佐々木がこの椅子から完全に腰を浮かせた瞬間、座面に仕込まれているという感圧式の起爆スイッチが作動する。犯人の言葉が真実なら、その瞬間にすべてが終わる。
(こんな奴、このまま見殺しにすればいい……!)
再び、どす黒い感情が胸をよぎった。
だが、その瞬間、昨夜の交番で聞いた義父の声が脳裏に蘇った。
『流れを止めるな。ジョウ、止まるな』
あの太く温かい手で肩を叩かれた感触まで、鮮明に蘇ってくる。
正義とは、相手が善人だから救うという条件付きの免罪符ではない。
誰に憎まれようと、相手がどれほど醜悪な人間であろうと、目の前にある命が不当に奪われるのを防ぐ。
それが、泥水を啜りながらでも自分の人生を懸けて守ると誓った、私の刑事としての誇りだった。
私は佐々木へ向かって全速力で踏み込み、胸ぐらを掴むと、横へ力任せに引き剥がした。
「ヒィッ……!?」
佐々木の身体が椅子から外れ、そのまま無様にペルシャ絨毯の上へ転がり落ちる。
座面が跳ね上がろうとした、その刹那。
コンマ数秒の間に、私は自らの身体を投げ出すようにして、漆黒のレザーチェアへ全体重を叩きつけた。
ギシッ、と特注の分厚い革が深く沈み込む音が響いた。
私は両手で肘掛けを死に物狂いで掴み、固く目を閉じた。
次の瞬間には、座面の下から数千度の業火と爆風が突き上げ、身体ごと吹き飛ばされるかもしれない。
その覚悟で、息を止めた。
一秒。
三秒。
五秒。
しかし、何も起こらなかった。
「……え?」
私は目を閉じたまま、耳を澄ませた。
爆発音はない。
熱もない。
身体を引き裂く衝撃もない。
その代わり、けたたましく鳴り続けていた警告音が唐突に止まり、ハッキングされたスピーカーから愉快そうな拍手と大爆笑が響き渡った。
『あははははははッ! ブラボー! スタンディングオベーションだ、真下刑事!』
私はゆっくりと目を開けた。
全身に冷たい汗が噴き出している。心臓は今にも胸を突き破りそうな勢いで脈打っていた。
呆然とテレビ画面を見つめる私に、犯人は楽しそうに言葉を浴びせてくる。
『いやあ、傑作だ。まさか本当に自分の命を賭けて、こんな薄汚い悪党の身代わりになる刑事がいるなんて! 君のその正義感には、心底頭が下がる思いだよ!』
「どういう……ことだ……。爆弾は……」
私がかすれた声で呟くと、犯人はスピーカーの向こうで腹を抱えるように笑い続けた。
『言ったじゃないか。「数日以内に世に放たれる巨大スキャンダル」が真のターゲットだって。今日のところは、大衆を盛り上げるための前座。最高の『ドッキリ』だよ』
犯人はひとしきり笑ったあと、平然と言い放った。
『座面に爆弾なんて、最初から仕掛けちゃいない。完全な『嘘(ブラフ)』さ!』
「な……っ」
床に這いつくばっていた佐々木が、間の抜けた声を漏らしながら顔を上げた。
爆弾など、最初から存在しなかった。
私たちは、犯人の言葉一つに踊らされ、目には見えない恐怖に怯え続けていたに過ぎない。
『第三の大罪のテーマは「虚偽」。十五年間嘘をつき続けてきた男を裁くのに、火薬なんて野蛮なものは必要ない』
犯人の声には、底知れない悪意と愉悦が満ちていた。
『百万人の大衆の前で、自分の命惜しさに泣き叫び、すべてを捨てて無様に命乞いをする姿を日本中へ生配信で晒す。政治家として、これ以上の「社会的死(処刑)」はないだろう?』
「き、きさまぁぁっ!! よくもこの私をコケに……!」
自分がただの道化として日本中に醜態を晒し、政治生命まで断たれかねない状況に追い込まれたことを理解した佐々木は、顔面を紫色に染めながら、怒りと屈辱にわなわなと震えた。
『真下刑事。君のおかげで、最高のショーになったよ』
