***
久我邸、一階の広大なダイニングルーム。
淹れたてのコーヒーの香りと、焼き上がったトーストの芳ばしい匂いが漂っていた。
壁掛けの大型モニターから流れる朝のワイドショーを、久我晃一郎は優雅にカップを傾けながら見つめている。
画面の中では、コメンテーターたちが今朝配信されたばかりの『週刊激報』のスクープ記事について、興奮気味に議論を交わしていた。
「おはようございます。幹事長」
私がダイニングへ入り、静かに一礼すると、晃一郎は視線をモニターへ向けたまま、僅かに顎を動かした。
「ああ、真下くん。昨夜はよく眠れたかな」
「はい。快適な部屋を整えていただき、感謝いたします」
私が業務的な口調で答えると、晃一郎は手元の銀色のフォークを置き、向かいの席を指差した。
そこにはすでに、私のための朝食が完璧なテーブルセッティングで用意されている。
「座りたまえ。君も食べるといい」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私は朝はいつも食べませんので、このまま護衛の任に就かせていただきます」
私が立ったまま辞退すると、晃一郎の冷ややかな目が、すっとこちらを射抜いた。
「だめだ。食べろ」
それは、有無を言わせぬ絶対的な命令だった。
「君の普段の食生活を変えろとは言わんが、私といる時は食べろ。食事は絶対に抜くな。……腹を空かせた状態で、いざという時にこの私を守れるものか」
晃一郎は冷たい声のまま続けた。
「君は私の警護だ。警護が脆弱であることを、私は許さん」
その言葉には、私という人間への気遣いなど微塵もなかった。
あるのは、自分の命を守る『道具』への徹底した管理意識と、冷酷なまでの合理主義だけだった。
私は一瞬だけ奥歯を噛み締めたが、すぐに表情を消して頷いた。
「……承知いたしました」
私が席につき、トーストへ手を伸ばしたのを見届けると、晃一郎は再びモニターへ視線を戻した。
「佐々木先生の件ですね。週刊誌が十年前の資料を今になって流出させるとは。しかし、このまま追及が続き、テレビ各局が後追いを始めれば、幹事長の派閥全体にまで波及する恐れは……」
「だからこそ、火の粉が小さいうちに消し飛ばすのだ」
晃一郎はそう言うと、手元のスマートフォンを取り、慣れた手つきでどこかへ発信した。
コール音は二度も鳴らず、すぐに相手が出たらしい。
「……ああ、私だ。朝から騒がしいな。……そうだ、佐々木の件だ。週刊誌風情に十年前の死骸を掘り起こされて、ひどく厄介なことになっている」
晃一郎の冷ややかな目が、モニターの中で熱弁を振るうコメンテーターを捉えていた。
「メディアの連中はこの後、必ずテレビの昼帯で一斉に佐々木を叩きに来る。特に帝都テレビの堂島のところへ出向き、上手く口を塞いでくれ。……ああ、やり方はすべて一任する。佐々木の首の皮一枚でも繋ぎ止められれば、それに越したことはない。期待しているよ、先生」
晃一郎はそれだけ言うと、無造作に電話を切った。
相手はおそらく、久我派閥の裏の揉め事を長年処理してきた『お抱えの弁護士』だ。
法律の専門家というより、脅迫と裏取引によって権力者を守る影のフィクサー。これまで幾度となく、久我の指示で不都合な真実を揉み消してきたに違いない。
「真下くん。君の仕事は、私の周りを飛ぶ鬱陶しい蠅を物理的に叩き落とすことだ。マスコミの相手は『先生』がやる。君は、自分の仕事だけを考えていればいい」
私はコーヒーを一口飲み、意を決して口を開いた。
ただの警護上の報告を装いながら、この男の奥底にある『ユウ』への感情を探るために。
「承知いたしました。……それと、警護上のご報告がございます。昨夜遅く、三階の廊下で……総一郎様とお会いしました」
「……父に?」
晃一郎がカップを口へ運ぼうとしていた手を、ぴたりと止めた。
声の温度が、不自然なほど一気に下がった。
「はい。私が使わせていただいている部屋を、絶対に汚すなと強い警告を受けました。……それと、かつてあの部屋にいたという『子供』の話を」
ガチャンッ、と晃一郎がコーヒーカップを乱暴にソーサーへ叩きつけた。
甲高い陶器の音が、広いダイニングへ響き渡る。
私は眉一つ動かさず、彼の顔を見つめた。
そこにあったのは、先ほどまでの優雅な冷徹さではない。
どす黒く濁った、隠しようのない憎悪だった。
「あのボケ老人が……! まだ、あいつのことを口にしているのか!」
「……総一郎様は、とても心優しい子だったと、懐かしんでおられましたが」
私が静かにそう付け加えると、晃一郎は首をゴキリと鳴らし、憎々しげに顔を歪めた。
「優しいだと? 冗談ではない!」
吐き捨てるような声が、広い部屋の空気をびりびりと震わせた。
「あの部屋にいたのは、親の言うこともまったく聞かず、癇癪を起こしては衝動的に暴力を振るうような……どうしようもないクズだった! あんな出来損ないの狂人が、優しいはずがなかろう!」
私は思わず息を呑んだ。
