椅子に座りますか

 ノイズ混じりのスピーカーから、犯人の声が地を這うような悪意を帯びて響いた。
その言葉が法廷へ響き渡った、まさにその瞬間だった。

 法廷内に逃げ遅れ、床へうずくまっていたマスコミ関係者たちのスマートフォンが、一斉に狂ったような振動音を立て始めた。

 ブブブブッ! ブブブブッ! ブブブブッ!

「な、なんだ!? スマホが勝手に……!」
「変な通知が来てるぞ! なんだこれ!」

 私は息を呑んだ。

 異変は、この法廷内だけで起きているわけではない。

 今この瞬間、日本全国にいる、かつて特設サイトで『処刑賛成』のボタンを押したことのある人間――百万人を超える大衆のスマートフォンへ、一斉に強制的なプッシュ通知が送られていた。

 二ヶ月前のサイトで投票した際、犯人が仕込んでいた追跡プログラムのトークンが、彼らの端末を完全に捕捉したまま、この瞬間を待ちわびていたのだ。

『新しい特等席の準備が整った。次の標的のリストは、過去に自分の手を汚さず、他人の死へ一票を投じた、お前たち百万人の「選ばれし陪審員」の端末にだけ送らせてもらった』

 犯人の声が響く。

『……そこに記されたURLを開きたまえ』

 焦げた肉の異臭が漂い、微細な灰が宙を舞っている。
 法廷という絶対的な安全圏は、一瞬にして黒焦げた惨劇の現場へ変貌していた。

 スプリンクラーから降り注ぐ冷たい水音が、阿鼻叫喚のざわめきを冷酷に打ち消していく中、壁面の大型モニターが再びノイズまみれの真紅へ切り替わった。

『――いかがかな? この見事な喜劇の味は』

 機械的に歪められた男の声が、地を這うような悪意と、奇妙なほどの優雅さを帯びて法廷へ響いた。

『だが、これはまだ血塗られたフルコースの、ほんのオードブル――前菜に過ぎない。次はいよいよ、極上のメインディッシュを味わう前に……胃袋を完璧に満たすための、極上の「魚料理(ポワソン)」と「肉料理(ヴィアンド)」を振る舞おうじゃないか』

 私は、背後へ庇っていた久我晃一郎の身体が、微かに、しかし確かに強張るのを感じた。

 犯人の言葉は、単なる殺人予告ではない。

 この国を揺るがす連続テロそのものを、悪趣味な晩餐会になぞらえているのだ。

『十五年前、己の私欲のために一人の人間の命を踏み躙り、その死肉を貪って肥え太った豚ども』

 犯人の声に、濃密な憎悪が滲んだ。

『メインディッシュを飾る「王」の血肉となってきた、その汚らわしい臓物を、一つ残らずえぐり出して、特等席という名の銀の皿へ盛り付けてやろう』

 次に誰が狙われるのか。
 具体的な名前も所属も、一切語られない。

 ただ、十五年前の罪へ群がった者たちが、見えない厨房のまな板の上へ並べられている。

 その底知れない恐怖だけが、突きつけられていた。

『その極上の味わいを、今度はその身でたっぷりと堪能するがいい、久我晃一郎』

 犯人は、最後にゆっくりと言った。

『……特等席の座り心地は、最高だろう?』

 プツン、と無機質な通信切れの音が響き、大型モニターの電源が完全に落ちた。
後に残ったのは、鳴り続ける非常ベルと、死の恐怖に駆られて出口へ殺到する人々の怒号だけだった。

 私はゆっくりと身体を起こし、背後の久我幹事長と共に立ち上がった。
 目の前では、つい数分前まで法とメディアの頂点でふんぞり返っていた堂島と坂巻の座席が、不気味な黒煙を上げ続けている。

「……見事な手際だ」

 久我は黒焦げになった法廷の床を忌々しげに見下ろし、低く唸るように呟いた。

「だが、私をただの臆病な王だと思ったら大間違いだぞ」

 その顔には、底知れない怒りと闘志が浮かんでいた。

「十五年前の亡霊ごときが、この国を導く私を裁けるものか。……無能な警察の出る幕などない。来るなら来い。私が直々に、その息の根を止めてやる」

 国家の『虚偽』が暴かれ、警察が日本に向けて発した勝利宣言も、完全な大嘘だったことが証明された。
 二ヶ月という時間をかけて醸成された油断という名の毒は、今ここで最悪の形で炸裂したのだ。

 ふと、足元へ視線を落とす。 逃げ惑うマスコミ関係者が落としていった一台のスマートフォンが、スプリンクラーで水浸しになった床の上で、不気味な光を放っていた。

 それは、過去のサイトで『処刑賛成』の一票を投じた人間――安全な場所から他人の死を熱望した者たちの端末にだけ強制的に送りつけられた、新しい特設サイトの画面だった。

 私は吸い寄せられるように、ひび割れたその画面を覗き込んだ。 漆黒の背景の中央に、血のように生々しい赤い文字で、ただ一文だけが記されている。

『――あなたは、椅子に座りますか?』

 その瞬間、私の胸の奥を強烈な違和感が突き抜けた。

(……おかしい)

 これまでの事件では、このメッセージは必ず標的となった『椅子の裏』などに、物理的なプレートとして密かに仕掛けられていたはずだ。
 それが今回は、現場の椅子ではなく、安全圏から処刑に加担した百万人の「共犯者」たちのスマートフォンへ直接送りつけられている。

 私は、背筋を這い上がるような底知れない悪寒に身を震わせた。 見えない怪物は、いよいよ鋭い牙を研ぎ澄まし、次の『料理』の準備を終えている。
 次に火を噴くのは、誰の椅子なのか。 私は絶望的な敗北感と、予測不能な恐怖の中で、ただ濡れた拳を白くなるほど強く握り締めることしかできなかった。

 本当の地獄は、ここから始まるのだ。