背筋へ氷を突き立てられたような悪寒が走った。
犯人は最初から、ネットの向こうにいる匿名の大衆を泳がせていたのだ。
『百万人の中に隠れられる』
そう信じ込み、安全圏から無邪気に他人の死を楽しんでいた十三万人。
しかし、犯人が張った網は、彼らが思っていたより遥かに狭く、そして緻密だった。
『釣られた都内の十三万人の個人情報……IPアドレスも、家族構成も、勤務先も、犯人は完全にリスト化して握っていました。そして、Bの選択が下されたあと、その十三万人全員のスマホへ、あのメッセージが強制的にポップアップ表示されたんです』
日下部が絞り出すように言った。
『――あなたは、椅子に座りますか?……って』
その言葉を聞いた瞬間、私は雷に打たれたように息を呑んだ。
法廷のスマホの、あのメッセージだ。
私がマイバッハの中で感じていた違和感のパズルが、最悪の形で組み上がった。
『お前たちはもう、私が用意した「共犯者」という名の椅子に座ってしまった。もう二度と、立ち上がることはできない』という、犯人からの絶望的な死刑宣告。
直後、日下部からスクリーンショットが送られてきた。
私は表示された文章を読み、全身から血の気が引いていくのを感じた。
『――おめでとう。郷田への投票者たちは、己の保身のために正義を捨てた。よって、全員の命と個人情報は保証しよう。
だが、日本全国で百万人が投票していると信じ、安全圏から他人の死を楽しんでいた愚か者たちよ。百万という数字は、お前たちへ「絶対に特定されない」という無責任な安心感を与えるためのブラフだ。
実際に投票していたのは、東京都内を中心とした、たった十三万人。
お前たちの個人情報――SNS連携の裏で抜き取った本名、家族構成、勤務先は、すべて私の手の中にある。
お前たちは今日から、私の「手足(共犯者)」だ。
これより、私が指定した「任務」を物理的にこなしてもらう。もし警察へタレ込んだり、任務を放棄したりすれば、即座にお前たちの個人情報を全世界へ公開し、社会的に抹殺する』
「……共犯者、だと……?」
私は絶句した。
犯人は、最初からサイトを閉鎖する気などなかったのだ。
『自分だけは助かりたい』という投票者たちの醜悪なエゴを引き出し、Bを選ばせたうえで、その選択を十三万人全員へ突きつけた。
保身のために正義を捨てたお前たちは、もはや立派な共犯者だ、と。
十三万人の大衆は、一夜にして安全圏の野次馬から、個人情報を人質に取られた『テロリストの奴隷』へ叩き落とされたのだ。
『真下さん……これを見てください。さらに犯人がアップロードした、新しい動画です』
送られてきたURLを開く。
画面に映し出されたのは、古びた倉庫のような場所だった。
そこには数名の男女が、顔を隠すこともなく、全身をがたがたと震わせながらカメラへ向かって土下座し、泣き叫んでいる。
日付は数ヶ月前が記載されている。
『俺たちは……脅されているんだ! サイトの投票をしただけで、犯人に家族の住所も何もかも握られて……!』
『これから何をさせられるのか、分からないんです……! 怖いんです! あんな投票ボタン、軽い気持ちで押さなければよかった……! 本当に後悔してるんです!』
『俺たちだけじゃない! 投票した人間の情報は、もう全員分完全に抜き取られてるんだよぉぉッ!』
その映像へ、犯人の冷酷な機械音声が重なった。
『彼らは、今日、裁判所で堂島と坂巻を吹き飛ばした埼玉在住の小久保と、東京に住む江本だ。「爆弾の設置役」だったが、途中で任務に怯え、私へ歯向かおうと躊躇した。だから、こうして顔と素性を世界へ暴露してやった』
数秒の間を置き、犯人は続けた。
『しかし……裁判所の中にいて、彼らを殺す「起爆ボタン」を押した人間は、私の命令へ完璧に服従した。だから私は、約束通り、その起爆役の素性を隠し、一生守ってやる』
犯人の声が、冷たい嘲笑を帯びた。
『……残酷だと思うか? だが、よく考えてみろ。これは、お前たちが生きている現実の社会で、日常的に起きていることと全く同じだ』
「……なに?」
『特等席に座る政治家たちが裏で汚い指示を出し、いざとなれば秘書や下請けにすべての罪を被せて身代わりにし、自分だけは知らぬ存ぜぬで安全な場所へ逃げおおせる。……私は、奴らが作ったその「現実のルール」を、そのままこのゲームへ適用してやっただけだ。分かるかい? お前たちは今、自分たちがこれまで黙認してきた理不尽な社会システムそのものに、首を絞められているんだよ』