犯人の声が、再び私へ向けられる。
『君も思い知っただろう? 彼らのような怪物を相手にするには、法律や警察の正義など何の役にも立たないことを』
「……」
『今日のこれは、ただの前座だ』
犯人の声が、次第に地を這うような悪魔の囁きへ変わっていく。
『メインディッシュは、まだこれからだよ』
背筋を、冷たいものが伝った。
『また数日後にお会いしよう、真下刑事。次こそが……この国の腐った土台を木端微塵に吹き飛ばす、本当の地獄(スキャンダル)だ』
プツン、と無機質な通信切れの音が響き、巨大テレビの電源が完全に落ちた。
同時にスマートホームのロックが自動的に解除され、応接室の照明がゆっくりと元の明るさを取り戻していく。
完全な静寂が訪れた。
ネットの向こうで喚き続けていた百万人のコメントも、犯人の歪んだ笑い声も消え去り、冷え切った密室には私たちの荒い呼吸だけが残っていた。
その静寂の中で、コツン、とマイセンのティーカップがソーサーへ置かれる小さな音が響いた。
ソファに座っていた久我晃一郎が、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、今の爆弾騒ぎへの動揺も、自分の派閥の重鎮が日本中へ醜態を晒したことへの焦りも、何一つ浮かんでいない。
久我は高級スーツに入った僅かな皺を手で払い、何事もなかったかのように身なりを整えた。その一連の動作には、むしろ絶対的な王者のような落ち着きと威圧感さえ漂っていた。
「立て、佐々木くん。これ以上、無様を晒すな」
久我の絶対的な冷気を帯びた一言に、佐々木がびくりと肩を震わせた。
「く、久我先生……! 私は……私は百万人の大衆の前でこんな姿を……もう政治家としては……」
「たかが顔の見えない愚民が、ネットで喚いているだけだ。法的にも証拠など何一つ存在しない」
久我は平然と言い放った。
(こんな奴、このまま見殺しにすればいい……!)
再び、どす黒い感情が胸をよぎった。
だが、その瞬間、昨夜の交番で聞いた義父の声が脳裏に蘇った。
『流れを止めるな。ジョウ、止まるな』
あの太く温かい手で肩を叩かれた感触まで、鮮明に蘇ってくる。
正義とは、相手が善人だから救うという条件付きの免罪符ではない。
誰に憎まれようと、相手がどれほど醜悪な人間であろうと、目の前にある命が不当に奪われるのを防ぐ。
それが、泥水を啜りながらでも自分の人生を懸けて守ると誓った、私の刑事としての誇りだった。
私は佐々木へ向かって全速力で踏み込み、胸ぐらを掴むと、横へ力任せに引き剥がした。
「ヒィッ……!?」
佐々木の身体が椅子から外れ、そのまま無様にペルシャ絨毯の上へ転がり落ちる。
座面が跳ね上がろうとした、その刹那。
コンマ数秒の間に、私は自らの身体を投げ出すようにして、漆黒のレザーチェアへ全体重を叩きつけた。
ギシッ、と特注の分厚い革が深く沈み込む音が響いた。
私は両手で肘掛けを死に物狂いで掴み、固く目を閉じた。
次の瞬間には、座面の下から数千度の業火と爆風が突き上げ、身体ごと吹き飛ばされるかもしれない。
その覚悟で、息を止めた。
一秒。
三秒。
五秒。
しかし、何も起こらなかった。
「……え?」
私は目を閉じたまま、耳を澄ませた。
爆発音はない。
熱もない。
身体を引き裂く衝撃もない。
その代わり、けたたましく鳴り続けていた警告音が唐突に止まり、ハッキングされたスピーカーから愉快そうな拍手と大爆笑が響き渡った。
『あははははははッ! ブラボー! スタンディングオベーションだ、真下刑事!』
私はゆっくりと目を開けた。
