息が詰まるような異様な『沈黙の二ヶ月』が過ぎ去った。
郷田管理官が全国ネットで高らかに「勝利宣言」を行ったあの日から、テロリストは完全に息を潜めていた。
新たな特設サイトが立ち上がることもなければ、悪趣味な爆弾事件の続報もない。
だが、その平穏な水面下で、警視庁特捜本部は致命的な機能不全と泥沼の焦燥に陥っていた。
警察は二ヶ月もの間、犯人の手がかりを何一つ掴めていなかったのだ。
サイバー犯罪対策課が制圧したと豪語していた「メインサーバー」は、犯人が警察を誘い込むために用意した精巧なダミー(ハニーポット)に過ぎなかった。
そこから辿れたIPアドレスは世界中のプロキシを無数に経由し、最終的には東欧の廃墟と化したサーバーファームで完全に途切れていた。
物理的な足取りも、爆発物の入手ルートも、防犯カメラの映像も、すべてが緻密に計算された行き止まりだった。
警察組織が誇る最新鋭の捜査網を以てしても、犯人の影すら踏むことができない。
しかし、一度世間へ向けて「犯人のシステムを破壊した。
逮捕は時間の問題だ」と大見得を切ってしまった以上、高山本部長や郷田管理官は自らの保身と面子のために、その嘘を突き通すしかなかった。
「捜査は最終段階に入っている」「すでに包囲網は狭まっている」――定例会見でそんな空虚な虚勢を繰り返すたび、特捜本部の空気は澱んでいった。「このまま犯人が自然消滅してくれればいい」。
幹部たちの顔には、そんな腐りきった願望すら浮かび始めていた。
一方、大衆の記憶というものは、恐ろしいほど薄情で、そして都合よくできている。
わずか二ヶ月前まで、自分たちが狂ったように他人の死を決めるアンケートへ投票し、『罪人』が血祭りに上げられることを熱狂的に望んでいた事実など、まるで最初から存在しなかったかのように忘却の彼方へ押しやられていた。
警察が「安全だ」と保証したことで、街は完全に以前の日常を取り戻していった。
満員電車では再び苛立った舌打ちが飛び交い、目の前の弱者を無視してスマートフォンへ没頭する人間たちの姿が、東京の至るところで当たり前のように復活していた。
人々は再び、それぞれが自分だけの『特等席』へ座り、何事もなかったようにふんぞり返り始めたのだ。
もっとも、大衆の胸の底に溜まっていたドロドロとした鬱憤やルサンチマンが、完全に消え去ったわけではない。
ただ、その矛先が変わっただけだった。
姿を消したテロリストの代わりに、人々が新たな『分かりやすいサンドバッグ』として選んだのは、堂島慎太郎だった。
偽の証拠を全国ネットで流し、自ら転落した、かつての『正義の代弁者』。
帝都テレビは堂島を即座に懲戒解雇し、彼が担当していた番組はすべて打ち切られた。
ネット上では連日連夜、過去の女性問題やパワハラ疑惑、さらには十年前の佐々木副大臣からの裏金授受疑惑に至るまで、真偽不明の情報が入り乱れたまま、徹底的な晒し上げが続いていた。
そして、その大衆によるリンチを、最も冷酷に、かつ合法的に利用している男がいた。
久我派閥のお抱え弁護士――坂巻宗秀である。
「――よろしいですか、幹事長。堂島慎太郎に対する『名誉毀損および偽計業務妨害』の民事訴訟ですが、提訴から二ヶ月、奴を逃がさず追い詰める外堀は完全に埋まりました」
久我邸の応接室。
高級な紅茶の香りが漂う中、坂巻は眼鏡の奥の目を冷たく細め、分厚い書類の束をテーブルへ置いた。
「佐々木副大臣の政治生命を、不当なフェイクニュースによって脅かした責任。請求額は、見せしめの意味も込めて五億円と設定しました。堂島の資産をすべて差し押さえても到底足りない額です。この二ヶ月間、内容証明や事前の書面でのやり取りで、奴の逃げ道を一切合切塞いでやりました」
「ご苦労。して、裁判の進行はどうなっている?」
