椅子に座りますか

 *  *  *

その数日後。

 事態は、誰にも予測できない唐突さで動き出した。
 私は久我幹事長の『盾』として、都内の大規模な市民ホールへ同行していた。

 この日、久我は自らの派閥の結束が今なお健在であることを世間へ誇示するため、来賓として海堂議員の講演会に足を運んでいた。

『念のため、演壇周辺の空気を嗅いできたまえ。ネズミが紛れ込んでいないかどうかな』

 控室で悠然と葉巻を燻らせる久我の命令を受け、私は事前の安全確認のため、舞台袖の薄暗い通路へ警戒に出ていた。
 間もなく演壇へ立つ海堂は、表向きこそクリーンな政治家を装っているが、裏では久我派閥の黒い金を動かしていると噂される、腐敗した男の一人だった。

 講演会が始まる直前。

 舞台袖の薄暗い通路で、不審な動きをしていた清掃員の男をSPが取り押さえた。
 男が押していた清掃用カートの底を調べると、ゴミ袋の下から小型の指向性爆薬が見つかった。

「離せ! 離してくれぇッ!」

 男は床へ押さえつけられながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、狂ったように叫んでいた。

「俺がこれを仕掛けないと、俺の人生が終わるんだ! 娘の学校も、家の住所も、全部あいつに握られてるんだよ! 頼む、仕掛けさせてくれぇぇッ!」

 その姿を見て、私は言葉を失った。
 ただのテロリストではない。
 目の前にいるのは、どこにでもいる平凡なサラリーマンだった。

 百万人というブラフに騙され、出来心で特設サイトのボタンを押してしまったがために犯人から脅され、十三万人の中からロシアンルーレットのように『爆弾の設置役』へ選ばれてしまった哀れな奴隷なのだ。

「連れて行け!」
 SPたちが男を引きずり、その場から退場させた。
 爆弾は無事に回収された。

 私は、大きく息を吐き出した。
 張り詰めていた全身の筋肉から力が抜け、胸の奥へじんわりと安堵が広がっていく。

(……よかった。最悪の事態は防げた)

 素人を使い捨ての駒にする犯人の手口は恐ろしいが、今回は未然に阻止できた。厳重な警戒態勢が功を奏したのだ。

「海堂議員が入場します!」
 アナウンスと共に、会場へ大きな拍手が湧き起こった。

 海堂議員が満面の笑みを浮かべ、舞台中央へ姿を現した。
 彼もまた、犯人が口にした『フルコース』の一部なのだろうか。
 私はすっかり安心し、舞台袖からその光景を静かに見守っていた。もう脅威は去った。これで今日の演説は無事に終わるはずだ。

 海堂は演壇中央まで歩くと、用意されていた椅子へ、これ見よがしに深く腰を下ろした。

 その斜め後ろには、海堂の第一秘書が分厚い手帳を抱え、恭しく控えていた。

 ふと、その秘書の顔が視界の端に引っかかった。

(……?)

 異常なほど大量の汗をかいている。

 目は海堂の背中と、自分の手元にあるスマートフォンの画面とを、焦点の定まらない狂ったような動きで交互に見つめていた。

 そして、その指先が痙攣するように震えている。

(……まさか!)

 その異様な姿を見た瞬間、先ほどの安堵は完全に吹き飛び、背筋へ強烈な悪寒が走った。

 すべてが繋がった。

 さっきの清掃員は、警備の目をそらし、我々を安心させるためだけの『陽動』だったのだ。

 本命の爆弾は、すでに別の手段で仕掛けられている。そして、あの秘書も……サイトの投票ボタンを押していたのだ。

 自分の雇い主である海堂を心のどこかで疎ましく思い、匿名の安全圏へ隠れたまま、軽い気持ちで『死ね』と投票した。

 百万人の中へ紛れていれば、絶対に自分だと分からない。
 そう信じて参加した結果、犯人に個人情報を握られ、今度は自分自身が脅迫され、『海堂が座る椅子に仕掛けられた本命の爆弾を起爆する役』に選ばれたのだ。

「やめろッ!! そいつから離れろ!!」

 私は舞台袖から飛び出し、絶叫した。
 第一秘書が、びくりと肩を震わせて私を見た。

 その顔には、長年仕えてきた主を殺す罪悪感など微塵も浮かんでいなかった。

 あるのは、自分の身と家族だけは守られるという安堵と、ここまで追い詰められた恐怖が入り混じった、ひどく歪んだ笑みだった。

「……これで、俺は助かるんだ……ッ」

 秘書が、スマートフォンの画面を強くタップした。

 次の瞬間。

 ――ドオォォォォォンッ!!!

 鼓膜を突き破るような轟音が会場全体を揺らした。

 海堂が深く腰を下ろしていた椅子の内部から、数千度のオレンジ色の業火が、火山の噴火のような勢いで一直線に噴き上がった。

「ぎゃあああああッ!?」

 海堂の身体が一瞬で爆炎に飲み込まれ、肉が炭化していく凄まじい閃光が会場を包んだ。

 爆風の衝撃波が客席を薙ぎ払い、最前列の観客たちが悲鳴を上げながらドミノ倒しのように崩れていく。

 スプリンクラーが一斉に作動し、冷たい水が大量に降り注いだ。
 椅子のあった場所は黒焦げとなり、海堂の身体は形を失うほど激しく焼き尽くされていた。

「あ……ああ……ッ」

 激しい耳鳴りの中で顔を上げると、爆心から僅かに離れた場所へ、第一秘書がへたり込んでいた。

 彼自身は、爆発へ巻き込まれず無傷だった。

 手から滑り落ちたスマートフォンを見つめながら、涙と鼻水を流し、狂ったような笑い声を漏らしている。

「助かった……! 俺は約束通りやったぞ! これで俺の家族は晒されない……俺は、助かったんだぁぁッ!」

 その光景を目の当たりにして、寒気で全身の血が凍りつくようだった。
『命令通りに主の命を奪えば、お前だけは確実に守ってやる』

 あの動画で犯人が示した、アメとムチのルール。
 私は床へ這いつくばったまま、焦げた肉の臭いと煙の中で、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。

 なんて用意周到で、悪魔のような手口なのか。
 犯人は、十三万人の奴隷たちをただ単に実行犯として使うだけではない。

 一人は、わざと捕まらせて警察を安心させるための『陽動の捨て駒』として。
 そしてもう一人は、安心しきった標的の最も近くで確実な死をもたらす『本命の起爆役』として。

 手元にある十三万人という膨大な手駒を、まるでパズルのピースのように使い回し、警察の心理の裏を突く完璧な殺人レイアウトを組み立てているのだ。

 会場には、逃げ惑う人々の悲鳴とサイレンの音が鳴り響いていた。
 控室にいる久我は、この爆音を聞きながら何を思っているのだろう。

 誰も信じられない。
 警察の同僚でさえも。
 何十年と仕えてきた秘書でさえも。

 犯人に弱みを握られ、自分自身と家族の安全を天秤へ載せられれば、人間はこれほど簡単に隣にいる人間を木端微塵に吹き飛ばす起爆ボタンを押してしまう。

 メインディッシュである久我晃一郎を引きずり下ろすため、犯人はこうして外堀を容赦なく焼き払い、権力者たちの周囲へ、――お前のすぐ足元にいる人間が、明日、お前を殺すかもしれない。

 そんな究極のパラノイアを植えつけようとしている。
 姿なき怪物へ向けたどす黒い殺意だけが、胸の奥でさらに鋭く研ぎ澄まされていった。