全身に冷たい汗が噴き出している。心臓は今にも胸を突き破りそうな勢いで脈打っていた。
呆然とテレビ画面を見つめる私に、犯人は楽しそうに言葉を浴びせてくる。
『いやあ、傑作だ。まさか本当に自分の命を賭けて、こんな薄汚い悪党の身代わりになる刑事がいるなんて! 君のその正義感には、心底頭が下がる思いだよ!』
「どういう……ことだ……。爆弾は……」
私がかすれた声で呟くと、犯人はスピーカーの向こうで腹を抱えるように笑い続けた。
『言ったじゃないか。「数日以内に世に放たれる巨大スキャンダル」が真のターゲットだって。今日のところは、大衆を盛り上げるための前座。最高の『ドッキリ』だよ』
犯人はひとしきり笑ったあと、平然と言い放った。
『座面に爆弾なんて、最初から仕掛けちゃいない。完全な『嘘(ブラフ)』さ!』
「な……っ」
床に這いつくばっていた佐々木が、間の抜けた声を漏らしながら顔を上げた。
爆弾など、最初から存在しなかった。
私たちは、犯人の言葉一つに踊らされ、目には見えない恐怖に怯え続けていたに過ぎない。
『第三の大罪のテーマは「虚偽」。十五年間嘘をつき続けてきた男を裁くのに、火薬なんて野蛮なものは必要ない』
犯人の声には、底知れない悪意と愉悦が満ちていた。
『百万人の大衆の前で、自分の命惜しさに泣き叫び、すべてを捨てて無様に命乞いをする姿を日本中へ生配信で晒す。政治家として、これ以上の「社会的死(処刑)」はないだろう?』
「き、きさまぁぁっ!! よくもこの私をコケに……!」
自分がただの道化として日本中に醜態を晒し、政治生命まで断たれかねない状況に追い込まれたことを理解した佐々木は、顔面を紫色に染めながら、怒りと屈辱にわなわなと震えた。
『真下刑事。君のおかげで、最高のショーになったよ』
犯人の声が、再び私へ向けられる。
『君も思い知っただろう? 彼らのような怪物を相手にするには、法律や警察の正義など何の役にも立たないことを』
「……」
『今日のこれは、ただの前座だ』
犯人の声が、次第に地を這うような悪魔の囁きへ変わっていく。
『メインディッシュは、まだこれからだよ』
背筋を、冷たいものが伝った。
『また数日後にお会いしよう、真下刑事。次こそが……この国の腐った土台を木端微塵に吹き飛ばす、本当の地獄(スキャンダル)だ』
プツン、と無機質な通信切れの音が響き、巨大テレビの電源が完全に落ちた。
同時にスマートホームのロックが自動的に解除され、応接室の照明がゆっくりと元の明るさを取り戻していく。
完全な静寂が訪れた。
ネットの向こうで喚き続けていた百万人のコメントも、犯人の歪んだ笑い声も消え去り、冷え切った密室には私たちの荒い呼吸だけが残っていた。
その静寂の中で、コツン、とマイセンのティーカップがソーサーへ置かれる小さな音が響いた。
ソファに座っていた久我晃一郎が、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、今の爆弾騒ぎへの動揺も、自分の派閥の重鎮が日本中へ醜態を晒したことへの焦りも、何一つ浮かんでいない。
久我は高級スーツに入った僅かな皺を手で払い、何事もなかったかのように身なりを整えた。その一連の動作には、むしろ絶対的な王者のような落ち着きと威圧感さえ漂っていた。
「立て、佐々木くん。これ以上、無様を晒すな」
久我の絶対的な冷気を帯びた一言に、佐々木がびくりと肩を震わせた。
「く、久我先生……! 私は……私は百万人の大衆の前でこんな姿を……もう政治家としては……」
「たかが顔の見えない愚民が、ネットで喚いているだけだ。法的にも証拠など何一つ存在しない」
久我は平然と言い放った。
