椅子に座りますか

「……親父」

 その時になって初めて、本当に自分がここで死ぬのだと思った。

「親父……」

 どうせ死ぬのなら、このまま何もせず焼け死ぬのだけはごめんだった。

 私は傷ついた右脚を引きずり、壁へ血の跡を残しながら、瓦礫へ背を向けて再び煙の充満する通路を歩き始めた。

 どこかに別の出口はないか。
 従業員用の裏通路でも構わない。

 僅かな希望だけを頼りに、よろめく足取りで暗闇を彷徨った。
 だが、現実は残酷だった。
 見つけた扉のノブを回しても、びくともしない。従業員用のドアも、非常用エレベーターの扉も、すべて電子ロックが作動しており、完全に封鎖されていた。

「クソッ……開けろよ……ッ!」

 血塗れの手で扉を叩いたが、返ってくるのは硬質な金属音だけだった。
 もう限界だった。
 右脚の激痛はとうに感覚を失い、大量の出血と酸欠によって意識も朦朧としている。私は扉へ寄りかかったまま、ずるずると冷たい床へ滑り落ちた。

 黒煙が視界を完全に奪い、周囲で燃え盛る炎の音さえ、次第に遠ざかっていく。
 これが、私の最期なのか。
 泥臭い正義を貫けと教えてくれた親父の顔が、瞼の裏へ浮かんだ。
 私が完全に意識を手放しかけた、その時だった。

 ガチャンッ。

 背後で、絶対に開くはずのない電子ロックの扉が、不意に軽い音を立てて開いた。
 私は驚き、重い頭を持ち上げた。
 黒煙を切り裂くようにして、一人の男が姿を現した。

 無精髭を生やし、帽子を目深に被り、サングラスで顔を隠している。
 先ほど展望ホールで、ケータリングの台を片付けていた、あの『清掃スタッフ』だった。

 男は息も絶え絶えの私を見下ろすと、何も言わないまま腕を掴み、自分の肩へ回させるようにして強引に立ち上がらせた。

 言葉はない。

 だが、その腕からは、私を絶対に生かして帰すという強い意志と、切迫した焦りが伝わってきた。

 男は私を抱えるようにしながら、自分が出てきた扉の向こう側へ導いた。

 そこには、外部へ通じる細いダストシュート用のメンテナンス階段が延びていた。
 さらにその先には、もう一枚の分厚い防爆電子扉が立ちはだかっている。

 男は扉の前へ立つと、ポケットから小型の黒いデバイスを取り出し、電子ロックのテンキー下部にあるポートへ無造作に接続した。

 液晶画面には、無数のコードが滝のように流れ落ちていく。
 男はパスワードを入力することすらなく、僅か数秒の処理だけで、強固なセキュリティシステムそのものをいとも容易く上書きしてしまった。

 ガチャンッ!

 赤く点滅していたランプが緑色へ変わり、重厚な扉が音を立てて開いた。

「……なっ!?」

 私は思わず目を見開いた。

 ただの清掃員が、これほど強固な電子ロックを一瞬で突破できるはずがない。
 男は重い扉を蹴り開けると、私をその向こう側――安全な下層階へ続く階段の踊り場へ押し込んだ。

 そこは、炎も煙も届かない、冷たく静かなコンクリートの空間だった。
 私は床を這うようにしながら、何とか階段を下りようとした。

 だが、男は扉の枠へ手を掛けたまま、その場を動かなかった。
 その仕草を見た瞬間、私は悟った。
 この男は、私と一緒に逃げるつもりがない。

「待ってくれ! あんたも一緒に……!」

 私は激痛に耐えながら叫んだ。
 男はサングラスの奥で、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
 そして、今日初めて口を開いた。

「あなたは生き延びてください」

 静かで、それでいて確かな温もりを持った声だった。

 それだけを告げると、男は私を階段へ残し、自らは再び煙の充満する四十階のフロアへ身を翻した。そして、外側から重厚な扉を閉じた。

 ガチャン、と冷たい金属音が響く。

「待て! 開けろ!! なぜ俺だけを……ッ!」

 私は階段の踊り場へ倒れ込み、天井から降り注ぐ粉塵と瓦礫の中で、とうとう意識を失った。

 最後に脳裏へ残ったのは、炎の中へ再び戻っていった、あの清掃員の背中だった。

 逃げ遅れた者たちを救うため、自ら煙の向こうへ消えていった、悲しげで、それでも強く、優しい背中だった。

* * *

 深い暗闇の底から、荒々しい息遣いが聞こえてきた。
 同時に、身体を強引に背負い上げる力強い腕の感触が、私の意識を少しずつ現実へ引き戻していく。

「……真下さん! 死ぬな! しっかりしてください!!」

 顔に降り積もった厚い粉塵に咽せながら重い瞼を開けると、そこには煤で顔を真っ黒にし、汗でぐしゃぐしゃになった日下部の横顔があった。

 彼は防毒マスクすら着けず、意識を失った私を背中へ担ぎ上げ、崩落の続く非常階段をふらつきながら必死に下りていた。
 
 周囲にレスキュー隊も、他の警察官もいない。

 たった一人だった。

「……くさか、べ……お前、一人で……?」
「喋らないでください! 煙を吸いますよ!」
「……おや、じ……親父は……!」
「俺一人じゃどうにもならないです……! すみません、真下さん……ッ!」

 日下部は悔し涙を流しながら、私を背負ったまま階段を下り続けた。
 やがて一階へ辿り着くと、非常口を開ける。
 ビルの外へ飛び出した瞬間、刺すような日差しと、数十台の消防車が放つ赤色灯の海が視界へ飛び込んできた。

「生存者だ! 早くストレッチャーを!!」

 待機していた救急隊員たちが一斉に駆け寄ってきた。
 私と日下部は、そこでようやく崩れ落ちた。

 ストレッチャーへ乗せられた私は、首だけを動かし、『ネオ・トウキョウ・セキュリティタワー』を見上げた。

 最上層部は、今や真っ黒な噴煙と紅蓮の炎を天高く吹き上げる、巨大な火柱と化していた。

「……あ、あぁ……」

 絶望で、声さえ出なかった。
 その時だった。

「――おい! 非常口からまた誰か出てきたぞ!! 生存者だ!!」