久我邸、一階の広大なダイニングルーム。
淹れたてのコーヒーの香りと、焼き上がったトーストの芳ばしい匂いが漂っていた。
壁掛けの大型モニターから流れる朝のワイドショーを、久我晃一郎は優雅にカップを傾けながら見つめている。
画面の中では、コメンテーターたちが今朝配信されたばかりの『週刊激報』のスクープ記事について、興奮気味に議論を交わしていた。
「おはようございます。幹事長」
私がダイニングへ入り、静かに一礼すると、晃一郎は視線をモニターへ向けたまま、僅かに顎を動かした。
「ああ、真下くん。昨夜はよく眠れたかな」
「はい。快適な部屋を整えていただき、感謝いたします」
私が業務的な口調で答えると、晃一郎は手元の銀色のフォークを置き、向かいの席を指差した。
そこにはすでに、私のための朝食が完璧なテーブルセッティングで用意されている。
「座りたまえ。君も食べるといい」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私は朝はいつも食べませんので、このまま護衛の任に就かせていただきます」
私が立ったまま辞退すると、晃一郎の冷ややかな目が、すっとこちらを射抜いた。
「だめだ。食べろ」
それは、有無を言わせぬ絶対的な命令だった。
「君の普段の食生活を変えろとは言わんが、私といる時は食べろ。食事は絶対に抜くな。……腹を空かせた状態で、いざという時にこの私を守れるものか」
晃一郎は冷たい声のまま続けた。
「君は私の警護だ。警護が脆弱であることを、私は許さん」
その言葉には、私という人間への気遣いなど微塵もなかった。
あるのは、自分の命を守る『道具』への徹底した管理意識と、冷酷なまでの合理主義だけだった。
私は一瞬だけ奥歯を噛み締めたが、すぐに表情を消して頷いた。
「……承知いたしました」
私が席につき、トーストへ手を伸ばしたのを見届けると、晃一郎は再びモニターへ視線を戻した。
「佐々木先生の件ですね。週刊誌が十年前の資料を今になって流出させるとは。しかし、このまま追及が続き、テレビ各局が後追いを始めれば、幹事長の派閥全体にまで波及する恐れは……」
「だからこそ、火の粉が小さいうちに消し飛ばすのだ」
晃一郎はそう言うと、手元のスマートフォンを取り、慣れた手つきでどこかへ発信した。
コール音は二度も鳴らず、すぐに相手が出たらしい。
「……ああ、私だ。朝から騒がしいな。……そうだ、佐々木の件だ。週刊誌風情に十年前の死骸を掘り起こされて、ひどく厄介なことになっている」
晃一郎の冷ややかな目が、モニターの中で熱弁を振るうコメンテーターを捉えていた。
「メディアの連中はこの後、必ずテレビの昼帯で一斉に佐々木を叩きに来る。特に帝都テレビの堂島のところへ出向き、上手く口を塞いでくれ。……ああ、やり方はすべて一任する。佐々木の首の皮一枚でも繋ぎ止められれば、それに越したことはない。期待しているよ、先生」
晃一郎はそれだけ言うと、無造作に電話を切った。
相手はおそらく、久我派閥の裏の揉め事を長年処理してきた『お抱えの弁護士』だ。
法律の専門家というより、脅迫と裏取引によって権力者を守る影のフィクサー。これまで幾度となく、久我の指示で不都合な真実を揉み消してきたに違いない。
「真下くん。君の仕事は、私の周りを飛ぶ鬱陶しい蠅を物理的に叩き落とすことだ。マスコミの相手は『先生』がやる。君は、自分の仕事だけを考えていればいい」
私はコーヒーを一口飲み、意を決して口を開いた。
ただの警護上の報告を装いながら、この男の奥底にある『ユウ』への感情を探るために。
「承知いたしました。……それと、警護上のご報告がございます。昨夜遅く、三階の廊下で……総一郎様とお会いしました」
「……父に?」
晃一郎がカップを口へ運ぼうとしていた手を、ぴたりと止めた。
声の温度が、不自然なほど一気に下がった。
「はい。私が使わせていただいている部屋を、絶対に汚すなと強い警告を受けました。……それと、かつてあの部屋にいたという『子供』の話を」
ガチャンッ、と晃一郎がコーヒーカップを乱暴にソーサーへ叩きつけた。
甲高い陶器の音が、広いダイニングへ響き渡る。
私は眉一つ動かさず、彼の顔を見つめた。
そこにあったのは、先ほどまでの優雅な冷徹さではない。
どす黒く濁った、隠しようのない憎悪だった。
「あのボケ老人が……! まだ、あいつのことを口にしているのか!」
「……総一郎様は、とても心優しい子だったと、懐かしんでおられましたが」
私が静かにそう付け加えると、晃一郎は首をゴキリと鳴らし、憎々しげに顔を歪めた。
「優しいだと? 冗談ではない!」
吐き捨てるような声が、広い部屋の空気をびりびりと震わせた。
「あの部屋にいたのは、親の言うこともまったく聞かず、癇癪を起こしては衝動的に暴力を振るうような……どうしようもないクズだった! あんな出来損ないの狂人が、優しいはずがなかろう!」
私は思わず息を呑んだ。
