椅子に座りますか

(……暴力的? クズだと?)

 信じられないものを見たような衝撃が、胸の中を駆け抜けた。

 違う。

 ユウは、雨に濡れた小鳥を助け、色を愛する、誰よりも優しい子だったはずだ。
 総一郎だって、そう言っていた。
 それなのに、この父親はユウの何を見ていたというのだ。

 この男の目には、ユウの繊細な魂が、『親の言うことを聞かない出来損ない』としか映っていなかったのか。

 私は奥歯を強く噛み締め、テーブルの下で拳を白くなるほど握り込んだ。

 総一郎の愛に触れたことで、ほんの少しだけ抱いていた『この家でユウは大切にされていたのではないか』という淡い希望が、粉々に打ち砕かれた瞬間だった。

「……申し訳ありません。余計なご報告でした」
 私が事務的に頭を下げると、晃一郎は荒い息を吐きながら、忌々しそうにナプキンで口元を拭った。

「忘れろ、真下くん。あの部屋の過去など、どうでもいいことだ。行くぞ」

 晃一郎が足早にダイニングを出ていく。
 私はその背中を見つめながら、静かに立ち上がった。

 祖父からは愛され、父親からは狂人と呼ばれ、忌み嫌われていた子供。
 この屋敷の中で、ユウはどれほど引き裂かれるような思いで生きていたのだろう。

(私は必ず暴き出す。あの子がここで何を感じ、なぜ最期を迎えなければならなかったのかを)
 
* * *
 
 東京都、帝都テレビ本社ビル。

 昼の特別番組の放送まで数時間に迫り、報道局のフロアは完全に沸点へ達していた。

 電話のコール音、キーボードを叩く乾いたタイピング音、そしてフロアを飛び交う怒号が絶え間なく重なり合う。何台ものモニターが明滅し、スタッフたちは血走った目で局内を駆け回っていた。

 彼らの手には、今朝の週刊誌報道を裏付ける、あの決定的な内部資料のコピーが固く握られている。

 その狂騒から、分厚い防音ガラス一枚で隔てられた編集長室。

 堂島慎太郎は革張りの椅子へ深く腰掛け、出来上がったばかりの特番の進行台本を恍惚とした表情で眺めていた。

「完璧だ……。佐々木の政治生命は、今日の昼で完全に終わる」

 堂島は低く呟き、満足げに台本をデスクへ放り投げた。
 この十年間、佐々木は与党の重鎮として、久我派閥の金庫番として、強大な権勢を振るってきた。

 その巨悪を、週刊誌が起こした火種を利用し、一介のキャスターである自分が『世論』という名のギロチンへかける。

 国民は歓喜し、自分を『真の正義』として神格化するだろう。
 視聴率は跳ね上がり、堂島慎太郎という名前は報道の歴史へ永遠に刻まれる。

「堂島編集長。弁護士のコメント撮りも完了しました。あとは本番を待つのみです」
 デスクの前に立ち、恭しく頭を下げたのは、リサーチャーの相田だった。

 今朝、被害者たちの声を堂島へ届け、『私にすべてを預けなさい』という甘い言葉に期待して縋った若手社員。

 堂島の目には、彼女はすでに自分の正義へ完全に感化され、自分という導き手がいなければ生きていけない、哀れで忠実な子羊に映っていた。

「ご苦労だったね、相田くん。君のおかげで、また一つこの国の闇を晴らすことができる」

 堂島はゆっくりと立ち上がり、相田の肩へそっと手を置いた。
「この特番が終わったら、君には報道の最前線で私の右腕として働く特権を与えよう。君のその献身的な働きには、私から直々に『権力を操る術』を教えてあげなくてはね」

 相田は僅かに肩を震わせ、頬を赤らめながら伏し目がちに頷いた。
「はい……。堂島さんの戦うお姿、一番近くで見届けさせていただきます……」

 堂島が自らの支配力に酔いしれ、満足そうに笑みを深めた、その時だった。
 バンッ、と編集長室の重厚な扉が、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。
 堂島は露骨に眉をひそめ、振り返った。

「なんだ、騒々しい。今は本番前の――」

 だが、その言葉は途中で止まった。
 部屋へ転がり込むように入ってきたのは、帝都テレビの報道局長だった。
 普段はふんぞり返っている恰幅の良い男が、今は顔面を蒼白にし、額から滝のような汗を流して激しく動揺している。

「きょ、局長? 一体どうしましたか」
 堂島が怪訝な顔をした直後、局長の背後から一人の男が悠然と姿を現した。

 隙のない仕立ての濃紺のスーツ。
 冷たく光る眼鏡。
 白髪交じりの髪。
 細く鋭い目には、無機質で冷徹な光が宿っている。

「失礼するよ、堂島キャスター。お忙しいところ申し訳ない」
 低く、よく通る声だった。
 その男の顔を見た瞬間、堂島の顔色が変わった。
「……坂巻先生」

 坂巻宗秀。

 元東京地検特捜部のエースであり、現在は大手法律事務所の代表。
 そして何より、久我晃一郎幹事長が率いる久我派閥の『裏の揉め事』をすべて処理してきた、政界最大のフィクサー。

 権力者の猟犬と呼ばれる男だった。

「どういう風の吹き回しですか、ヤメ検の大物弁護士殿が。局長を通してきたとはいえ、アポなしで編集長室へ乗り込んでくるとは、随分と野蛮な真似をされる」

 堂島は即座に警戒態勢へ入り、皮肉をたっぷり込めて応戦した。
 だが坂巻は、その嫌味など耳に入っていないかのように、革靴の音を静かに響かせながら部屋の中央まで歩み寄ってきた。

「局長。少し堂島キャスターと、二人きりで話をさせていただけるかな?」
 坂巻が眼鏡の奥から流し目を送ると、報道局長はびくりと身体を震わせた。