椅子に座りますか

 部屋の中には、すでに呼び出していたリサーチャーの相田が、壁際に所在なげに立っていた。

 地味なスーツ姿。

 だが、眼鏡を外したその美貌と、怯えたように揺れる瞳が、堂島の独占欲を強烈に掻き立てる。

「堂島さん……。お疲れ様でした。あの、本当に素晴らしい放送で……」
 相田が上目遣いで控えめに声をかけると、堂島はネクタイを緩めながら、ゆっくりと彼女へ近づいていった。

「ああ。君が被害者の声を集め、あの資料をまとめてくれたおかげだよ。君の正義感が、この国を動かしたんだ」

 堂島は甘い声を出しながら、相田の肩へ手を回し、逃げ場を奪うように壁際まで追い詰めていく。

 相田の身体が、びくりと硬直した。
「あ、あの……堂島さん……?」
「約束しただろう? この放送が終わったら、私と一緒に勝利を祝うと」

 堂島の目が、完全に獲物を囲い込んだ捕食者のそれへ変わっていった。
「……いや、君はもう、ただのアシスタントではない。私のものだ」

 彼は、己の権力とカリスマへ平伏し、自分なしでは生きられなくなった女を『コレクション』として飼い慣らすことに、この上ない快感を覚える男だった。

 この美しく無垢な女の精神を完全に掌握し、自分だけのものとして支配する。
 それが、今日という最高の日を締めくくるに相応しい祝祭だった。

「怯えることはない。君のすべてを私に預けなさい。これからは私が、君の人生のすべてを導いてやろう……」

 堂島がねっとりとした息を吐きながら、相田の顎へ手を掛け、その顔を強引に上向かせようとした――その瞬間だった。

 バンッ!!

「編集長ォォォッ!!」
 鍵をかけていたはずの扉が、合鍵を使ったのか、文字通り蹴破られるような勢いで開け放たれた。

 堂島は舌打ちし、相田からさっと手を離すと、激怒の形相で振り返った。
「貴様、何の真似だ! 私の部屋にノックもなしに――!」
 だが、怒鳴りつけようとした声は、飛び込んできた報道局長の顔を見た瞬間に止まった。

 局長の顔は、まるで死神に魅入られたように土気色に染まり、口から泡を吹きそうなほど震えている。

 その手には、一台のタブレット端末が握り締められていた。

「お、終わりだ……。堂島、俺たちは……とんでもないものを放送してしまった……ッ!」
「何を血迷っているんですか! 視聴率は過去最高を叩き出したんですよ! 佐々木の息の根を止めたんだ!」
「違うッ!! 偽物だ!!」
 局長は半狂乱で叫びながら、タブレットを堂島の胸へ押しつけた。
「お前がたった今、全国ネットで大見得を切って放送したあの証拠資料……週刊誌の記事も全部、真っ赤な『嘘』だ!! ブラフだったんだよ!!」
「……は? 嘘? 何を馬鹿な……」

 堂島は局長からタブレットを奪い取ると、食い入るように画面を見た。
 そこに映っていたのは、現在SNS上で爆発的な勢いで拡散され、すでに数百万回もの再生数を記録している一本の動画だった。

 投稿元は、『影の代弁者』と名乗る匿名アカウント。

 堂島が震える指で再生ボタンを押すと、画面に映し出されたのは、つい先ほど彼自身が『佐々木の直筆メモ』として全国放送で紹介し、今朝の週刊誌にも掲載されていた、あの証拠書類だった。

 だが、映像の中では、その書類にブラックライトが照射されていた。
『――全国一千万人の皆様、そして偉大なるジャーナリスト、堂島慎太郎様』

 動画から、機械で加工された無機質な音声が流れ始めた。
 ブラックライトに照らされた『直筆メモ』の余白部分に、それまで肉眼では見えなかった文字が浮かび上がっていく。

 特殊な蛍光インクで、はっきりとこう印字されていた。
【この書類はすべて偽造されたフェイクです。裏取りもせずに飛びついた愚かな週刊誌と、それに乗っかった三流キャスターへ】

「な……っ!?」
 堂島の喉から、カエルが潰れたような奇声が漏れた。
 だが、動画はそこで終わらなかった。

 続いて映し出されたのは、パソコン上の音声編集画面だった。
 そこには、先ほど番組で流した『佐々木が秘書を脅す肉声データ』と、まったく同じ波形が表示されている。

 画面上のカーソルが動き、『音声AI生成ツール』へ文字列が入力されていく。
『……いいか。この件は全部お前が被れ。俺に火の粉が飛べば、お前の家族がどうなるか分かってるな?』

 次の瞬間、最新のAIが佐々木の声を寸分違わず模倣し、堂島が全国放送で『本人の肉声』として流したものと同じ台詞を喋り始めた。

「……嘘だろ……」

 さらに、ダミー会社の口座記録とされていた資料についても解説が続く。
 実在する企業名を巧妙にもじって作られただけの架空データであり、記載されている企業の頭文字を縦に読むと、

【ドウジマハサギシ】

 ――『堂島は詐欺師』。
 そう読める仕掛けになっていることまで、映像の中で丁寧に暴露されていた。

『正義の代弁者を気取る堂島慎太郎は、週刊誌のフェイクニュースに便乗し、事実確認――ファクトチェックを一切行わず、出所不明の怪文書とAIによる合成音声を真実として全国へ垂れ流しました』

 加工された声が、淡々と堂島を断罪していく。

『これが、彼らの言う「真実」の正体です。彼はただ、魔女狩りを楽しむように他人の人生を切り売りしているだけの、哀れなピエロに過ぎない』

 最後にその痛烈なメッセージだけを残し、動画は暗転した。

「あ……ああ……」
 タブレットを握る堂島の両手が、痙攣するように震え始めた。
「ネットは今、この動画で大炎上してる!」
 局長が頭を抱えながら絶叫した。
「『帝都テレビがAIで作られた偽の証拠で国会議員を陥れた』『堂島は稀代の詐欺師だ』ってな! 放送倫理委員会どころの騒ぎじゃない! 総務省から放送免許の取り消しを食らいかねない大不祥事だぞ!!」

 編集長室の分厚い防音ガラス越しにすら、フロアで鳴り響く抗議電話の凄まじいコール音が聞こえてくる。