椅子に座りますか

 *  *  *
 
 そこからの時間は、まさに怒涛だった。
 私は久我の『内側の影』として、夜の帳が下りたこの国の心臓部を駆け回ることになった。
 
 午後六時半。

 都内の高級ホテルで開催された、財界人とのレセプションパーティー。
 会場の入口や外周ではエリートSPたちが完璧な警護の壁を築いていたが、久我のすぐ斜め後ろ――最も刃が届きやすい絶対的な死角に立っていたのは、私だった。

 遠巻きにSPたちがこちらを睨みつける中、私は群衆の中にテロリストの影が潜んでいないか目を配りながら、久我のグラスへ注がれる飲み物にまで注意を払った。
 昨日、息子を殺されたばかりだというのに、久我は見事なまでに平然と仮面を被り続けていた。
 
午後九時。

 赤坂の奥まった場所にある、看板も掲げられていない高級料亭。

 マスコミはもちろん、エリートSPたちですら建物の外へ締め出された。
 その座敷の奥で、久我は派閥の重鎮議員たちと、天楽建設のライバルにあたる国内最大手ゼネコンの会長を招き、密会を行っていた。

 私は襖のすぐ外に立ち、ただの置物のように息を潜めた。
 微かに漏れ聞こえてくるのは、息子を失った悲しみでも、テロリストへの怒りでもなかった。

『……天楽建設の社長が消えた今、湾岸の巨大開発プロジェクトは完全に宙に浮きましたな。幹事長、ここは我々がしっかり引き継がせていただきますよ』
『うむ。テロの混乱を利用して、神谷総理の弱腰を叩く絶好の機会だ。この機に一気に政局の主導権を握るぞ』
(……腐りきっている)
 襖一枚を隔てた向こう側では、人間の命を奪った悲惨なテロ事件すら、利権の再分配と権力闘争の道具として冷酷に取引されている。

 腸が煮えくり返るような怒りを奥歯で噛み殺し、私はただひたすら周囲の警戒を続けた。

 そして、日付が変わろうとする深夜零時前。
 黒塗りの防弾仕様の車が、冷たい夜雨の降る東京の街を静かに滑っていた。
 後方の護衛車に乗るSPたちの苛立ちをバックミラー越しに感じながら、私は助手席に座り、フロントガラスの向こうに広がる暗闇を凝視していた。

「……ご苦労だったな、真下」
 後部座席から、久我が低い声で労ってきた。
「初日から連れ回して悪かったが、これが私の日常だ。息をつく暇もない」
「問題ありません」
 私は短く答えた。

 やがて車は、都内屈指の高級住宅街の、さらに奥まった場所へ進入していった。
 高い石壁に囲まれ、周囲の邸宅とは明らかに一線を画す異様な規模の豪邸だった。巨大な鉄格子の門には無数の監視カメラが設置され、数名の屈強な民間警備員が常駐している。

「幹事長、お帰りなさいませ」
 警備員たちが雨に打たれながら一斉に最敬礼し、重々しい金属音と共に鉄門が開いていった。

 公式のSPたちが乗る車は、門の外で待機を命じられていた。
 つまり、ここから先は本当に、法も警察の目も容易には届かない『久我の絶対領域』なのだ。

 広大な敷地内へ車が滑り込む。
 ヘッドライトに照らされた、手入れの行き届いた日本庭園。そのさらに奥には、まるで要塞のような巨大な屋敷がそびえ立っていた。

「降りるぞ、真下」
 車寄せに停車すると、私は素早く降りて後部座席のドアを開けた。
 久我がゆっくりと車から降り立つ。
 冷たい夜の雨が、私の頬を濡らした。

 やがて玄関の巨大な扉が開き、使用人たちが深く頭を下げて久我を出迎えた。
 そこには、息が詰まるほど異様な静けさと冷たさが漂っていた。
 私は周囲の配置や防犯カメラの位置を一つずつ脳裏へ焼き付けながら、久我の背中を追った。

 玄関での重苦しい出迎えを抜け、私たちは私邸のさらに奥へ進んでいった。
 大理石の床に響く足音だけが、不気味なほど冷たく反響している。

 巨大な吹き抜けのホール。
 名画が飾られた長い回廊。

 そこには莫大な富と権力を見せつける、圧倒的な暴力とも呼べるものが存在していた。

 だが、そのどこからも、血の通った人間が暮らしている生活の匂いだけは微塵も感じられなかった。

「……今日は遅い。お前はここで休め」
 三階の最奥で久我が立ち止まり、分厚い木製の扉を開けた。
 そこは、私のような外様の刑事に与えられるには、あまりにも立派すぎる扉。

 だが、部屋へ足を踏み入れた瞬間、私の視線はある一点へ吸い寄せられ、心臓が激しく警鐘を鳴らした。
 アンティーク調のベッドと豪奢な家具に囲まれた室内で、部屋の片隅に置かれた小さな木製のデスクと、その周辺だけが異質だった。

 この冷徹な屋敷の中で、そこだけがまるで『時間を止めたまま』取り残されているように見える。
 デスクの上に取り付けられたコルクボードには、何枚もの『写真』と、それをそっくり真似て描かれた『画用紙』が、対になるように並べて画鋲で留められていた。

 不揃いな線。
 淡い色を何度も重ねた、クレヨンの跡。

 図鑑から切り抜かれた野鳥や動物の写真の隣には、それを一生懸命に真似て描かれた生き物たちの絵がある。窓から見える遠い山や空を切り取った写真の横には、同じ景色を描いた幼い風景画が並んでいた。

 そして、その中に一枚だけ、色褪せた雀の写真があった。
 その隣には、小さな雀の姿を大事そうに描いた絵が貼られている。
 絵の下には、たどたどしいひらがなで、一言だけ書かれていた。
『ちーこ』
(……チーコ……!)

 その文字を見た瞬間、すべてを理解した。

 全身の血液が逆流したような感覚に襲われ、視界がぐらりと揺れた。
 写真の隣へ、それを真似して描いた絵を並べて飾る。
 それは、私と引き離され、この久我家へ引き取られていった実の弟――ユウが、幼い頃から続けていた絵だった。

 ここは、ユウが短い命の最後の時間を過ごした部屋だったのだ。

「……ん?」
 久我が私の視線の先に気づき、コルクボードを一瞥した。
 すると背後に控えていた初老の家政婦へ向かい、何でもないことのように淡々と命じた。
「おい、その写真と絵はとりあえずどけておけ。客人を泊めるのに邪魔だろう」
「も、申し訳ございません、旦那様。すぐに外します」