椅子に座りますか

 数日後、冷たい小雨が降りしきる中、都内の小さな斎場で、義父・真下修造の葬儀がひっそりと執り行われていた。

 祭壇の中央では、修造が遺影の中でいつものように微笑んでいる。

 しかし、その前に並べられたパイプ椅子はあまりにも多くが空いたままで、その寂しさがかえって胸へ重くのしかかってきた。

 炎の中へ自ら飛び込み、市民を救い出した英雄として、本来なら盛大な警察葬で見送られてもおかしくない人間だ。それなのに、斎場にいるのは私と日下部、そしてかつて修造に世話になった数名の老刑事たちだけだった。

「……クソが。総監の野郎、あからさまな嫌がらせをしやがって」
 日下部が、忌々しそうに吐き捨てた。

 久我派閥の犬と化している『警視総監』は、大鳥官房長官を殴り飛ばした私への報復として、『真下修造の葬儀には、本庁の人間は一切参加してはならない』という非公式の箝口令を敷いていたのだ。

 線香の煙が静かに揺れる中、私は松葉杖をついたまま、自責の念に押し潰されそうになっていた。あの時、私が感情を抑えきれず大鳥を殴ったせいで、親父の葬儀までこんな寂しいものにしてしまったのではないか。その思いが、何度も胸を締めつけた。

 その時だった。

「……真下さん。誰か来ましたよ。本庁の連中ですかね?」
 日下部が斎場の入口を見て、怪訝そうに声を上げた。

 ザーザーと雨の降る中、一台の黒塗りの公用車が静かに敷地へ滑り込んできた。やがて後部座席のドアが開き、黒い傘を差した初老の男が一人で降り立つ。

 仕立ての良い漆黒の喪服に身を包み、鋭く、それでいて深い知性を感じさせる眼差しを持った男だった。その人物が雨の中をゆっくりとこちらへ歩いてくる姿を見た瞬間、日下部が「嘘だろ……」と息を呑み、反射的に直立不動になった。

 日本全国三十万人の警察官の頂点に立つ、絶対的なトップ――『警察庁長官』だった。

 長官は私たちの前で静かに立ち止まると、わずかに頭を下げた。
「……寂しい式にしてしまったな、真下くん。総監の卑劣な圧力とはいえ、すまないことをした」

 それだけ告げると、長官は真っ直ぐに修造の遺影へ歩み寄り、深く、本当に深く頭を下げて焼香を行った。日本の警察組織の頂点に立つ男が、一人のヒラ刑事に対して、誰よりも深い敬意を示していた。

 焼香を終えた長官は、ゆっくりと私のもとへ歩み寄った。
「私がまだ本庁の若手キャリアだった頃……君の親父さんから、決して忘れられないことを教わったんだ」

 長官は修造の遺影を見つめたまま、懐かしむように目を細めた。
「『警察は人を助けるのが仕事だ。だが、年数を重ねるごとに、いつの間にかそれが“当たり前の作業”になっちまう時がある。だがな、ただ命を助けただけじゃ、被害者の心の中にある恐怖は消えねえんだよ』……とな」
「恐怖……」
「そうだ」

 長官は静かに頷いた。
「君の親父さんは、こう続けた。『俺たちは、警察である前に、人として“命を大事にする”ことを忘れちゃならねえ。一人の命を大事にする……言葉にするのは簡単だが、これを行動に移すのは難しい。だが、その意識を持った一つの行動が被害者に伝われば、その恐怖を和らげることができるんだ』と」

 長官の声には、わずかに熱が宿っていた。
「修造さんは、それを常に現場で、自分の生き方そのものとして行動で示してきた。私に『人を人として見る目』を教えてくれた、生涯の恩師なんだよ」

 そして長官は、今度は私の目を真っ直ぐに見つめた。
「真下くん。君の処分を、『懲戒免職』から『無期限謹慎』へ強引に捻じ曲げたのは、私だ」
「……っ!」

 思わず息を呑んだ。
「官房長官を殴り飛ばした。その行為だけを見れば、罰則上は懲戒免職だ。本来ならな」
「なんでですか?」

 私は思わず問い返していた。
「なんで……俺を見捨てなかったんですか?」
 私の問いかけに、長官は静かに目を伏せた。
「現場にいた者から聞いたよ。官房長官が、亡くなった修造さんの最期を貶したとな。……親を貶されて、黙っていられるはずがないだろう」

 長官は再び私を真っ直ぐに見据え、その言葉に確かな熱を込めた。
「だから君のバッジは、私が守った。……絶対に腐るな。父が命を懸けて守ろうとした正義を、ここで終わらせてはならない。謹慎が明けたら、必ず久我たちの闇を暴け。」

 長官の言葉は、ひどく熱く、そして重かった。
 本来なら、ここで力強く頷き、敬礼を返すべきなのだろう。隣に立つ日下部は、すでに涙を拭いながら直立不動の姿勢を取っていた。

 だが、私はどうしても顔を上げることができなかった。
 胸の奥では、どろどろとした黒い感情が渦巻いている。それなのに、頭の中はひどく麻痺していて、何も考えられない。

 親父の信念が長官に届いていた。
 私の拳を理解してくれた。
 バッジまで守ってくれた。

 それが、どうしたというのだ。

 親父は、もういない。

 私が大鳥の顔面をどれだけ殴り飛ばしたところで、久我の闇をどれほど暴いたところで、失われた命は二度と戻ってこない。長官の立派な言葉すら、今の私にはどこか遠い世界の話のように、空虚に響いていた。

 私は松葉杖を強く握り締めたまま、ただ深く俯き続けた。
 長官は、それ以上何も言わなかった。私の肩を二度、軽く叩くと、静かに斎場を後にした。

 冷たい雨の音だけが、空っぽになった私の心へ残酷に響き続けていた。涙さえ枯れ果てた目で床を見つめながら、私は泥のように重く、どこにもぶつけようのない『やりきれない感情』に全身を蝕まれていた。