椅子に座りますか

「……久我晃生。そうか。この顔だもんな」
「……なに?」

 男はゆっくりと、私の方へ一歩だけ踏み出した。

「真下さん……いや。あんたは、久我晃一郎という男の本当の恐ろしさを分かっていない」

 男の声が、少しずつ変わっていく。

 政治家・久我晃生として人前に出ていた時の、洗練された声ではない。
 もっと泥臭く、柔らかく、そして――私の記憶の奥深くに眠っている何かへ触れるような、ひどく懐かしい響きを帯び始めた。

「あの男は、自分の政治生命と血統を守るためなら、他人の顔や人生すら平気で『上書き』する化け物だ」
「顔を……上書きする……?」

 私の喉から、掠れた声が漏れた。
 男は私の目を真っ直ぐに見つめた。

「覚えているか分からないけど……二十二年前の嵐の夜。公園に置いていた段ボールの家が吹き飛ばされそうになって、傘も差さずに必死に助けに行った小さな子供がいた」

 その瞬間、私の呼吸が止まった。

「その子は、自分が濡れることよりも、震えている小さなスズメの命を救いたかった。……スズメの名前は、『ちーこ』」

 指から力が抜けた。

 拳銃が手の中から滑り落ち、冷たいコンクリートの床へぶつかった。
 ガラン、と乾いた音が響く。

「……お前……ユウ……なのか?」

 震える声で絞り出すと、男は――いや、ユウは、久我晃生の顔をしているにもかかわらず、昔と変わらないほど豊かな表情で笑った。

「……兄ちゃん。やっと、会えたね」
「……ユウ……!」

 私はその場へへたり込み、うまく息を吸うこともできず、胸を押さえながら喘いだ。

「どういうことだよ……? なんで、お前が久我晃生の顔をしてるんだ……!」
 私の問いに、ユウは静かに目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……全部、話すよ。兄ちゃん」

 ユウは私を見つめたまま、二十二年間閉ざされてきた地獄の蓋を、ゆっくりと開き始めた。

「俺の葬式で……あの冷たい棺桶に入っていたのは、俺じゃない。あの時すでに俺の顔をしていた――『本物の久我晃生』だったんだ」
「なっ……本物の、晃生だと!?」
「ああ。本物の晃生は、重い発達障害を抱えていた。感情のコントロールがうまくできず、衝動的に暴れてしまうことも多かった」

 ユウの声には、当時の記憶を掘り返す苦痛が滲んでいた。
「だが、完璧な血統と経歴を求める久我家にとって、将来の総理候補の長男がそんな状態であることは、絶対に世間へ知られてはいけない『汚点』だった」

 冷たい部屋の中へ、ユウの悲しげな声が響く。
「だから……顔立ちが似ていて、親兄弟とも引き離され、身寄りもなかった俺が、養子という名目で久我家へ引き取られた。そして、晃生の『スペア』として選ばれた」

 ユウは一度言葉を止めた。
 瞳に、幼い頃の地獄を無理やり掘り返すような深い苦痛が浮かんでいた。

「そして久我晃一郎は、俺たち二人がまだ生きているうちに、互いの顔を入れ替えたんだ」
「……生きているうちに……?」
「ああ。俺は、本物の久我晃生の顔に整形された。そして本物の晃生は、俺――ユウの顔に変えられた」

 言葉が出なかった。

「その時点で、俺は『久我晃生』として生きるための準備をさせられていた。話し方も、仕草も、字の書き方も、食事の癖も……全部だ。本物の晃生になりきるために、徹底的に叩き込まれた」

 顔だけではなかった。
 一人の人間の存在そのものを、別の人間へ上書きする。
 久我家がやったのは、そういうことだった。

 ユウはさらに続けた。
「そして……顔を入れ替えられた後、ユウの顔をしていた本物の久我晃生は殺された」
「……殺された……?」
「ああ」

 ユウの声が低く沈んだ。
「事故なんかじゃない。久我家にとって、本物の晃生はもう必要なくなっていた。俺という『正常な久我晃生』を用意できた時点で、あいつは存在していてはいけない人間になったんだ」

 背筋へ冷たいものが這い上がった。
「久我家は、俺の顔をした本物の晃生の遺体を『ユウが死んだ』ことにして葬儀へ出した。そして、俺の戸籍上の人生を終わらせた」
「じゃあ……あの葬儀で、棺の中にいたのは……」
「本物の久我晃生だよ」

 ユウは静かに答えた。
「あの時にはもう、あいつは俺の顔をしていた」

 その瞬間、二十二年前の記憶が頭の中で音を立てて崩れ始めた。
 冷たい雨。
 棺の中で眠る、氷のように冷たくなったユウの顔。

 その棺へ縋りつき、弟の名前を呼びながら泣き続けた私。
 そして、遺族席からその光景を冷たい目で見つめていた久我晃生。
 ユウは、私が思い出したものを読み取ったように続けた。

「そして、遺族席から兄ちゃんを睨んでいた『久我晃生』――あれが、俺だったんだ」
「……お前が……」
「ああ」
「じゃあ……あの時……」

 喉が震えた。
「お前は……俺が泣いているのを、すぐそばで見ていたのか……?」

 ユウの顔から、微笑みが消えた。
「……見てた」
 短い言葉だった。

「兄ちゃんが、俺の名前を呼びながら、俺じゃない人間の棺に縋って泣いているのを……ずっと見てた」
「だったら……なんで……!」
「言えるわけなかった!」

 ユウの声が、初めて大きく揺れた。
「俺はもう、あの場所ではユウじゃなかった! 兄ちゃんに『俺だ』なんて言えば、何が起きるか分からなかった! 久我晃一郎が、兄ちゃんにまで何をするか分からなかったんだ!」
「……っ」
「だから俺は……久我晃生として、兄ちゃんを睨むことしかできなかった。泣きそうになれば気づかれる。近づいても気づかれる。だから……あんな顔をするしかなかったんだ」

 私は何も言えなかった。
 あの日。
 私は弟の死を嘆きながら、同時に、遺族席にいた冷酷な少年を憎んだ。

 その両方が、ユウだったのだ。
 あまりにも残酷な真実を前にした時、数ヶ月前の久我邸でのやり取りが、稲妻のように脳裏へ蘇った。

 久我晃一郎が、ユウにたいして吐き捨てた言葉。
『あの部屋にいたのは、親の言うことも全く聞かず、癇癪を起こしては衝動的に暴力を振るうような……どうしようもないクズだった! あんな出来損ないの狂人が、優しいはずがなかろう!』

 あの時、私は激しい怒りを覚えた。
 なぜ、ユウのことをそんなふうに言うのかと。
 だが、違った。
 久我晃一郎は、ユウのことを言っていたのではない。

 自分にとって都合の悪い存在となった『実の息子――本物の晃生』を、忌まわしい汚点として罵っていただけだったのだ。