を覆っていた布を外した。こちらも女性だった。

 三人は黒い上着を脱いだ。
 その下から現れた姿を見て、私は思わず目を見開いた。
 訓練を受けたテロリストでも、金で雇われた裏社会の凶悪犯でもない。

 スーツを着崩した中年の男。
 地味なカーディガンを羽織った女性。

 もう一人も、街中を歩いていたところですれ違う人間が誰一人振り返りもしないような、ごく普通の女性だった。

 どこにでもいる『一般市民』たちだった。
 ただし、三人の瞳の奥だけは普通ではなかった。そこには、人生から大切なものを根こそぎ奪われた者だけが持つ、深く暗い炎が宿っていた。

 だが――私はその中年の男と、カーディガンの女性の顔を見た瞬間、強烈な既視感に襲われた。

 どこかで見た顔だ。それも、ごく最近。
 記憶の糸を必死に手繰り寄せた瞬間、一つの映像がフラッシュバックし、全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。

 日下部と共に廃ビルで見た、あのモニターの映像。
 赤いランプが点滅する金属製の首輪爆弾を巻かれ、絶望に顔を歪めて泣き叫んでいた『無関係な人質』たち。

「……お前ら……あの時の人質か!?」

 私が愕然として声を上げると、中年の男は苦々しい表情のまま静かに目を伏せ、カーディガンの女性も悲痛な顔で視線を逸らした。
 私は絶句した。無関係な市民の命を盾にした、卑劣極まりないテロリストの脅迫だと思っていた。だが、違った。あれは日下部自身である警察官を操るために、彼ら自身が命懸けで演じた『自作自演』だったのだ。

 ごく普通の一般市民が、憎むべき権力者を裁くためだけに、自らの首に本物の爆弾を巻くという常軌を逸した芝居をやってのけた。その底知れぬ執念と覚悟の深さに、私は戦慄を覚えずにいられなかった。

「……だから言っただろ、兄さん」

 呆然とする私へ、ユウが静かで、悲しげな声で語りかけた。

「俺たちが最初に決めたルール。無実の人間は、絶対に標的にしないって」

 その言葉が、今度こそ本物の重みを持って私の胸へ突き刺さった。

 私が先ほど取り落とした拳銃を、右手首を押さえていた男が静かに拾い上げる。しかし、もう私へ銃口を向けることはせず、そのまま床へ向けた状態でユウの横に立った。

 ユウはカラスと三人を順番に見渡したあと、私へ向き直った。

「紹介するよ、兄さん」

 静かな声だった。

「俺、カラス。そして、この三人。――ここにいる俺たちは、全部で【五人】だ」

 私は息を呑んだ。
 最初から、この部屋にいたのだ。

 私を迎えに来た者たちも、暗がりから銃口を向けていた者も含め、いま目の前にいる全員が、この計画の中心人物だった。

「……彼らは俺の部下じゃない。俺と同じように、あの特等席へ座る連中に大切なものを奪われ、社会から見捨てられた『仲間』だよ」

 ユウは慈しむような目で四人を見渡すと、まずフードを外した女性へ視線を向けた。

「彼女は、相田。旧姓を『福田』という。まだ子供だった頃、真面目に生きていた父親が、堂島の放ったフェイクのスクープ報道によって汚職の濡れ衣を着せられた。世間から激しいバッシングを受けた末に、父親は自ら命を絶った。相田はその過去を隠し、復讐のために堂島のすぐ近くへ潜り込んでいたんだ」

 相田は、長年胸の奥に溜め続けてきた怒りを押し殺すように、静かに私を見つめ返した。堂島を破滅の罠へ誘導し続けたのは、最も近くにいた彼女だったのだ。

 ユウは次に、先ほど私へ拳銃を拾い上げ、そして人質を演じていた中年の男を指した。

「こっちは、門別。もともとは真面目な会社員だった。だが海堂議員の汚職事件で、政治家と癒着していた会社の上層部から、すべての不正を肩代わりするよう強要された。逆らえば家族の命はないと脅され、逮捕された挙げ句、会社からも世間からも切り捨てられた」

 門別は痛む手首を押さえながら、悔しさに唇を噛み、深く俯いた。しばらくして顔を上げると、私を睨みながら苦々しく吐き捨てた。

「あんた……刑事のくせに、随分乱暴だな」

 私は何も答えなかった。
 その僅かなやり取りが終わると、ユウは最後の女性、カーディガンを着た深川へ目を向けた。

「そして、深川だ。彼女は、坂巻という悪徳弁護士の卑劣な法廷戦術によって、本来は被害者であったにもかかわらず加害者へ仕立て上げられ……愛する家族を完全に壊された。……日下部さんをあの廃ビルへ呼び出し、モニター越しに人質として彼を脅す芝居を打ったのは、彼女と門別だよ」

 深川の瞳には、過去を思い出すだけで血の涙を流しそうなほどの、激しい憎悪が渦巻いていた。

「俺たち五人はみんな、政治家の汚職や、警察の隠蔽、弁護士の詭弁、マスコミの世論操作によって、理不尽に家族を壊され、人生を狂わされた人間たちだ。……そして」

 ユウは最後に私を真っ直ぐ見据え、カラスを示した。

「彼が……『カラス』。兄さんも知ってるよな。廃ビルに残した解除キーの『sakura』で気づいていたはずだ。彼は十五年前の天楽建設の汚職事件で、佐々木や久我の保身のためにすべての罪を被せられ、自殺へ追い込まれた『桜工事部長』の息子だ」