「アメと……ムチ……。いや、違う……」
私はスマートフォンを握り締めたまま、怒りと寒気で身体を震わせた。
犯人は、ただ恐怖で大衆を支配しているだけではない。権力者が弱者を切り捨てる『トカゲの尻尾切り』という社会の腐った構造を、そのまま自らの巨大な殺人装置のルールとして組み込んだのだ。
犯人は、十三万人の奴隷たちへ最悪の学習をさせたのだ。
任務に逆らえば、顔も名前も家族もネットへ晒され、社会的に殺される。
しかし、心を殺して完全に服従し、他人の命を奪う役目を最後まで遂行すれば、自分だけは確実に守られる。
この動画を見せられた十三万人が何を考えるかは、容易に想像できた。
自分が助かりたければ、犯人の命令通りに完璧に人を殺さなければならない。
それが、新しい生存ルールになる。
『真下さん、もう終わりです……』
日下部の声は、完全な虚無へ落ちていた。
『特捜本部の中にも、政治家の秘書の中にも、犯人に脅されている「奴隷」が無数にいるんです。だから犯人には、警察の動きも政治家のスケジュールも筒抜けなんだ。……俺たちは、隣にいる仲間すら信用できない。誰が昨日、堂島たちを木端微塵にした起爆役だったのかも分からないんですから……』
「日下部、落ち着け! 犯人の狙いは、俺たちを疑心暗鬼にさせることだ! 絶対に早まった真似はするな!」
私は叫んだ。
だが、日下部はしばらく黙り込んだあと、
『……俺、もう何も信じられません』
それだけを残し、一方的に電話を切った。
私は暗闇に沈んだ部屋で、手のひらへ拳を叩きつけた。
なんという悪魔的なシステムなのか。
犯人は自ら手を汚すことなく、十三万人の大衆の中から、まるでロシアンルーレットのように実行犯を選び出す。
そして選ばれた人間は、自分自身の個人情報と家族を守るために、必死になって爆弾を仕掛け、起爆ボタンまで押しに行く。
この国そのものが、犯人の巨大な殺人装置へ変えられてしまったのだ。
犯人は最初から、ネットの向こうにいる匿名の大衆を泳がせていたのだ。
『百万人の中に隠れられる』
そう信じ込み、安全圏から無邪気に他人の死を楽しんでいた十三万人。
しかし、犯人が張った網は、彼らが思っていたより遥かに狭く、そして緻密だった。
『釣られた都内の十三万人の個人情報……IPアドレスも、家族構成も、勤務先も、犯人は完全にリスト化して握っていました。そして、Bの選択が下されたあと、その十三万人全員のスマホへ、あのメッセージが強制的にポップアップ表示されたんです』
日下部が絞り出すように言った。
『――あなたは、椅子に座りますか?……って』
その言葉を聞いた瞬間、私は雷に打たれたように息を呑んだ。
法廷のスマホの、あのメッセージだ。
私がマイバッハの中で感じていた違和感のパズルが、最悪の形で組み上がった。
『お前たちはもう、私が用意した「共犯者」という名の椅子に座ってしまった。もう二度と、立ち上がることはできない』という、犯人からの絶望的な死刑宣告。
直後、日下部からスクリーンショットが送られてきた。
私は表示された文章を読み、全身から血の気が引いていくのを感じた。
『――おめでとう。郷田への投票者たちは、己の保身のために正義を捨てた。よって、全員の命と個人情報は保証しよう。
だが、日本全国で百万人が投票していると信じ、安全圏から他人の死を楽しんでいた愚か者たちよ。百万という数字は、お前たちへ「絶対に特定されない」という無責任な安心感を与えるためのブラフだ。
実際に投票していたのは、東京都内を中心とした、たった十三万人。
お前たちの個人情報――SNS連携の裏で抜き取った本名、家族構成、勤務先は、すべて私の手の中にある。
お前たちは今日から、私の「手足(共犯者)」だ。
これより、私が指定した「任務」を物理的にこなしてもらう。もし警察へタレ込んだり、任務を放棄したりすれば、即座にお前たちの個人情報を全世界へ公開し、社会的に抹殺する』
「……共犯者、だと……?」
私は絶句した。
犯人は、最初からサイトを閉鎖する気などなかったのだ。
