椅子に座りますか

「ひぃぃッ! ば、爆発まで!? エレベーターが……退路が塞がれたぞ!」
「落ち着いてください。ここは私に任せて、長官は奥の防弾控室へ避難を!」

 大鳥が怯えて縋りつく中、綾瀬は郷田や他のSPたちへ鋭く指示を飛ばした。
 銃撃と、逃げ道を完璧に塞ぐような計算された爆発。

 綾瀬は大鳥を庇うようにしながら、ホール裏手にある重厚な扉――専用の特別控室へと連れ込んでいった。

 私も久我を護衛しながら、牽制のため拳銃を構え続けていた。

 その時だった。
 混乱する群衆の中に、見慣れた大きな背中が飛び込んできた。

「……親父!? どうしてここに!」
「ジョウ! 綾瀬はどこだ!!」

 修造はパニックに陥った群衆をかき分け、血走った目で周囲を見回していた。

「銃撃犯が現れたから、大鳥長官を連れて、あっちの特別控室に……! エレベーターも爆破されて、逃げ道が塞がれています!」

 私が方向を指し示した瞬間、修造の顔色が変わった。

「クソッ……!」

 修造は長年現場を踏んできた刑事の勘で即座に最悪の事態を悟り、パニックに陥る群衆をかき分けながら怒声を飛ばした。

「ジョウ、よく考えろ! この最新鋭の要塞へ、素人同然の連中が何人も銃を持ち込めるはずがねえ! ミリ波レーダーを素人が抜けられるか!」
「まさか……」
「警備の中枢にいる人間が、警察の権限を使って事前の機材搬入に紛れ込ませ、トイレの個室にでも隠して連中に拾わせたんだよ! そしてさっきのエレベーターの爆発もだ!」

 修造は血走った目で私を振り返り、全速力で走り出しながら叫んだ。

「ただの無差別テロじゃねえ! 退路を塞ぎ、大鳥をあの密室へ誘導するための『罠』だ! テロリストと繋がっている警察内部の人間――綾瀬が手引きしてやがったんだ!」

 その鋭い言葉を聞いた瞬間、私の背筋を氷のような悪寒が駆け抜けた。

「あいつを止めなきゃならねえ!!」

 修造はSPの制止を振り切り、綾瀬と大鳥が消えた控室へ向かって全速力で走り出した。

「親父、待ってくれ!」

 私は久我の護衛を郷田に任せ、修造の後を追って、パニックの渦巻くホールへ飛び込んだ。

 やがて、控室の重厚な金属扉へ辿り着く。 修造は躊躇することなく、金属製のノブへ手を掛けた。 ガチャリ、と硬質な音が鳴る。 内側から完全に施錠されていた。
「下がれ、親父! 跳弾に気をつけろ!」

 私は素早く腰のホルスターから拳銃を抜くと、ノブの根元へ銃口を押し当てた。  迷うことなく、引き金を二度、連続で引く。
 パンッ! パンッ!!

 鼓膜を劈く銃声と共に火花が散り、至近距離から放たれた鉛の弾丸が、内部のロック機構を無残に砕き割った。 ガコン、と鈍い音を立てて施錠が外れる。 修造がすぐさまノブを回し、勢いよく扉を開け放った。

 私と親父が室内へ飛び込む。

 そこで目にしたのは、外で続いている銃声や悲鳴から完全に切り離された、凍りつくような静寂だった。

 壁一面へ吸音パネルが張られた、特別控室。 革張りのソファ。 磨き抜かれたガラステーブル。

 外界の混乱が嘘のような静寂に包まれた部屋の奥で、大鳥官房長官が床へへたり込み、滝のような脂汗を流しながら震えていた。

「助けに来てくれたか!」

 扉を開けて現れた私たちを見て、大鳥がすがりつくように叫んだ。
 大鳥の安堵の声は、ひきつった悲鳴に変わり、喉の奥で凍りついた。

 彼を守るべき存在である綾瀬管理官が、突入してきた私たちに目もくれず、完璧に整えられていたスーツのジャケットのボタンを、一つずつ狂気的なほど丁寧な手つきで外し始めたからだ。

 脱ぎ捨てられた上着が、音もなく床へ落ちる。

 大鳥が本能的な恐怖に駆られ、這いつくばったまま後ずさった。
 綾瀬の瞳に宿っていたものは、本庁のエリート指揮官としての冷徹な理性ではなかった。

 地獄の底で煮えたぎらせ、誰にも見せることなく隠し通してきた、どす黒い怨念の業火だった。

「綾瀬……! お前、何を……」

 修造が踏み込もうとした瞬間、綾瀬は懐から漆黒の拳銃を抜き、スライドを引いた。

 銃口が、大鳥の眉間へ真っ直ぐに突きつけられた。

「やめろぉぉぉッ、綾瀬!!!」

 修造の怒声が部屋を揺らした。
 私も即座に腰の拳銃を抜き、綾瀬へ銃口を向けた。

「銃を捨ててください、綾瀬管理官!」

 綾瀬は大鳥の額へ銃口を押し当てたまま、視線だけを僅かに私たちへ向けた。
 その瞳は、完全に濁っていた。

「……修造さん。真下。邪魔をしないでいただきたい」
 抑揚のない声だった。 綾瀬は再び大鳥を見下ろし、氷のように低い声で紡いだ。
「十年前のひき逃げ事件……覚えているか、大鳥!」
 一語一語が、部屋の空気を震わせるほどの重みを持っていた。
「ひ、ひき逃げ……? な、何のことだ。私は知らん! 昔の事故など……!」
「忘れたとは言わせない」

 綾瀬の表情が憎しみに歪む。
「当時、所轄の署長だった私がどれほど証拠を積み上げ、地検や本庁上層部へ掛け合っても、捜査の許可は一切下りなかった。上層部は『証拠不十分』の一点張りで突っぱね、地検は理由も明かさず不起訴にした」

 綾瀬は、絶望した表情で一瞬瞬きをする。

「たった一人の女子高生の命が、あなたの息子の将来と、あなた自身の権力を守るためだけに、紙切れ一枚で闇へ葬り去られたのだ」

(十年前の、ひき逃げ事件……!)

 当時二十二歳、警察官になったばかりだった私の脳裏に、ひどく胸糞の悪い記憶がフラッシュバックした。

 有力政治家の身内が関与した疑いがある死亡ひき逃げ事故。テレビのニュースで一報が流れた直後、圧力が働いたかのようにピタリと続報が途絶え、後日になって『嫌疑不十分で不起訴処分』とだけあっけなく報じられた、不自然極まりない事件だった。