「お、お待ちください幹事長! 真下は所轄のただのヒラ刑事です! 先生のお側に置くなど、無作法で危険すぎます! 警護のことでしたら、私が本庁からもっと優秀な精鋭を何人も手配いたしますので……!」
「優秀な精鋭、だと?」
久我の声が、絶対零度の氷のように冷たく響いた。
「郷田管理官。言葉は悪いが……君は先ほど、佐々木が生死の瀬戸際に立たされた時、一体何をしていた?」
「それは……」
「部屋の隅にすがりつき、ただ震えて見ていただけではないか」
久我の言葉に、郷田の顔から血の気が引いていく。
「己の保身に走り、仲間を見殺しにするような人間に紹介された者など、私は一切信用せん」
郷田は顔面を土気色にしたまま、反論することもできず、わなわなと震えていた。
完全な事実だった。
久我はそんな郷田から興味を失ったように視線を外し、再び私へ顔を向けた。
その直後、郷田はパニックに陥ったように、先ほど床へ取り落としていた警察無線を慌てて拾い上げた。
「……冗談ではありません!」
緊急事態で開かれたままになっていた回線へ向かって、縋るように叫ぶ。
「高山本部長! 綾瀬管理官! 聞こえておりますか! 幹事長が無茶をおっしゃっています! 本庁からもどうかお止めください! 一介のヒラを政治家の身辺に置くなど、組織の人事権としても通るはずが……!」
郷田の必死の訴えが応接室へ響く。
やがて無線の向こうから返ってきたのは、焦りとうわずりを隠し切れない、警視庁特捜本部のトップ――高山本部長の声だった。
『……郷田管理官、静粛にしろ』
一瞬の沈黙のあと、高山は声の調子を整えた。
『久我幹事長直々のご指名とあれば、我々特捜本部としても全面的に協力させていただくほかありません。国家の重鎮の安全と、テロの早期解決のためだ。人事上の特例として、私が責任を持って即座に決裁を下す』
高山本部長は久我派の人間であり、次期総理の最有力候補である幹事長の機嫌を損ねることなど、絶対にできないのだ。
その言葉を引き取るようにして、続いて低く冷静な声が無線から響いた。
『――異存はありません、久我幹事長。本部長の了承に基づき、本庁の権限において、直ちに特命連絡官への任命手続きに入ります』
特捜本部の共同指揮を執る、綾瀬管理官の声だった。
『つきましては、真下という男がどういう人間かをご理解いただくため、彼の経歴や身辺調査をまとめた身上資料も至急ご用意いたしましょう』
「いらないよ」
無線越しの綾瀬の提案を、久我は鼻で笑って一蹴した。
「そんな紙切れに書かれていることなど、何の信用にもならん。経歴や情報など、権力一つでいくらでも書き換えられるからな」
久我は私を見た。
「そんなものより、彼の目を見れば分かる」
僅かに笑う。
「彼は信用できる、とね」
無線の向こうで、綾瀬が僅かに沈黙した。
『……承知いたしました』
やがて、何事もなかったように冷静な声が返ってくる。
『では、手続きは即座に進めます。ただし久我幹事長、一つだけお願いがございます。正式な辞令が下りるまでの数時間だけ、真下を一度、特捜本部へ戻させていただけないでしょうか』
「ほう?」
『彼には、今回の佐々木副大臣の邸宅で起きたテロ騒動の詳細を報告させねばなりません。それに、今後幹事長の身辺に就くにあたり、一介の所轄刑事のままでは無礼があっては困ります。最低限の指導を行う時間が必要です』
綾瀬の隙のない申し出を聞き、久我は満足げに頷いた。
「よかろう。では、後ほど私の事務所へ彼を寄越したまえ」
そして私へ向き直り、薄い笑みを浮かべた。
「……光栄なことだね、真下刑事。大いに期待しているよ」
それ以上、久我が私へ言葉をかけることはなかった。
佐々木と、屈辱に顔を歪めた郷田を従え、悠然とした足取りで応接室を出ていく。
私は腰のホルスターに手を当てたまま、その背中を見送った。
頭の中では、先ほどのやり取りが何度も繰り返されていた。
高山本部長は、久我の圧倒的な権力に屈するように即座にお墨付きを与えた。
そして、現場の状況を無線越しに把握していた綾瀬管理官は、一切の躊躇もなく、この異常とも言える特例人事の処理へ動いた。
さらに綾瀬は、『報告と指導』というもっともらしい名目を使い、久我の側へ正式に送り込まれる前に、私を一度、自分の元へ戻そうとしている。
純粋に私という人間を評価し、自分の側へ置こうとした久我晃一郎。
その要求を即座に了承しながら、巧みに私の手綱を引こうとする警察上層部。
この密室の外でも、私の与り知らない強大な権力者たちの思惑が、私という一人の刑事を駒にして複雑に交錯し始めている。
応接室に残されたのは、不気味なほどの静寂だった。
