ただ、その紙の束から漂ってくる得体の知れない『執念』のようなものが、私の背筋へ冷たい汗を伝わせた。
私は資料を折り畳み、自分のコートのポケットへ深くねじ込んだ。
誰もいない隠れ家の中で、パソコンの青白い光だけが静かに灯り続けていた。
秋葉原の隠れ家を出た私は、ひどい疲労感と喉の渇きを覚え、近くのコンビニへ立ち寄った。
レジで缶コーヒーの会計をしていると、背後から親子の会話が聞こえてきた。
「ママー、公園! ブランコ行く!」
「さっきまで遊んでたじゃない。……もう、諦めないわね。これ買ったら行くわよ」
何気ない親子の会話だった。
それなのに、なぜか耳に残った。
車へ戻り、運転席で缶コーヒーのプルタブを開けた。
ふと窓の外を見る。
コンビニの隣にある小さな公園へ向かって、先ほどの男の子が猛ダッシュしていく姿が見えた。
その視線の先には、ブランコを目指して小走りしている別の子供がいる。
どうやら、自分が先にブランコへ乗ろうと必死に走っているらしい。
(……ユウも、ブランコが好きだったな)
男の子は結局、一足遅くブランコを取られてしまった。
その場で、わあっと泣き出す。
追いついてきた母親がしゃがみ込み、
「順番、待っていようね」
と優しく宥めていた。
ただそれだけの、ごく普通の日常だった。
だが、私はその光景から、どうしても目を離すことができなかった。
気がつけばエンジンをかけ、無意識のうちに車を走らせていた。
向かったのは、実の父親と、幼いユウと、三人でよく遊んだ思い出の公園だった。
* * *
到着した公園には誰の姿もなく、どんよりとした曇り空の下、静寂だけが広がって
いた。
色褪せたベンチへ腰を下ろす。
目の前では、錆びついたブランコが風に揺れ、かすかな金属音を立てている。
私は目を閉じた。
胸の奥底へ封じ込めていた、遠い昔の記憶が鮮明に蘇ってきた。
あれは、私がまだ幼かった頃だった。
ユウがブランコへ乗り、父が後ろから背中を押してやっていた。
ユウの楽しそうな笑い声が、公園いっぱいに響いている。
そこへ、一人の小さな子供がやってきた。
父はその子に気づくとブランコの揺れを止め、ユウを抱き上げて地面へ降ろしてやった。
空いたブランコへ、待っていた子供が嬉しそうに乗り始める。
だが、まだ遊びたかったユウは、不満そうに顔を歪め、泣き出してしまった。
私も心配になって駆け寄った。
父は泣きじゃくるユウと私を両腕へ引き寄せ、優しい声で言った。
『いいか、ジョウ、ユウ。遊具で遊ぶのが楽しいのはよく分かる。でもな、他にも遊びたい子がいるんだから、代わってあげて、また後で遊べばいいじゃないか』
当時の私は納得できず、唇を尖らせて言い返した。
『でも、僕たちが遊んでて、譲ってくれる子供なんていないよ! ずっと占領しちゃうんだよ!』
父は怒らなかった。
優しく笑いながら私の頭を撫でた。
『そうだろうな。でも、お前たちはどうだ? それをやられて嫌じゃないか? 嫌だよな』
私がこくりと頷くと、父は私とユウの顔を交互に見つめ、少しだけ真剣な表情になった。
『人として大事なことはな、ブランコに限った話じゃない。自分が楽しいことや嬉しいことを、人に譲ってやれる優しさなんだぞ』
風間譲(カザマ ジョウ)
風間優(カザマ ユウ)
それが、養護施設へ預けられる前の、私たち兄弟の本当の名前だ。
目を開けると、誰もいない公園の景色が、涙でひどく滲んでいた。
自分が楽しいことを、他人へ譲る優しさ。
あの運命の日、駅のホームで『優先席』を巡って大人たちが揉めていた時、父は迷うことなく、自分が教えてきたその言葉の通り、争いの間へ入ったのだろ。
そして、大人たちのちっぽけなエゴに突き飛ばされ、命を落とした。
父の優しさを、理不尽に踏みにじった社会。
その後も真実を見ようとせず、面倒事を避けるために『病死』として片付けようとした大人たち。
誰よりも優しさを知っていたはずのユウは、その醜い事勿れ主義の中で心を傷つけられ、やがて数年後、絶望の中で死んでいった。
(父さん、ユウ……俺は……)
私は両手で顔を覆い、胸の底へ溜まった泥を吐き出すように、深いため息を漏らした。
その時だった。
――ブブッ、ブブッ。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
登録しているSNSから届いたプッシュ通知だった。
私は無造作にスマートフォンを取り出し、画面を開いた。
その瞬間、表示された文字へ目が釘付けになった。
一つではない。
二つでもない。
次々と通知が飛び込み、瞬く間に画面全体を埋め尽くしていく。
『テロ主犯格から日本中へ声明動画が配信開始』
全身の血の気が引いていった。
私は震える指で、通知に添付されていたリンクをタップした。
強制的に動画が再生される。
画面には不気味なシンボルマークが映し出され、【椅子に座りますか】先ほど地下駐車場のモニター越しに聞いたカラスの地声ではなく、これまで何度も聞かされてきた、あの冷酷な機械音声が響き渡った。
『――日本国民の皆さんに告ぐ。これより、特等席に座る者たちを清算する、最大のプロジェクトを開始する。日本中の皆さん、あなた達は今、幸せですか?』
動画から流れた第一声に、私は微かな違和感を覚えた。
以前の声明や、私へ直接語りかけてきた時のカラスは、もっと人間を小馬鹿にしたような、ゲームそのものを楽しむようなシニカルな口調だった。
だが、今流れている機械音声の奥には、それとは違う何かがある。
ひどく静かで、張り詰めた感情。
押し殺された悲しみのようなものが、言葉の底に漂っていた。
『幸せだと思ったあなたに伝えたい。あなたが幸せと感じている今この時も、苦しんでいる人がいることを。
今の時代、物価は上がり、会社が潰れ、働くことすらできない人がいる。
家族にご飯を食べさせるために、物を盗んで生きる者すらいる。それを知っても、あなたは幸せですか?
昔はよかった。物価も安く、物も買えた。それが今どうですか。買いたいものも買えず、苦しむ人が多くなっている。……なぜ、こんな時代になった?』
私は息を呑んだ。
ただのテロリストの狂言とは思えなかった。
飢えた者。
社会から見捨てられた弱者。
自分ではどうにもならない事情によって生活を壊された人間たち。
その者たちへ向けられた、悲痛なほどの同情と悲しみが、声明の根底を流れている。
『私は思う。例えば……あなたは今、電車の椅子に座っているとしよう。
目の前に、身体に障害を持っている人が立った時。あなたは、その人に席を【譲る優しさ】を持てますか?』
