椅子に座りますか

「あんなに真っ直ぐで、誰よりも命を重んじる刑事はいなかった」

 綾瀬は静かに目を伏せた。
「今、現場を離れて交番勤務をしていることが警察組織にとって最大の損失だと、長官も嘆いておられたよ。……その修造に育てられたお前が久我の懐へ潜り込み、長官の目となり耳となってくれるなら、これほど心強いことはない」

 綾瀬の言葉が、地下室の熱気と共に胸の奥を熱く焦がしていった。
 私は、久我という化け物を守るための『犬』にされるのだと思っていた。

 だが、違った。

 警察上層部すら腐り切ったこの絶望的な盤面の中で、この密命は、親父から受け継いだ刑事の魂を胸に、日本の頂点へ巣食う巨悪の懐へ飛び込むための最後の切り札だったのだ。

「……わかりました」

 私は滲む涙を堪えながら拳を強く握り締め、綾瀬管理官を真っ直ぐに見返した。
「俺は、久我幹事長の特命連絡官として懐に潜ります。泥水をすすってでも、必ずあの男の隠している闇を暴き出してみせます」
「頼んだぞ、真下」

 綾瀬は深く頷き、私の肩を力強く叩いた。
 その手は、かつて私を励ましてくれた親父と同じように、熱く、重かった。
 
*  *  *

 地下ボイラー室で綾瀬管理官から密命を受け、その後、数時間に及ぶ手続きと尋問にも似たレクチャーを終えた頃には、東京の空はすでに重苦しい夕闇へ沈みかけていた。
 
 永田町の一等地。
 国会議事堂を見下ろすように建つ、久我晃一郎の私設オフィス。
 厚さ十センチはあろうかという防音扉を抜けた瞬間、外の喧騒は完全に遮断された。空気には微かに高級シガーの香りが漂っている。

「幹事長が、奥でお待ちだ」
 私を案内した秘書官の田端が立ち止まり、冷ややかな目で一瞥した。
「勘違いするなよ。幹事長はお前のことを『少しばかり使える盾』として面白がったに過ぎない。我々のような人間が集うこの場所で、少しでも出過ぎた真似をすれば、お前の居場所などすぐに消えてなくなるぞ」
「……ご忠告、感謝します。盾としての務めを果たします」

 私は無表情のまま深く一礼した。
 田端は私の従順な態度に鼻を鳴らし、重厚な扉を開け放った。
 その先には、広大な執務室が広がっていた。

 壁一面を覆う防弾ガラスの向こうには、黄昏時の不気味な紫色に染まった東京のパノラマが広がっている。その景色を背に、巨大なデスクの前へ立っている男がいた。

 ――久我晃一郎。
 昨日、実の息子をテロリストに爆殺されたばかりの男だった。
 だが、その背中からは微塵の悲哀も感じられない。

 デスクの上には、終わったばかりの息子の告別式の進行表が、まるで処理済みの伝票のように端へ追いやられていた。

「……よく来たな、真下」

 振り返った久我の目は爬虫類のように冷たく、私の内臓の温度まで正確に測るような無機質な光を放っていた。

「特命連絡官として着任いたしました。真下です」

 私は直立不動の姿勢を取り、警察官として完璧な敬礼をしてみせた。
 久我はしばらく私の顔を見つめたあと、口元に静かな笑みを浮かべた。

「佐々木邸での君の姿は、目の前で見せてもらったが、実に見事だった。周囲の人間が己の命惜しさに喚き散らす中、君だけが一切躊躇せず、あの椅子へ飛び込んだ」

 久我はゆっくりと歩み寄り、私の目の前でぴたりと止まった。
「警察上層部というものは保身ばかり気にする連中だが、君のように『自己犠牲』を厭わない男が、まだ現場に残っていたとはな」

 圧倒的な権力の質量が、目の前にあるだけで空気を重く軋ませているようだった。

「君のその愚直で真っ直ぐな正義感は、実に美しい。だからこそ、君には私の最も近くにいてほしいのだ。姿なきテロリストがこの国を脅かしている今、私には君のような強固な『盾』が必要だ」
「光栄です」
「これから君には、私の行く先々に同行してもらう。……激務になるが、頼むよ、真下刑事」

 久我が手を差し出してきた。
 私はその冷え切った分厚い手を取り、力強く握り返した。

「いかなる脅威が迫ろうとも、私が必ず幹事長をお守りします」

 嘘偽りのない、強い声だった。
 ただし、私が守るのは、この男の権力でも地位でもない。

 この男を法の下へ引きずり出し、隠されてきたすべての真実を暴き出すその瞬間まで、他の誰にも久我の命を奪わせない。

 それが、私自身の刑事としての執念だった。

「よし。では、すぐに出るぞ」
 久我が執務室の扉を開け、廊下へ出た。
「幹事長。お車の手配が整っております」

 廊下には、仕立ての良いダークスーツに身を包み、耳にワイヤレスイヤホンを装着した屈強な男たちが五名、壁のように並んでいた。

 警視庁警備部から派遣された、要人警護のプロフェッショナル。
 エリートSPたちだ。
 彼らの冷たい視線が、久我の背後に立つ私へ一斉に注がれた。

 安物のスーツを着た、SPの徽章も持たない得体の知れない所轄の平刑事。彼らの目に浮かんだのは、明確な『異物』を見るような警戒と強い敵意だった。

 班長らしき男が、鋭い声で久我へ尋ねた。
「幹事長。そちらの男は……本日の警護計画には記載がありませんが」
「ああ。彼は今日から私につく特別連絡官だ」

 久我は立ち止まりもせず、事も無げに言い放った。
「君たち警備部の優秀さはよく分かっているが、何分、マニュアル通りの動きしかできなくてね。私と同乗するのは彼だ。君たちは後ろの護衛車でついてきたまえ」
「……なっ! お言葉ですが幹事長、素人を一番近くに置くなど、警護の規定から外れます!」

 班長が血相を変えて食い下がったが、久我は冷酷な目で一瞥しただけで黙らせた。
「規定? この私の命より重い規定が、警察にあるのかね。……行くぞ、真下」
「はっ」

 私はSPたちの間を通り抜けた。

 すれ違いざま、射殺すような嫉妬と怒りの視線が肌へ突き刺さるのを感じた。
 これが、久我の狙いなのだろう。
 警察組織の監視の目でもある公式のSPたちを『外側』へ遠ざけ、組織から浮いた野良犬のような私を『内側』へ置く。

 私を完全に孤立させ、自らの支配下にある『都合のいい盾』として機能させるつもりなのだ。