椅子に座りますか

「……あの、真下刑事の、ご家族の方でしょうか」
 不意に、背後から遠慮がちな、震える声が聞こえた。

 顔を上げると、斎場の入口に一人の女性が立っていた。喪服ではなく、地味な平服姿だった。その傍らには、小さな男の子が彼女の手をぎゅっと握り締めながら立っている。

「……あなたは?」
 日下部が尋ねると、女性は私たちの顔と修造の遺影を交互に見つめたあと、その場でぼろぼろと泣き崩れた。

「私……あのビルで、真下さんに助けていただいた者です。どうしても、お線香をあげさせていただきたくて……」

 あの時、親父が炎の中から抱え出してきた親子の母親だった。

 彼女は修造の遺影の前まで進み出ると、床へ額がつくほど深く頭を下げ、嗚咽を漏らしながら何度も何度も「ありがとうございました」と繰り返した。

 私は空虚な心のまま、その背中を見つめていた。
 親父の行動は間違っていなかったのだと、彼女の涙が証明してくれている。

 それでも、私の心は晴れなかった。

 その時、母親の隣に立っていた男の子が、不思議そうに斎場の中を見回し、修造の遺影を指差した。

「お母さん、あのおじちゃんは?」
 その無垢な問いかけに、母親は言葉を詰まらせ、肩を震わせながら再び泣き伏してしまった。

 私も胸を強く締めつけられ、うまく息ができなくなった。
「……ぼく、おじちゃんに言われたんだ」
 男の子は修造の遺影を真っ直ぐに見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「煙がいっぱいで、ドアも開かなくて、みんな泣いてた時……おじちゃんが、ぼくの頭を撫でてくれたの。……『大丈夫だぞ! 絶対に助けるから、お兄ちゃんは、お母さんの手を握って、安心させてあげなさい』って」

 その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。

「だからぼく、お母さんの手をずっとぎゅって握ってたんだよ。そしたらね、急にドアが開いて、お髭のおじさんが来てくれて……みんなでお外に出られたの」

 男の子の目に涙はなかった。
 そこにあったのは、小さな誇りだった。

「お外に出た時、おじちゃんがぼくに言ってくれたんだ。『お兄ちゃん! よく頑張った! 凄いな! お母さんを守ったな!』って。……ぼく、お母さんを守れたんだよ」

 その瞬間、枯れ果てていたはずの涙が、堰を切ったように私の目から溢れ出した。
 長官の言葉が脳裏に蘇る。
『ただ命を助けただけじゃ、恐怖は消えない。命を大事にするとは、被害者の恐怖を和らげる行動だ』

 親父は、死の恐怖に怯えていた小さな男の子へ、『お母さんを守る』という役割を与えたのだ。

 ただ助けられるだけの存在ではなく、誰かを守る存在として立たせた。
 そのおかげで、この子は恐怖の中でも母親の手を握り続けることができた。

 そして、生還したあとに残ったのは、『怖かった』という記憶だけではなく、『自分は、お母さんを守った』という誇りだった。

 一生残るかもしれなかった恐怖を、親父は自らの命を削る極限状態の中で、温かい『誇り』へと変えてみせたのだ。

 親父の正義は、死んでいなかった。

 誰かを想い、命を大切にするその温かな魂は、この小さなヒーローの中に、確かに受け継がれて生きている。

「……ああ、そうか……。そうだよな、親父……」

 私は松葉杖から手を離し、不格好に床へ崩れ落ちながら、声を上げて泣いた。
 それは、絶望の涙ではなかった。
 冷え切っていた私の心へ、親父のあの不器用で温かい笑顔が、確かな熱を伴いながら戻ってきたのだ。

 ひとしきり泣いたあと、私は顔を上げ、涙を拭った。
 その時だった。
 男の子が口にした、ある一言が頭の中に引っかかった。

『急にドアが開いて、お髭のおじさんが来てくれて……』

 あの四十階の防爆扉は、強固なシステムエラーによって完全に電子ロックされていたはずだ。

 私の脳裏に、猛煙の中で、絶対に開かないはずの扉を瞬時にハッキングして私を逃がしてくれた『無精髭の清掃員』の姿が鮮明に蘇った。

 あれほど強固な電子ロックを、僅か数秒で解除できる人間。
 そんな人物は、この要塞の裏側とセキュリティを知り尽くしている『テロリスト側の人間』くらいしか考えられない。

「……どういうことだ」
 私は震える手で顔を覆った。

 もし、あの無精髭の男が連続爆弾魔の一味だったとするなら、なぜテロリスト側の人間が、自分たちの計画を阻止しようとしている警察官である私や親父の命を、あれほど危険を冒してまで救おうとしたのか。

 分からない。
 何も分からなかった。

 久我家の闇。
 警察組織の腐敗。
 綾瀬の狂気。

 そして、親父と私を助けた無精髭の男の正体。
 私は修造の遺影を、今度はしっかりと顔を上げて見つめた。

 雨音の響く斎場の中で、胸の奥に決して消えることのない『巨大な謎』と、親父の魂を受け継いだ『執念の炎』が、再び力強く燃え始めていた。

* * *

 数日後、降り続いていた雨がようやく上がり、雲の隙間から薄い陽光が差し込んでいた。

 私は実家へ戻り、義母と共に親父の遺品を整理していた。

 古びた革の警察手帳、何年も履き続けてすり減った革靴、そして何度も書き直された跡が残る捜査ノート。どれも親父の不器用で泥臭い生き様そのもので、手に取るたびに胸の奥が強く締めつけられた。

「……お父さん、本当に物を捨てない人だったから」
 母は寂しそうに微笑みながら、古い段ボール箱から書類を一つずつ取り出していた。

 その時、母の手がふと止まった。
 箱の底から、一通の分厚い茶封筒を取り出したのだ。

 母はしばらくその封筒を見つめたあと、静かに私へ差し出した。

「これ……お父さんから、ジョウに」
「俺に……?」
「ええ。『もし俺に何かあった時は、これをジョウに渡してくれ』って、言われていたの」