椅子に座りますか

 ***
 
 深夜の静寂に包まれた三階の廊下は、まるで深い海の底へ沈んだような暗闇に包まれていた。

 私はトイレに行くためにユウが過ごした部屋を出た、その時だった。
 廊下の先に広がる重厚な影の中に、一人の老人が立っていた。

 黒光りする一本の杖へ両手を重ね、微動だにせずこちらを見つめている。
 三十年前、この国の頂点に立った元総理大臣――久我総一郎。
 晃一郎の父親であり、久我一族の絶対的な家長でもある男だった。

 この深夜、誰に付き添われるでもなく、一人で杖をつきながら三階の最奥まで上がってきたらしい。

「……誰だ」
 声は枯れ、掠れていた。
 だが、その響きには、かつて一国を動かした権力者の名残が確かに残っていた。
「……幹事長の特命連絡官、真下と申します。夜分にすいません」

 私が深く頭を下げると、総一郎の濁った瞳が、私の背後にある部屋の扉へ向けられた。

 その瞬間だった。

 老人の顔が突然、何かに憑かれたように険しく歪んだ。
 ガンッ!
 総一郎が杖を激しく床へ叩きつけ、その音が深夜の廊下へ大きく響き渡った。

「この部屋にあるものは、何一つ動かすな! この部屋は絶対に汚すなッ!」
「……っ」
 あまりにも唐突な激昂に、私は思わず息を呑んだ。
「……承知しております。何も触れておりません」

 そう答えた途端、総一郎の表情が変わった。
 怒りに濁っていた瞳から、突然力が抜けた。

「……君は……」
 老人は一歩、こちらへ近づき、私の顔を覗き込んだ。
「この部屋にいた子と……少し、目が似ているな」

 心臓が大きく跳ねた。

(ユウ……!)
 この老人の混濁した記憶の中に、今もユウがいる。
「……あの子は、優しい子だった」

 総一郎は、私を見ているのか、それとも私の顔を通して遠い過去の誰かを見ているのか分からないまま、独り言のように静かに語り始めた。

「この家の人間は、私を含めて権力や利権のことしか頭になかった。だが……あの子だけは違った」

 総一郎の声が、僅かに震えた。

「庭先で雨に濡れた小鳥がいれば、自分の服で包んで温めてやる。草花が枯れれば、本気で涙を流す。……あまりにも純粋な魂を持った子だった」

 その言葉を聞くうちに、私の視界が熱を帯びていった。

 総一郎が語っているのは、間違いなく、かつてあの小さなアパートで私と一緒に暮らしていたユウそのものだった。

「……あの子は、写真に魅せられていた」
 総一郎は懐かしむように、ゆっくりと目を細めた。
「ファインダー越しに見る世界は、私が見てきた無機質な権力の景色よりも、ずっと澄んでいて、美しかった」

 老人の声には、深い慈しみが滲んでいた。
「あの子は絵の具を水で溶き、パレットの上で慎重に色を混ぜ合わせていた。夕焼けのグラデーションも、雨上がりの湿った空気の色さえも、あの子の手にかかれば命を吹き込まれたように蘇った」

 総一郎の瞳に、涙が滲んでいた。
「色と色が混ざり合い、そこから新しい色が生まれる。その瞬間に、あの子は命の躍動を感じていたのだろう。……私は、その繊細な指先と、混じり合っていく色の深みを見るのが好きだった」

 老人は小さく息を吐いた。
「あの子が描く絵には、見る者の心を洗うような優しさがあったのだよ」
 その話を聞いているうちに、私の記憶の奥から、幼いユウの姿が鮮明に蘇った。
『兄ちゃん、青と黄色を混ぜるとね、光が隠れたみたいな深い緑になるんだよ』

 幼い指を絵の具で真っ青に染めながら、嬉しそうに笑っていたユウ。
 憎しみと義憤で凝り固まっていた私の胸の中に、ほんの僅かだが温かな光が差し込んだ。

「……良い目をした子供だった」
 総一郎は、遠い過去を見つめるように呟いた。
「あれは、この家で私が唯一、心から慈しんだ『命』の跡なのだから」

 それだけを言い残すと、総一郎はゆっくりと背を向けた。
 杖が床を叩く乾いた音が、少しずつ遠ざかっていく。
 私はその背中を、ただ黙って見送った。

 やがて廊下の静寂が戻ると、窓の外から微かな鳥の囀りが聞こえてきた。
 私はトイレを済ませ再び部屋へ戻り、ベッドの端へ腰を下ろした。
 視線の先には、デスクの上に残された水彩画がある。

 総一郎の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
 ――あの子だけは違った。
 ――私が唯一、慈しんだ命の跡。

 胸の奥に、一つの疑問が重く沈んでいく。
 なぜ、ユウは死ななければならなかったのか。
 あれほど優しく。
 あれほど命を大切にしていた子が。

 なぜ、この家へ引き取られたあと、わずか数年で命を落とさなければならなかったのか。

 私は水彩画を傷つけないよう丁寧に手に取り、引き出しの奥へそっとしまった。