* * *
正午まで、残り一時間を切っていた。
渋谷区松濤。都内屈指の高級住宅街の、さらに奥まった場所に、佐々木義泰の巨大な私邸は周囲の空気まで圧迫するように建っていた。
三メートルを超える堅牢な石壁に囲まれ、巨大な鉄扉の正門には屈強な民間警備員やSPが数名配置され、鋭い目を周囲へ向けている。
私の運転する覆面セダンが正門前へ乱暴に滑り込むと、助手席から郷田が勢いよく飛び出し、警察手帳をこれ見よがしに頭上へ掲げた。
「警視庁特捜本部の郷田管理官だ! 現在、佐々木副大臣が連続爆破テロの標的にされているという緊急情報が入った! 我々が直接、先生を保護する。ただちに門を開けろ!」
「け、警視庁の特捜本部……!?」
ただの所轄刑事ではなく、本庁捜査一課の『指揮官』を名乗る郷田の威圧的な態度と、突きつけられた警察手帳の威力に、警備員たちは顔色を変え、慌てて重厚な鉄門を開いた。
屋敷の中へ案内されると、雨上がりの外の冷たい空気とは打って変わり、重厚なマホガニーの香りと、むせ返るような高価な葉巻の匂いが鼻をついた。
通されたのは、一階奥にある巨大な応接室だった。
壁一面を分厚い洋書が埋め尽くし、床には足首まで沈み込みそうなペルシャ絨毯が敷かれている。部屋の中央には、特注と思われる巨大なアンティークデスクと、漆黒の最高級レザーチェアが鎮座していた。
そのレザーチェアへ深く腰を沈め、傲慢な笑みを浮かべていた男こそ、佐々木義泰副大臣、五十四歳だった。脂の乗った体躯と野心に濁った瞳が、いかにも権力の中心で生きてきた人間らしい威圧感を放っている。
だが、私が息を呑んだのは佐々木ではなかった。
その傍らのソファに座り、静かにマイセンのティーカップを傾けている男を見た瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
佐々木より年上でありながら、微塵の隙も感じさせない冷徹な能面のような顔。
与党幹事長であり、次期総理の最有力候補――久我晃一郎。
(……なぜ、この男がここにいる?)
応接室へ足を踏み入れた瞬間、強烈な違和感と嫌悪感が全身を駆け抜けた。
昨夜は、彼の実の息子である久我晃生の通夜だった。本来なら今日、この時間は告別式が執り行われ、父親として喪主の挨拶に立っていてもおかしくない。
それなのに、政界の怪物と呼ばれる大物政治家が、実の息子の弔いを身内や秘書に任せ、この私邸の奥で佐々木と密会している。
息子の凄惨な死に直面してもなお、自分の政治基盤を守るための密談を優先しているのか。
いずれにせよ、悲哀など微塵も感じさせない、その冷静で実務的な姿に、私は背筋が粟立つ思いがした。
「……警視庁の特捜だと?」
佐々木は葉巻の煙をゆっくりと天井へ吐き出しながら、我々を路傍のゴミでも見るような目で見下ろした。
「本部の連中め、余計な気を回しおって。私の警備体制は万全だ。ネットの底辺で喚いているテロリストごときが、この松濤の敷地に一歩でも踏み込めるものか」
その圧倒的な権力者の威圧感を前に、つい先ほどまで正門前で吠えていた郷田は、一瞬で態度を変えた。
「さ、佐々木先生! 本日は先生の身の安全を第一に考え、不肖この郷田が自ら警護に参りました! どんなテロリストの脅威からも、この私が命に代えて先生をお守りいたしますので、どうかご安心を……!」
揉み手でも始めそうな卑屈な笑みを浮かべ、何度も頭を下げる。
「くだらん。怯えきった警察のパフォーマンスなど不要だ。帰れ」
佐々木は冷たく言い放った。
「い、いえいえ、そうおっしゃらずに――」
郷田がさらに食い下がろうとした、その背中越しに、私は彼の制止を完全に無視して部屋の中央へ進み出た。分厚い絨毯が、私の足音を不気味なほど吸収していく。
「敷地へ踏み込めるかどうかではありません、佐々木先生」
私の鋭い声に、郷田がぎょっとして振り返った。
「おい真下! 貴様、誰の許可を得て口を開いて――」
「犯人は、外部から手製の爆弾を持ち込むような手ぬるい真似はしません。すでにこの屋敷の内部、いや、あなた方のすぐ足元に『特等席』を用意している可能性があります」
私は背後で喚く郷田を無視し、佐々木と、その奥で静かに紅茶を飲む久我晃一郎を真っ直ぐに見据えた。
「若造。貴様、自分が誰に向かって口を利いているか分かっているのか」