ソファでくつろぐ久我晃一郎が尋ねると、坂巻は冷たい笑みを浮かべた。
「明日がいよいよ、第1回口頭弁論となります」
坂巻の声には、獲物をいたぶる猟犬の悦びが滲んでいた。
「法廷という公開の場に堂島を引きずり出し、社会的抹殺の火蓋を切ってやります。奴にはもはやまともな弁護士もつかず、反論する気力すら残っておりません。裁判所という権威の場で、奴がどれほど無様に取り乱すか……見物ですよ」
「素晴らしい」
久我は満足げに頷いた。
「堂島という男は、己のプライドだけが肥大化した空っぽの器だ。法廷という公開の場で徹底的に恥をかかせ、社会から完全に抹殺しろ。……無能な警察がテロリストの影に怯えて右往左往している間にも、我々は我々のルールで敵を排除する。マスコミどもに、我々権力者へ噛みつくということがどれほど恐ろしい行為なのか、骨の髄まで理解させるのだ」
久我は紅茶のカップをテーブルへ戻し、愉快そうに口元を歪めた。
「……明日の法廷、私もその見世物を見届けてやろう」
「幹事長自ら、法廷へいらっしゃると?」
「ああ。自分に牙を剥いた愚か者が、法という絶対的な力によって無様に叩き潰される瞬間だ。この特等席のショーを、見逃す手はない」
そして、背後に控えていた私へ視線を向けた。
「……真下くん。お前も同行しろ」
「……承知いたしました」
私は深く一礼した。
郷田の会見以降、犯人は完全に沈黙している。
警察組織は「自分たちが勝った」と信じ込もうとし、大衆は日常に埋没している。
(いや……あの狡猾な男が、サイトを一つ潰された程度で計画を諦めるはずがない。警察はただ、犯人の手のひらの上で踊らされているだけだ)
私の胸の奥には、二ヶ月経った今でも決して消えない違和感が、黒い炎のように燻り続けていた。
犯人が仕掛ける『遅効性の毒』。
大衆が恐怖を忘れ、警察が油断しきったその瞬間こそが、最も恐ろしい破滅の始まりなのではないか。
郷田管理官が全国ネットで高らかに「勝利宣言」を行ったあの日から、テロリストは完全に息を潜めていた。
新たな特設サイトが立ち上がることもなければ、悪趣味な爆弾事件の続報もない。
だが、その平穏な水面下で、警視庁特捜本部は致命的な機能不全と泥沼の焦燥に陥っていた。
警察は二ヶ月もの間、犯人の手がかりを何一つ掴めていなかったのだ。
サイバー犯罪対策課が制圧したと豪語していた「メインサーバー」は、犯人が警察を誘い込むために用意した精巧なダミー(ハニーポット)に過ぎなかった。
そこから辿れたIPアドレスは世界中のプロキシを無数に経由し、最終的には東欧の廃墟と化したサーバーファームで完全に途切れていた。
物理的な足取りも、爆発物の入手ルートも、防犯カメラの映像も、すべてが緻密に計算された行き止まりだった。
警察組織が誇る最新鋭の捜査網を以てしても、犯人の影すら踏むことができない。
しかし、一度世間へ向けて「犯人のシステムを破壊した。
逮捕は時間の問題だ」と大見得を切ってしまった以上、高山本部長や郷田管理官は自らの保身と面子のために、その嘘を突き通すしかなかった。
「捜査は最終段階に入っている」「すでに包囲網は狭まっている」――定例会見でそんな空虚な虚勢を繰り返すたび、特捜本部の空気は澱んでいった。「このまま犯人が自然消滅してくれればいい」。
幹部たちの顔には、そんな腐りきった願望すら浮かび始めていた。
一方、大衆の記憶というものは、恐ろしいほど薄情で、そして都合よくできている。
わずか二ヶ月前まで、自分たちが狂ったように他人の死を決めるアンケートへ投票し、『罪人』が血祭りに上げられることを熱狂的に望んでいた事実など、まるで最初から存在しなかったかのように忘却の彼方へ押しやられていた。
警察が「安全だ」と保証したことで、街は完全に以前の日常を取り戻していった。