『自分だけは助かりたい』という投票者たちの醜悪なエゴを引き出し、Bを選ばせたうえで、その選択を十三万人全員へ突きつけた。
保身のために正義を捨てたお前たちは、もはや立派な共犯者だ、と。
十三万人の大衆は、一夜にして安全圏の野次馬から、個人情報を人質に取られた『テロリストの奴隷』へ叩き落とされたのだ。
『真下さん……これを見てください。さらに犯人がアップロードした、新しい動画です』
送られてきたURLを開く。
画面に映し出されたのは、古びた倉庫のような場所だった。
そこには数名の男女が、顔を隠すこともなく、全身をがたがたと震わせながらカメラへ向かって土下座し、泣き叫んでいる。
日付は数ヶ月前が記載されている。
『俺たちは……脅されているんだ! サイトの投票をしただけで、犯人に家族の住所も何もかも握られて……!』
『これから何をさせられるのか、分からないんです……! 怖いんです! あんな投票ボタン、軽い気持ちで押さなければよかった……! 本当に後悔してるんです!』
『俺たちだけじゃない! 投票した人間の情報は、もう全員分完全に抜き取られてるんだよぉぉッ!』
その映像へ、犯人の冷酷な機械音声が重なった。
『彼らは、今日、裁判所で堂島と坂巻を吹き飛ばした埼玉在住の小久保と、東京に住む江本だ。「爆弾の設置役」だったが、途中で任務に怯え、私へ歯向かおうと躊躇した。だから、こうして顔と素性を世界へ暴露してやった』
数秒の間を置き、犯人は続けた。
『しかし……裁判所の中にいて、彼らを殺す「起爆ボタン」を押した人間は、私の命令へ完璧に服従した。だから私は、約束通り、その起爆役の素性を隠し、一生守ってやる』
犯人の声が、冷たい嘲笑を帯びた。
『……残酷だと思うか? だが、よく考えてみろ。これは、お前たちが生きている現実の社会で、日常的に起きていることと全く同じだ』
「……なに?」
『特等席に座る政治家たちが裏で汚い指示を出し、いざとなれば秘書や下請けにすべての罪を被せて身代わりにし、自分だけは知らぬ存ぜぬで安全な場所へ逃げおおせる。……私は、奴らが作ったその「現実のルール」を、そのままこのゲームへ適用してやっただけだ。分かるかい? お前たちは今、自分たちがこれまで黙認してきた理不尽な社会システムそのものに、首を絞められているんだよ』
「アメと……ムチ……。いや、違う……」
私はスマートフォンを握り締めたまま、怒りと寒気で身体を震わせた。
犯人は、ただ恐怖で大衆を支配しているだけではない。権力者が弱者を切り捨てる『トカゲの尻尾切り』という社会の腐った構造を、そのまま自らの巨大な殺人装置のルールとして組み込んだのだ。
犯人は、十三万人の奴隷たちへ最悪の学習をさせたのだ。
任務に逆らえば、顔も名前も家族もネットへ晒され、社会的に殺される。
しかし、心を殺して完全に服従し、他人の命を奪う役目を最後まで遂行すれば、自分だけは確実に守られる。
この動画を見せられた十三万人が何を考えるかは、容易に想像できた。
自分が助かりたければ、犯人の命令通りに完璧に人を殺さなければならない。
それが、新しい生存ルールになる。
『真下さん、もう終わりです……』
日下部の声は、完全な虚無へ落ちていた。
『特捜本部の中にも、政治家の秘書の中にも、犯人に脅されている「奴隷」が無数にいるんです。だから犯人には、警察の動きも政治家のスケジュールも筒抜けなんだ。……俺たちは、隣にいる仲間すら信用できない。誰が昨日、堂島たちを木端微塵にした起爆役だったのかも分からないんですから……』
「日下部、落ち着け! 犯人の狙いは、俺たちを疑心暗鬼にさせることだ! 絶対に早まった真似はするな!」
私は叫んだ。
だが、日下部はしばらく黙り込んだあと、
『……俺、もう何も信じられません』
それだけを残し、一方的に電話を切った。
私は暗闇に沈んだ部屋で、手のひらへ拳を叩きつけた。
なんという悪魔的なシステムなのか。
犯人は自ら手を汚すことなく、十三万人の大衆の中から、まるでロシアンルーレットのように実行犯を選び出す。
そして選ばれた人間は、自分自身の個人情報と家族を守るために、必死になって爆弾を仕掛け、起爆ボタンまで押しに行く。
この国そのものが、犯人の巨大な殺人装置へ変えられてしまったのだ。
