椅子に座りますか

 権力者の身内であれば、人の命を奪っても無罪放免になるのかと、新米だった私が強烈な吐き気と理不尽さを覚えたあの事件。

 まさか、あの時の被害者が……!

「や、やめろ……! 私はこの国の官房長官だぞ! 警察官が私に何を……!」
「私が本当に絶望したのは、腐りきった警察組織だけではない」

 綾瀬の声が震え始めた。

「正義を気取るマスコミも、お前の権力へ平伏し、事件を一切報じなかった。世間の愚民どもは、一人の少女が無惨に轢き殺されたことなど知る由もなく、今日もテレビを見て、何事もなかったように笑っている!」

 綾瀬の表情が、初めて大きく歪んだ。

「……私の娘はな、大鳥。あの日、私の誕生日プレゼントを買った帰り道、横断歩道でお前の息子の車に撥ねられたんだよ!!」

 長年押し殺してきた痛みを吐き出す、獣のような咆哮だった。

「あの連中も、マスコミも、権力者も……娘の悲劇を黙殺し、見殺しにしてきたこの国そのものに、絶望したよ!」

 綾瀬の声に、限界まで膨れ上がったどす黒い憎悪が満ちていく。 大鳥の眉間へ、銃口がさらに深く押し当てられた。

「馬鹿野郎!!」
 修造が一歩踏み出し、血の涙を流すような声で叫んだ。

「お前がそんな殺人鬼に成り下がって、天国の娘さんが喜ぶと思うのか! 娘さんがお前に望んでいたのは、そんな血みどろの復讐じゃないはずだ!」

「……ええ。娘は望んでいないでしょう」

 綾瀬の口元が、悲しそうに歪んだ。
 彼は大鳥の眉間へ銃口を押し当てたまま、空いた左手でズボンの懐から銀色の『懐中時計』を取り出した。あの日、娘が買ってくれた誕生日プレゼントだ。

 カチャリ、と親指で蓋を開ける。
 盤面のガラスは無残にひび割れ、針はある時刻を指したまま完全に沈黙していた。娘が車に撥ねられた、まさにその時刻だ。

「ですが、私が望んでいるのです」

 綾瀬は割れた盤面を見つめ、ひどく静かな声で紡いだ。

「撥ねられた衝撃で、この時計の針はあの時刻から微動だにしない。……私の時間も、あの時からずっと止まったままなのです。私の魂は、娘が死んだあの日にすでに終わっている。この腐りきった男の脳天へ鉛の弾を撃ち込むためだけに、私は十年間、組織の犬として這いつくばってきたのだから」


 綾瀬の人差し指が、ゆっくりと引き金へ掛かった。
 大鳥は床へ額を擦りつけながら、
「ひぃぃッ! 助けてくれ! 金ならいくらでもやる! 頼む、撃たないでくれ!」
と、醜悪な命乞いを繰り返していた。

「終わりだ、大鳥。お前のその薄汚い血で、娘への手向けとさせてもらう」

 綾瀬の指が、完全に引き金を絞り込もうとした。

「やめろッ!!」

 私は思考よりも早く、無意識のうちに床を蹴っていた。

 目の前にいる大鳥が、どれほど腐りきった外道であるかは分かっている。

 だが、それでも警察官として、目の前で命が奪われるのを、ましてや尊敬する先輩刑事が殺人鬼へと堕ちるのを、見過ごすことなどできなかった。

 私は自らの身体を投げ出し、大鳥と綾瀬の間に割って入った。
 両手を広げ、大鳥の盾となった私へ、綾瀬は血走った目を向けた。

「真下、どけッ!」
「だめです、綾瀬管理官!」

 私の絶叫に、綾瀬の顔が激しい怒りに歪む。

「そこを退けと言っている! そんな外道を生かして、この国が良くなると思うか!」
「違う!」

 私は銃口を向けられたまま、一歩も退かずに叫び返した。

「俺は、大鳥なんかを守ってるんじゃない……俺は、あなたを守ってるんだ!」

「……な、に……?」

 極限まで張り詰めていた綾瀬の表情が、ハッと弾かれたように変わった。

「綾瀬管理官! 俺はあなたに……殺人犯になってほしくないんだ!!」

 私の叫びが、密室の空気を震わせた。

 その言葉は、十年もの間、復讐という暗闇の中に閉じこもっていた綾瀬の心へ、確かに真っ直ぐ突き刺さったようだった。

 狂気に囚われていた綾瀬の濁った瞳が揺らぎ、やがて、その腕からゆっくりと力が抜けていく。

 向けられていた漆黒の銃口が、完全に下へ降ろされた。

 綾瀬は私から視線を外し、傍らで息を呑む親父へ目を向けた。
 その口元に、狂気ではない、昔のような不器用な苦笑いが浮かんだ。

「……血は繋がっていなくても、やっぱり修造さんの子供ですね」

 親父が目を見開き、何かを言いかけた。

 その、まさに瞬間だった。

 メキメキメキッ……ドドォォォォォンッ!!!!!

 突如として控室の床が、激しく跳ね上がった。
 凄まじい轟音と共に、天井が崩落を始める。

 先ほど綾瀬自身が、大鳥の退路を断つために起こしたエレベーターの爆発。そのダメージが建物へ想定以上の負荷を与え、構造躯体の一部を限界まで追い込んでいたのだ。

 天井のコンクリートへ走っていた亀裂が、一気に大きく裂けた。
 数トンにも及ぶコンクリート塊と巨大なH鋼が、私たち三人の頭上へ轟音と共に降り注ぐ。

「親父ッ!!」
 私が絶叫した、その刹那。

 私と言葉を交わし、完全に人間の心を取り戻していた綾瀬の身体が、本能のままに動いた。
 両手を突き出し、こちらへ飛び込もうとしていた修造の胸板を、渾身の力で突き飛ばしたのだ。

「……ッ!」

 修造の大きな身体が後方へ吹き飛び、ガラステーブルを粉砕しながら床を転がった。

 同時に、大鳥を庇うように立ちはだかっていた私の足にも、凄まじい衝撃が走った。

ドッシャァァァァンッ!!!

「ぐあああああッ!!」

 肉を深く抉られる激痛が、一瞬で脳天まで突き抜けた。
 私は大鳥へ覆い被さるようにして、その場に崩れ落ちた。

 天井から剥がれ落ちた鋭利な鉄骨の破片が、私の右脚のふくらはぎを深く切り裂き、そのまま大理石の床へ突き刺さっていた。ずたずたに裂けたスラックスの間から鮮血が溢れ、床を赤く染めていく。

 そして、もうもうと土煙が立ち込める中。
 綾瀬は、下半身と腹部を巨大な鉄骨に完全に挟み込まれ、口から大量の血を吐きながら床へ倒れ伏していた。

「綾瀬ぇぇぇッ!!」