椅子に座りますか

「君の政治生命は、私がついている限り微塵も揺るがない。世間のノイズなど、すぐに揉み消してやる。……君はこれからも、私の大事な右腕だ。こんなくだらない茶番で弱腰になるな」

 私は思わず息を呑んだ。

 普通なら、即座に切り捨ててもおかしくないほどの大醜態だった。
 だが、久我は佐々木を見捨てない。

 百万の人間が声を上げようが、自分が一言命じれば、その炎上などいくらでも消し去れる。

 それほどまでの絶対的な権力と自信が、この怪物のような男にはあるのだ。

「そ、そうだ……! 久我先生のおっしゃる通りだ! 私は何も終わっていない!」
 久我の言葉に強烈な庇護を感じ取った佐々木は、たちまち権力者としての傲慢な顔を取り戻し、一気に立ち上がった。

 そんな二人の背中へ向かって、私は怒りで震える拳を握り締めた。
 どうしても、聞かずにはいられなかった。

「……久我幹事長。一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
 私の低い声に、久我がゆっくりと肩越しに振り返る。
「本日は……今この時間は、ご子息である晃生議員の『告別式』が執り行われているはずです。それを放り出してまで、佐々木先生とこの密室で何を話し合っておられたのですか」
「貴様、幹事長に向かってなんという無礼なことを!」
 郷田が顔色を変えて叫んだが、久我は歩みを止めることも、表情を変えることもなかった。

「政局は、身内の不幸を待ってはくれないのだよ、真下刑事」
 久我は能面のような顔のまま、淡々と答えた。
「今、この国は姿なきテロリストの脅威に晒され、大衆は不安と狂乱の渦中にいる。このような非常時に、国家の舵取りを担う者が、たった一人の血肉の死を悼んで立ち止まることなど許されると思うかね?」

 そこには、嘘や言い訳の響きが一切なかった。
 ただ純粋に、自らの信念を語る絶対者の声だった。

「顔なき民というものは、常に正しく導いてくれる強大な存在を必要としている。私が私情に流され、足元の盤石を崩すようなことがあれば、一億の国民が路頭に迷うのだよ」

 久我は私の目を真っ直ぐに見据えた。
「明日を生きる民の生活を守り抜き、この国を正しい方向へ導くことこそが、上に立つ者の絶対的な『責務』だ。……故人を送る涙など、身内と秘書に流させておけば十分だ」

 私は言葉を失った。

 この男は、自分を神か救世主とでも信じているのではないか。
 しかも、私利私欲のために口先だけで「国民のため」と言っているようには見えない。

 本気なのだ。

 自分こそが国を導く存在であり、その目的のためなら、たとえ実の息子の死であろうと、立ち止まる理由にはならないと本気で信じている。

 だからこそ、これほど残酷に身内の死すら切り捨てられる。
 その血の通わない、底知れない傲慢さに、私は背筋が凍る思いがした。

 久我はしばらく私を見つめたあと、不意に、深い感心を滲ませたような薄い笑みを浮かべた。

「……面白いな、君は」
「何が、面白いんですか」
「周囲が保身と恐怖で凍りつき、佐々木自身でさえ命乞いをして喚き散らしていた。その中で、君だけは躊躇わず、あの椅子へ飛び込んだ」

 久我の視線が、私の身体をゆっくりと値踏みするように動いた。

「損得勘定も、周囲の狂乱も関係ない。ただ己の身を挺して『救うべき命』を守り抜くという、その純粋で揺るぎない意志……私は大いに気に入ったよ」

 私は何も答えられなかった。

 この男は、他人の痛みが分からないのではない。
 分かったうえで、必要なら切り捨てられる。
 その方が、私には遥かに恐ろしかった。

 久我は薄く笑ったまま、今度は郷田へ視線を向けると、信じられない言葉を口にした。

「今日から、そこにいる真下刑事を、特捜本部と私とを繋ぐ『専属の特命連絡係』として、常に私の側に置きたまえ」

「な……っ!」
 郷田が絶句し、私も思わず息を呑んだ。