椅子に座りますか

『さっきも言った通り、この爆弾は僕のただの「嘘」かもしれない。だったら、君が代わりに座ってあげればいい。そうすれば佐々木先生は立ち上がれるし、ただの普通の椅子なら誰も死なない。最高のハッピーエンドだ』

 犯人の声が、地を這うように低く、ねっとりとした冷酷さを帯びた。

『ただし……もし僕の「嘘ですよ」という言葉そのものが嘘で、本当に感圧式のセンサーが仕込まれていた場合、佐々木先生が立ち上がるのと同時に、君がその椅子へ全体重を乗せて座り直さなければ、爆発は防げない』

 犯人の声には、明らかな愉悦が滲んでいた。
『さあ。百万人の賛成票が過半数を超え、ロックが解除される前に、君は自分の命を賭けて、このロシアンルーレットの席へ座る勇気があるかい?』

 私は戦慄した。

 犯人は、佐々木をただ殺すだけでは満足していない。
 私という人間に、究極の『命の重さ』を天秤にかけさせようとしているのだ。

 この男を見捨てれば、爆弾が本物である限り、佐々木は死ぬ。そして私は、『権力者を見殺しにした刑事』として、犯人の狂気と同じ側へ足を踏み入れることになる。

 だが、私が身代わりとなって椅子へ座れば、嘘か本当か分からない死のスイッチが、今度は私自身の命へ直結する。

 テレビ画面のカウンターが、無情に回り続けていた。

【処刑に賛成:三十万票】
 過半数の五十万票まで、あと僅か。
 時間にすれば、数十秒しかない。

「……真下刑事、助けてくれ……!」
 佐々木は、嘘か真実か分からない死の恐怖に顔を涙と鼻水と脂汗でぐしゃぐしゃにしながら、震える手を私へ伸ばした。

「金ならいくらでも払う! 昇進も約束する! だから、お前の言う通りにする! 私を助けてくれぇっ!!」

 あまりにも醜悪な命乞いだった。
 久我晃一郎ですら、その惨めな醜態をソファから冷たい目で見下ろしている。

 佐々木には、十五年前に他人の命を犠牲にしたことへの反省など微塵もないように見えた。ただ、自分が死ぬことだけが怖い。その恐怖から逃れたい一心で、金も地位も差し出そうとしている。

(こんな男のために、俺が命を懸ける必要があるのか……?)

 どす黒い葛藤が、胸の奥で渦巻いた。
 見捨てろ、と私の中の黒い感情が甘く囁く。
 こいつは死んで当然の男だ。

 十五年前、一人の父親を死へ追いやり、その血の上で権力の椅子へ座り続けてきた。

 ならば、大衆の狂気に任せて見殺しにすればいい。たとえ爆弾が本物だったとしても、それこそが正当な『報い』ではないのか。

 その時、犯人の悪魔のような囁きがスピーカーから響いた。

『……助かりたいですか、佐々木先生』
「た、助けてくれ! なんだってする! 言う通りにするから!」
『ならば、百万人以上の観衆の前で、あなたが過去に犯した最大の「虚偽」……あの奇跡の無罪判決の裏側を、今ここで自白することですね』

 佐々木の顔が、びくりと痙攣した。

『あなたの資金管理団体を巡る、数億円の土地取引の虚偽記入事件。あの時、裁判長はなんと言ってあなたに無罪を言い渡したか……自分の口で言ってみてください』
「そ、それは……法が私の潔白を証明したからだ!」
『嘘をつくな!』

 ビーッ、ビーッ、と部屋の警告音が一段とけたたましく鳴り響いた。テレビ画面に表示された「処刑賛成票」は、すでに五十万という過半数の境界へ迫ろうとしている。

「わ、わかった! 言う、言うから待ってくれ!」
 佐々木は椅子の上で中腰のまま、滝のような汗を流しながら叫んだ。
「あ、あの時の判決は……『私が秘書から虚偽記入の報告を受け、それを了承したことは認定する』。だが、『私と秘書との間に共謀は認められない』……だから、無罪だと……!」

 私はその言葉を聞き、耳を疑った。

 秘書から違法な処理について報告を受け、それを自ら「了承」していたにもかかわらず、共謀関係までは認められないから無罪。しかも、その判決で裁判長は検察側の捜査手法を厳しく批判し、佐々木は「国家権力の陰謀に巻き込まれた悲劇の政治家」として、見事に政界への復権を果たしていたのだ。

『違法行為を了承しておきながら、罪には問われない。論理が完全に破綻した、実に都合のいい判決だ』

 犯人の声から、先ほどまでの愉快そうな響きが消えた。

『……さあ、本音を言え。あなた自身は、あの判決をどう思っている?』
「……っ!」

 佐々木は口をぱくぱくと動かしながら、逃げ道を探すように絶望的な目を宙へ泳がせた。

【処刑に賛成:49万9千票】
 カウンターは、刻一刻と死のデッドラインへ近づいている。

「あ、ああああっ!! わかっている、わかっているさ! あれは……捉え方によっては、無罪じゃないと思われるかもしれない!!」
 ついに佐々木は、百万人が見守る生配信の前で泣き叫びながら、自らの口で罪を吐き出し始めた。

「報告を聞いておきながら、法廷では知らぬ存ぜぬを突き通して、秘書に責任を押しつけたんだ! 私は法の抜け穴を利用して助かっただけだ! だから、どうか命だけは……!!」

『……ブラボー。見事な自白だ』

 スピーカーの向こうから、犯人が満足げに手を叩く音が聞こえてきた。

『これで百万人の大衆は、あなたがただの「合法的な嘘」に乗っかってふんぞり返っていただけの、空っぽの豚だと理解したでしょう』

「なっ……! 約束だ、爆弾を止めろ! 私はすべて話したぞ!」
 佐々木は縋りつくように叫んだが、犯人は答えなかった。

 代わりに、テレビ画面のカウンターが無情にも【50万票】の境界を突破した。けたたましい警告音と同時に画面全体が血のような真紅へ染まり、中央に【ロック解除(システム・アクティベート)】の文字が激しく点滅する。

「お、おい! ふざけるな! 全部話したぞ! なぜロックを解除するんだぁぁっ!!」

 恐怖とパニックで完全に理性を失った佐々木が絶叫しながら椅子から立ち上がろうとし、最も近くにいた私へ縋りつこうと手を伸ばした。

「やめろ、立つなッ!!」
 私は獣のような咆哮を上げた。