椅子に座りますか

 私の絶叫が、埃っぽい廃ビルの広い空間へ反響した。

 隣では日下部が、
「え……? 情報屋……?」
と呆然と呟いている。

 それまでモニターから流れ続けていた無機質な機械音声が、ぴたりと止まった。
 数秒間、異様な静寂が続いた。

 そして、スピーカーから短いノイズが走った直後、今度は加工されていない声が聞こえてきた。

『――ふふっ。おめでとう、真下刑事。やっと気づいたね』
 それは、感情のない機械音声ではなかった。
 どこか楽しげで、それでいて不気味なほど落ち着き払った、若い男の地声だった。

 正体を見破られてなお隠そうともせず、まるで長いゲームをようやくクリアした相手を祝福するかのような、その傲慢な響きに、私は奥歯を強く噛み締めた。

「ふざけるな……! なぜこんな真似をする! なぜ無関係な市民の首に爆弾を巻いて、俺たちを弄ぶ!」

『……怒ることはないだろう、真下刑事』
 カラスが、静かながらも凍りつくような冷たさを帯びた。
『君だって、もうこの国の警察の腐敗も、政治の薄汚い闇も、嫌というほど知ったはずだ。……君の義父である修造が、なぜ死ななければならなかったのかもね』
「……っ!!」
 親父の名前を口にされた瞬間、全身の血が沸騰した。

『綾瀬管理官からも聞いたはずだ。……私たちの団体は、狂った爆弾魔などではない。久我たちのような特等席の連中や、警察の事勿れ主義によって地獄に突き落とされ、泣き寝入りを強いられてきた者たちの【集合体】だ』

 カラスの声には狂気があった。
 だが同時に、その狂気を支える理屈には、悲痛なほど整然とした『正義』が存在していた。

『私たちは、君の親父さんや綾瀬さんの無念を晴らそうとしているんだ。……真下刑事。君の銃口が向くべき本当の敵は、私たちなのかな?』
「黙れ……! 親父の正義を、お前たちの人殺しの言い訳に使うなッ!!」

 私が怒鳴りつけると、カラスは短く息を吐いた。

『残念だよ』

 続いて声のトーンが一段低くなり、底知れない凄みを帯びた。
『まあいい。君の理解を得られなくても、計画は進む。……近い内に、日本中に声明を流す。この腐りきった国を終わらせる、最大の計画をね』

 モニターの中では、爆弾の首輪を巻かれた人質が、なおも絶望の声を上げて泣き叫んでいる。

『楽しみにしていてくれ、真下刑事。……また会おう』

 ブツン、と一方的にモニターの電源が落ちた。
 廃ビルは、再び重苦しい暗闇と静寂に包まれた。

「真下さん……俺たち、どうすれば……」
 日下部が、床に置かれた黒いアタッシュケースを見下ろしながら、震える声で呟いた。

 暗闇の中で、私は拳を強く握り締めていた。

 テロリストたちが掲げる、悲痛な大義名分。
 特等席の連中によって人生を壊された者たちの憎しみ。

 そこに理解できる感情が一片もないとは言えない。
 だが、どんな理由があろうとも、無関係な人間を人質に取り、恐怖によって他人を支配し、人の命を奪わせるやり方だけは、私は絶対に認めない。

 近い内に、この日本全体を揺るがす最大のテロについて、犯人側から声明が出される。

 親父が遺してくれた『泥臭い正義』を胸に、私はこの巨大な闇と狂気に、最後まで抗い続けることを改めて誓った。

 日下部を安全な場所へ帰したあと、私は一人で車を走らせた。
 向かった先は、秋葉原の裏路地にある雑居ビルだった。

 警察のシステムを使えない今、私に残されている手掛かりは、あの男がかつていた『現場』しかない。

 地下二階へ続く薄暗い階段を下り、重い防音扉の前へ立った。
 一度だけ深く息を吐き、それから力を込めて扉を押し開けた。

 いつもなら、目に刺さるような青白いモニターの光と、排熱ファンの低い重低音、そしてエナジードリンクの甘ったるい匂いが立ち込めているはずの空間だった。

 だが、今の部屋は不気味なほど静まり返り、深い闇に包まれていた。
 機材や無数のケーブルは、そのまま残されている。

 しかし、主の姿だけがない。

 空気は冷たく淀み、すでに何日も人が出入りしていないことが肌で分かった。
 私は懐中電灯の明かりを頼りに、部屋の中央に置かれたデスクまで歩み寄った。

 並べられた複数のモニターのうち、一台のメインパソコンだけがスリープ状態のまま残されている。

 マウスを動かす。

 真っ黒だった画面が青白く光り、パスワード入力のプロンプトが表示された。
 私はキーボードへ手を置き、迷うことなく文字を打ち込んだ。

【sakura】
 エンターキーを叩く。
 ――『Access Denied(アクセス拒否)』

 赤い文字が画面上で点滅し、冷酷なエラー音が静寂の部屋に響いた。
「……なら、これか」

 私は再び指を動かした。
【karasu】
 ――『Access Denied』

「……クソッ」
 短く悪態をつき、キーボードから手を離した。

 天才ハッカーであるカラス――いや、あの冷酷なテロの主犯が、同じパスワードを使い回すような甘い真似をするはずがなかった。

 私がここへ来て、『sakura』や『karasu』という文字列を打ち込むことさえ、最初から見越していたのかもしれない。

 画面の向こうに存在する見えない壁から、
『お前はもう用済みだ』
 と嘲笑われているような、底知れない無力感が込み上げてきた。

 パソコンから情報を引き出すことを諦めた私は、懐中電灯を咥え、デスクの引き出しや、部屋の隅に積み上げられた段ボールの中を手当たり次第に漁り始めた。

 デジタルの世界に生きるカラスのことだ。物理的な証拠など残しているはずがない。

 そう思っていても、何もしないではいられなかった。
 その時、キャビネットの一番下の引き出しを開けた私の手が止まった。
 奥に、一通の古びた茶封筒が無造作に放り込まれていた。

 中には、数枚の紙が束ねられている。
「これは……」
 取り出して目を通した瞬間、私はその場で動きを止めた。
 そこに記されていたのは、ある一人の男についてまとめられた詳細な経歴だった。

 生い立ち。

 過去の犯罪歴。
 そして、刑務所での服役記録。
 添付された顔写真には、はっきりと見覚えがあった。

 間違いない。

 二年前、カラスがサイバー空間から足取りを完全に追跡してくれたにもかかわらず、現場へ向かった私が僅かに遅れたせいで、すんでのところで取り逃がした、あの凶悪な脱獄犯だった。

「なぜ、今更こいつの資料が……?」

 書類には、男が幼少期に親から受けていた虐待の記録や、社会への憎悪を募らせ、やがて犯罪へ手を染めていった過程まで、まるで長年の観察日記でもあるかのように細かくファイリングされていた。

 私は眉間に皺を寄せ、その資料を何度も読み返した。
 カラスは、私が取り逃がしたあとも、ずっとこの脱獄犯の行方を単独で追い続けていたのか。

 なぜ。
 何のために。
 理由はまったく分からなかった。