椅子に座りますか

 数時間後。

「……会見が始まるぞ」
 久我が書斎の大型モニターの電源を入れた。

 私は画面に映し出される光景を凝視しながら、全身の筋肉が強張っていくのを感じていた。
 モニターの中では、警視庁のプレスルームに無数の報道陣が集まり、激しいフラッシュの嵐が焚かれている。

 その中央のマイクスタンドの前に、郷田管理官が立っていた。
 本来であれば、これほど重大な勝利宣言は高山捜査本部長が自ら行うべきものだ。
 
 だが、高山は狡猾だった。目に見えないサイバー空間の戦果に対し、万が一それが覆った際の責任を負うことを恐れ、「現場の指揮を執った者に花を持たせる」というもっともらしい口実で、郷田を会見の矢面に立たせたのだ。

 高山本部長の狡猾な保身によって「トカゲの尻尾」として立たされていることにも気づかず、郷田はこれまでの失態をすべて帳消しにし、一躍英雄になれると信じ切った傲慢な表情を浮かべている。

『――国民の皆様へご報告いたします。先ほど、犯人が構築していた大衆扇動型のテロシステム、通称“大罪の椅子”のメインサーバーを、我々警視庁サイバー犯罪対策課が完全に破壊・制圧いたしました!』

 郷田の声はますます大きくなっていく。
『奴のテロは、ネット上の大衆を巻き込むことで成立する劇場型の犯罪でした。その根幹であるシステムを破壊された今、犯人の目的は完全に頓挫したと言って過言ではありません! 奴はテロリストとしての最大の武器を我々にへし折られ、もはや孤立無援の敗北者です!』

 画面越しに映る郷田の勝ち誇った顔は、滑稽を通り越して吐き気すら催すものだった。

『……国民の皆様、どうかご安心ください。我々はすでに、残されたサーバーの痕跡から犯人に繋がる決定的な手がかりを掴みつつあります。逮捕も時間の問題です。正義は我々警察の手にあります。姿なき卑劣なテロリストは、我々の威信にかけて、必ずや法のもとに引きずり出してみせます!』

(ただサイトを落としただけだ。奴が物理的な爆破能力を失ったわけではない。それに、手がかりを掴みつつあるなど、完全なハッタリだ……)

 カラスが言っていた言葉を思い返していた。
 完全な分散型ネットワーク。 単一のサーバーを落としたところで、意味はない。
 背中を、冷たい汗が伝っていく。

(……これは、犯人が警察を誘い込んだハニーポットだ)

 確信があった。

(ここで警察が『システムを破壊し、犯人を追い詰めた』という大嘘をつけば、犯人は必ず、その嘘を嘲笑うように最悪のタイミングで報復を仕掛けてくる)

 私は、モニターの画面が突然ジャックされ、あの毒々しい黒と赤の映像へ切り替わる瞬間を待った。
 郷田の足元へ仕掛けられた爆弾が火を噴くのか。 あるいは、全国民のスマートフォンへ一斉に、『警察の嘘』を嘲笑うメッセージが送りつけられるのか。

 五秒。  
 十秒。  
 数十秒。

 時間だけが過ぎていく。

『……以上で、特捜本部からの緊急報告を終わります。詳細な捜査状況については、後ほど広報課より書面にて……』

 郷田が満足そうな笑みを浮かべたまま深く一礼し、そのままプレスルームから悠然と立ち去っていく。

 何も起こらない。

「……え?」
 私は呆然とモニターを見つめた。

 会見場はジャックされなかった。 爆発も起きない。全国民のスマートフォンへ、メッセージが届くこともなかった。

 ただ、郷田の独りよがりな勝利宣言だけが、何の妨害も受けることなく、平穏に全国ネットで最後まで放送されてしまった。

「……どういうことだ。なぜ、奴は動かない?」

 混乱したまま私が呟くと、革張りの椅子へ座る久我晃一郎が、喉の奥で低く、ひどく楽しそうな笑い声を漏らした。

「ククッ……ハハハハ! 素晴らしい。実にエレガントな男だ、この犯人は」
「幹事長……?」
「分からないのか、真下くん」

 久我は葉巻の紫煙を、ゆっくりと天井へ吹き上げた。
「犯人は、『すぐに』報復しなかったのだよ」
 私は久我を見た。
「相手が最も得意の絶頂にいる瞬間に叩き落とすのも、確かに残酷なエンターテインメントだ。だが、それではただの『パニック映画』で終わってしまう」

 久我は口元に、薄い笑みを浮かべた。

「犯人は、警察自身が吐いた『我々は勝利した。もう安全だ』というこの嘘を、社会の隅々まで完全に浸透させるつもりなのだ」

 そして、静かに続けた。

「大衆の恐怖が完全に薄れ、誰もが安心し切る、その瞬間まで……奴は『待つ』ことにしたのだ」

 久我の言葉に、私は息を呑んだ。

「遅効性の、毒……」
「その通りだ。今日、明日、明後日……何も起きない平和な日が続けば続くほど、警察が吐いた『勝利宣言』という嘘は、国民の中で強固な『真実』として定着していく。そして大衆は、かつて抱いていた恐怖を忘れ、再び元の傲慢な日常へ戻っていくのだ」

 久我は葉巻を指に挟んだまま、薄い笑みを浮かべて続けた。

「その油断と平和が極限まで成熟しきった瞬間、警察の嘘が最も重く、最も取り返しのつかない形で破綻する。その時に生まれる絶望の落差こそが、犯人の真の狙いなのだろう」

 犯人は、ただの爆弾魔ではない。人間の心理の脆弱さを知り尽くし、恐怖や欲望だけでなく、『時間』という概念すら利用して完全に操ろうとしている。

 今、社会を覆っているこの静寂は、決して平和の訪れなどではない。
 遥か上空から、とてつもない質量を持つ巨大なギロチンの刃が、音も立てずにゆっくりと私たちの首元へ降下している。その刃が落ちるまでの猶予を、私たちは平和だと勘違いしているだけなのだ。
 
* * *  
 
 そして、息が詰まるような異様な『沈黙の二ヶ月』が過ぎ去った。

 郷田の会見が行われたあの日から、テロリストは完全に息を潜めていた。
 新たな特設サイトが立ち上がることもなければ、爆弾事件の続報もない。
 大衆の記憶というものは、恐ろしいほど薄情で、そして都合よくできている。