その中で私は、自分がいつの間にか国家の怪物たちが動かす巨大な盤上へ立たされていることを噛み締めながら、胸の奥で静かに燃え上がる怒りを抑えることができなかった。
***
「優秀な精鋭、だと?」
久我の声が、絶対零度の氷のように冷たく響いた。
「郷田管理官。言葉は悪いが……君は先ほど、佐々木が生死の瀬戸際に立たされた時、一体何をしていた?」
「それは……」
「部屋の隅にすがりつき、ただ震えて見ていただけではないか」
久我の言葉に、郷田の顔から血の気が引いていく。
「己の保身に走り、仲間を見殺しにするような人間に紹介された者など、私は一切信用せん」
郷田は顔面を土気色にしたまま、反論することもできず、わなわなと震えていた。
完全な事実だった。
久我はそんな郷田から興味を失ったように視線を外し、再び私へ顔を向けた。
その直後、郷田はパニックに陥ったように、先ほど床へ取り落としていた警察無線を慌てて拾い上げた。
「……冗談ではありません!」
緊急事態で開かれたままになっていた回線へ向かって、縋るように叫ぶ。
「高山本部長! 綾瀬管理官! 聞こえておりますか! 幹事長が無茶をおっしゃっています! 本庁からもどうかお止めください! 一介のヒラを政治家の身辺に置くなど、組織の人事権としても通るはずが……!」
郷田の必死の訴えが応接室へ響く。
やがて無線の向こうから返ってきたのは、焦りとうわずりを隠し切れない、警視庁特捜本部のトップ――高山本部長の声だった。
『……郷田管理官、静粛にしろ』
一瞬の沈黙のあと、高山は声の調子を整えた。
『久我幹事長直々のご指名とあれば、我々特捜本部としても全面的に協力させていただくほかありません。国家の重鎮の安全と、テロの早期解決のためだ。人事上の特例として、私が責任を持って即座に決裁を下す』
高山本部長は久我派の人間であり、次期総理の最有力候補である幹事長の機嫌を損ねることなど、絶対にできないのだ。
その言葉を引き取るようにして、続いて低く冷静な声が無線から響いた。
『――異存はありません、久我幹事長。本部長の了承に基づき、本庁の権限において、直ちに特命連絡官への任命手続きに入ります』
特捜本部の共同指揮を執る、綾瀬管理官の声だった。
『つきましては、真下という男がどういう人間かをご理解いただくため、彼の経歴や身辺調査をまとめた身上資料も至急ご用意いたしましょう』
「いらないよ」
無線越しの綾瀬の提案を、久我は鼻で笑って一蹴した。
「そんな紙切れに書かれていることなど、何の信用にもならん。経歴や情報など、権力一つでいくらでも書き換えられるからな」
久我は私を見た。
「そんなものより、彼の目を見れば分かる」
僅かに笑う。
「彼は信用できる、とね」
無線の向こうで、綾瀬が僅かに沈黙した。
『……承知いたしました』
やがて、何事もなかったように冷静な声が返ってくる。
『では、手続きは即座に進めます。ただし久我幹事長、一つだけお願いがございます。正式な辞令が下りるまでの数時間だけ、真下を一度、特捜本部へ戻させていただけないでしょうか』
「ほう?」
『彼には、今回の佐々木副大臣の邸宅で起きたテロ騒動の詳細を報告させねばなりません。それに、今後幹事長の身辺に就くにあたり、一介の所轄刑事のままでは無礼があっては困ります。最低限の指導を行う時間が必要です』
綾瀬の隙のない申し出を聞き、久我は満足げに頷いた。
「よかろう。では、後ほど私の事務所へ彼を寄越したまえ」
そして私へ向き直り、薄い笑みを浮かべた。
「……光栄なことだね、真下刑事。大いに期待しているよ」
それ以上、久我が私へ言葉をかけることはなかった。
佐々木と、屈辱に顔を歪めた郷田を従え、悠然とした足取りで応接室を出ていく。
私は腰のホルスターに手を当てたまま、その背中を見送った。
頭の中では、先ほどのやり取りが何度も繰り返されていた。
高山本部長は、久我の圧倒的な権力に屈するように即座にお墨付きを与えた。
そして、現場の状況を無線越しに把握していた綾瀬管理官は、一切の躊躇もなく、この異常とも言える特例人事の処理へ動いた。
さらに綾瀬は、『報告と指導』というもっともらしい名目を使い、久我の側へ正式に送り込まれる前に、私を一度、自分の元へ戻そうとしている。
純粋に私という人間を評価し、自分の側へ置こうとした久我晃一郎。
その要求を即座に了承しながら、巧みに私の手綱を引こうとする警察上層部。
この密室の外でも、私の与り知らない強大な権力者たちの思惑が、私という一人の刑事を駒にして複雑に交錯し始めている。
応接室に残されたのは、不気味なほどの静寂だった。
その中で私は、自分がいつの間にか国家の怪物たちが動かす巨大な盤上へ立たされていることを噛み締めながら、胸の奥で静かに燃え上がる怒りを抑えることができなかった。
***