佐々木のドスの利いた声が応接室へ響いたが、私は怯まなかった。
「犯人は、十五年前の『天楽建設の事件』に異常な執着を持っています」
その言葉を口にした瞬間、佐々木の葉巻を持つ手がぴくりと止まり、久我晃一郎の能面のような顔も、ほんの一瞬だけ強張った。
私は、その変化を見逃さなかった。
「十五年前、天楽建設の工事部長が自殺した事件です。当時、天楽建設は佐々木先生の派閥を支える有力企業の一つでした。そして爆殺された久我晃生議員は、かつて先生の秘書を務めていた」
カラスから得た裏金ルートの真実については、一切口にしない。あくまで『テロリストの危険な妄想』という形に包んだまま、彼らの喉元へ刃を押し当てる。
「先生、犯人は過去の公的な繋がりを悪質に曲解しているんです。奴は自分の狂った正義の中であなたの関係者を逆恨みし、強引に標的同士を結びつけている。そして本日の正午に発表される『虚偽』の大罪人として、その歪んだ妄想の矛先が佐々木先生へ向けられる可能性が極めて高い!」
「や、やめろ真下! 先生に向かって、なんてことを言うんだ!」
十五年前の話題を持ち出された郷田が、顔面を土気色にして私の肩を乱暴に掴んだ。
私はその手を振り払い、佐々木に向かってさらに一歩踏み込んだ。正午まで、もう時間がない。
「先生! あなた方はすでにテロリストの射程圏内にいる可能性があります! 今すぐこの部屋から避難してください! 奴は狂人です! その狂った妄信だけで、天楽建設の社長を燃やし、久我幹事長の息子さんを爆殺した! 安全な地下シェルターへ移動してください! 正午に何が起こるか分からない!」
「黙れッ!!」
佐々木が激昂し、マホガニーのデスクを力任せに叩いた。
「くだらん! とうの昔に法が白と結論づけたものを、テロリストの妄言や世間のゴシップを盾にして、この私を脅すというのか! 郷田! この無礼な部下をつまみ出せ!」
「は、はい! 申し訳ありません先生! おい真下、貴様いい加減にしろ!」
郷田が私の腕を乱暴に引っ張ろうとした、その時だった。
「――まあ待て、佐々木。少し彼の話を聞いてみようじゃないか」
静かでありながら、応接室の空気そのものを凍らせるような絶対的な力を持つ声だった。
正午まで、残り一時間を切っていた。
渋谷区松濤。都内屈指の高級住宅街の、さらに奥まった場所に、佐々木義泰の巨大な私邸は周囲の空気まで圧迫するように建っていた。
三メートルを超える堅牢な石壁に囲まれ、巨大な鉄扉の正門には屈強な民間警備員やSPが数名配置され、鋭い目を周囲へ向けている。
私の運転する覆面セダンが正門前へ乱暴に滑り込むと、助手席から郷田が勢いよく飛び出し、警察手帳をこれ見よがしに頭上へ掲げた。
「警視庁特捜本部の郷田管理官だ! 現在、佐々木副大臣が連続爆破テロの標的にされているという緊急情報が入った! 我々が直接、先生を保護する。ただちに門を開けろ!」
「け、警視庁の特捜本部……!?」
ただの所轄刑事ではなく、本庁捜査一課の『指揮官』を名乗る郷田の威圧的な態度と、突きつけられた警察手帳の威力に、警備員たちは顔色を変え、慌てて重厚な鉄門を開いた。
屋敷の中へ案内されると、雨上がりの外の冷たい空気とは打って変わり、重厚なマホガニーの香りと、むせ返るような高価な葉巻の匂いが鼻をついた。
通されたのは、一階奥にある巨大な応接室だった。
壁一面を分厚い洋書が埋め尽くし、床には足首まで沈み込みそうなペルシャ絨毯が敷かれている。部屋の中央には、特注と思われる巨大なアンティークデスクと、漆黒の最高級レザーチェアが鎮座していた。
そのレザーチェアへ深く腰を沈め、傲慢な笑みを浮かべていた男こそ、佐々木義泰副大臣、五十四歳だった。脂の乗った体躯と野心に濁った瞳が、いかにも権力の中心で生きてきた人間らしい威圧感を放っている。
だが、私が息を呑んだのは佐々木ではなかった。
その傍らのソファに座り、静かにマイセンのティーカップを傾けている男を見た瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
佐々木より年上でありながら、微塵の隙も感じさせない冷徹な能面のような顔。
与党幹事長であり、次期総理の最有力候補――久我晃一郎。
(……なぜ、この男がここにいる?)