満員電車では再び苛立った舌打ちが飛び交い、目の前の弱者を無視してスマートフォンへ没頭する人間たちの姿が、東京の至るところで当たり前のように復活していた。
人々は再び、それぞれが自分だけの『特等席』へ座り、何事もなかったようにふんぞり返り始めたのだ。
もっとも、大衆の胸の底に溜まっていたドロドロとした鬱憤やルサンチマンが、完全に消え去ったわけではない。
ただ、その矛先が変わっただけだった。
姿を消したテロリストの代わりに、人々が新たな『分かりやすいサンドバッグ』として選んだのは、堂島慎太郎だった。
偽の証拠を全国ネットで流し、自ら転落した、かつての『正義の代弁者』。
帝都テレビは堂島を即座に懲戒解雇し、彼が担当していた番組はすべて打ち切られた。
ネット上では連日連夜、過去の女性問題やパワハラ疑惑、さらには十年前の佐々木副大臣からの裏金授受疑惑に至るまで、真偽不明の情報が入り乱れたまま、徹底的な晒し上げが続いていた。
そして、その大衆によるリンチを、最も冷酷に、かつ合法的に利用している男がいた。
久我派閥のお抱え弁護士――坂巻宗秀である。
「――よろしいですか、幹事長。堂島慎太郎に対する『名誉毀損および偽計業務妨害』の民事訴訟ですが、提訴から二ヶ月、奴を逃がさず追い詰める外堀は完全に埋まりました」
久我邸の応接室。
高級な紅茶の香りが漂う中、坂巻は眼鏡の奥の目を冷たく細め、分厚い書類の束をテーブルへ置いた。
「佐々木副大臣の政治生命を、不当なフェイクニュースによって脅かした責任。請求額は、見せしめの意味も込めて五億円と設定しました。堂島の資産をすべて差し押さえても到底足りない額です。この二ヶ月間、内容証明や事前の書面でのやり取りで、奴の逃げ道を一切合切塞いでやりました」
「ご苦労。して、裁判の進行はどうなっている?」
ソファでくつろぐ久我晃一郎が尋ねると、坂巻は冷たい笑みを浮かべた。
「明日がいよいよ、第1回口頭弁論となります」
坂巻の声には、獲物をいたぶる猟犬の悦びが滲んでいた。
「法廷という公開の場に堂島を引きずり出し、社会的抹殺の火蓋を切ってやります。奴にはもはやまともな弁護士もつかず、反論する気力すら残っておりません。裁判所という権威の場で、奴がどれほど無様に取り乱すか……見物ですよ」
「素晴らしい」
久我は満足げに頷いた。
「堂島という男は、己のプライドだけが肥大化した空っぽの器だ。法廷という公開の場で徹底的に恥をかかせ、社会から完全に抹殺しろ。……無能な警察がテロリストの影に怯えて右往左往している間にも、我々は我々のルールで敵を排除する。マスコミどもに、我々権力者へ噛みつくということがどれほど恐ろしい行為なのか、骨の髄まで理解させるのだ」
久我は紅茶のカップをテーブルへ戻し、愉快そうに口元を歪めた。
「……明日の法廷、私もその見世物を見届けてやろう」
「幹事長自ら、法廷へいらっしゃると?」
「ああ。自分に牙を剥いた愚か者が、法という絶対的な力によって無様に叩き潰される瞬間だ。この特等席のショーを、見逃す手はない」
そして、背後に控えていた私へ視線を向けた。
「……真下くん。お前も同行しろ」
「……承知いたしました」
私は深く一礼した。
郷田の会見以降、犯人は完全に沈黙している。
警察組織は「自分たちが勝った」と信じ込もうとし、大衆は日常に埋没している。
(いや……あの狡猾な男が、サイトを一つ潰された程度で計画を諦めるはずがない。警察はただ、犯人の手のひらの上で踊らされているだけだ)
私の胸の奥には、二ヶ月経った今でも決して消えない違和感が、黒い炎のように燻り続けていた。
犯人が仕掛ける『遅効性の毒』。
大衆が恐怖を忘れ、警察が油断しきったその瞬間こそが、最も恐ろしい破滅の始まりなのではないか。