応接室へ足を踏み入れた瞬間、強烈な違和感と嫌悪感が全身を駆け抜けた。
昨夜は、彼の実の息子である久我晃生の通夜だった。本来なら今日、この時間は告別式が執り行われ、父親として喪主の挨拶に立っていてもおかしくない。
それなのに、政界の怪物と呼ばれる大物政治家が、実の息子の弔いを身内や秘書に任せ、この私邸の奥で佐々木と密会している。
息子の凄惨な死に直面してもなお、自分の政治基盤を守るための密談を優先しているのか。
いずれにせよ、悲哀など微塵も感じさせない、その冷静で実務的な姿に、私は背筋が粟立つ思いがした。
「……警視庁の特捜だと?」
佐々木は葉巻の煙をゆっくりと天井へ吐き出しながら、我々を路傍のゴミでも見るような目で見下ろした。
「本部の連中め、余計な気を回しおって。私の警備体制は万全だ。ネットの底辺で喚いているテロリストごときが、この松濤の敷地に一歩でも踏み込めるものか」
その圧倒的な権力者の威圧感を前に、つい先ほどまで正門前で吠えていた郷田は、一瞬で態度を変えた。
「さ、佐々木先生! 本日は先生の身の安全を第一に考え、不肖この郷田が自ら警護に参りました! どんなテロリストの脅威からも、この私が命に代えて先生をお守りいたしますので、どうかご安心を……!」
揉み手でも始めそうな卑屈な笑みを浮かべ、何度も頭を下げる。
「くだらん。怯えきった警察のパフォーマンスなど不要だ。帰れ」
佐々木は冷たく言い放った。
「い、いえいえ、そうおっしゃらずに――」
郷田がさらに食い下がろうとした、その背中越しに、私は彼の制止を完全に無視して部屋の中央へ進み出た。分厚い絨毯が、私の足音を不気味なほど吸収していく。
「敷地へ踏み込めるかどうかではありません、佐々木先生」
私の鋭い声に、郷田がぎょっとして振り返った。
「おい真下! 貴様、誰の許可を得て口を開いて――」
「犯人は、外部から手製の爆弾を持ち込むような手ぬるい真似はしません。すでにこの屋敷の内部、いや、あなた方のすぐ足元に『特等席』を用意している可能性があります」
私は背後で喚く郷田を無視し、佐々木と、その奥で静かに紅茶を飲む久我晃一郎を真っ直ぐに見据えた。
「若造。貴様、自分が誰に向かって口を利いているか分かっているのか」
佐々木のドスの利いた声が応接室へ響いたが、私は怯まなかった。
「犯人は、十五年前の『天楽建設の事件』に異常な執着を持っています」
その言葉を口にした瞬間、佐々木の葉巻を持つ手がぴくりと止まり、久我晃一郎の能面のような顔も、ほんの一瞬だけ強張った。
私は、その変化を見逃さなかった。
「十五年前、天楽建設の工事部長が自殺した事件です。当時、天楽建設は佐々木先生の派閥を支える有力企業の一つでした。そして爆殺された久我晃生議員は、かつて先生の秘書を務めていた」
カラスから得た裏金ルートの真実については、一切口にしない。あくまで『テロリストの危険な妄想』という形に包んだまま、彼らの喉元へ刃を押し当てる。
「先生、犯人は過去の公的な繋がりを悪質に曲解しているんです。奴は自分の狂った正義の中であなたの関係者を逆恨みし、強引に標的同士を結びつけている。そして本日の正午に発表される『虚偽』の大罪人として、その歪んだ妄想の矛先が佐々木先生へ向けられる可能性が極めて高い!」
「や、やめろ真下! 先生に向かって、なんてことを言うんだ!」
十五年前の話題を持ち出された郷田が、顔面を土気色にして私の肩を乱暴に掴んだ。
私はその手を振り払い、佐々木に向かってさらに一歩踏み込んだ。正午まで、もう時間がない。
「先生! あなた方はすでにテロリストの射程圏内にいる可能性があります! 今すぐこの部屋から避難してください! 奴は狂人です! その狂った妄信だけで、天楽建設の社長を燃やし、久我幹事長の息子さんを爆殺した! 安全な地下シェルターへ移動してください! 正午に何が起こるか分からない!」
「黙れッ!!」
佐々木が激昂し、マホガニーのデスクを力任せに叩いた。
「くだらん! とうの昔に法が白と結論づけたものを、テロリストの妄言や世間のゴシップを盾にして、この私を脅すというのか! 郷田! この無礼な部下をつまみ出せ!」
「は、はい! 申し訳ありません先生! おい真下、貴様いい加減にしろ!」
郷田が私の腕を乱暴に引っ張ろうとした、その時だった。
「――まあ待て、佐々木。少し彼の話を聞いてみようじゃないか」
静かでありながら、応接室の空気そのものを凍らせるような絶対的な力を持つ声だった。
