椅子に座りますか

*  *  *
 
 翌朝。

 警視庁の特捜本部が置かれた広大な道場は、百名を優に超える捜査員や技術官たちが放つ熱気と焦燥感で、今にも膨張して破裂しそうな空気に包まれていた。

 壁際ではサイバー犯罪対策課の捜査員たちが血眼になってキーボードを叩き続けている。その一方で、郷田管理官は中央のホワイトボードの前に立ち、額に汗を滲ませながら、相変わらず焦点のずれた指示を怒鳴り散らしていた。

「いいか! 犯人は大衆を煽る愉快犯のサイバーテロリストだ! ネット上の過激な書き込みをすべて監視しろ! 模倣犯が出る前に、何としてでもサイトのサーバーを物理的に特定してシャットダウンするんだ!」

 的外れもいいところだった。

 犯人は、サイバー空間の中だけに潜むハッカーなどではない。

 天楽建設の社長や久我晃生が一人になる瞬間を完璧に把握し、確実に仕留めるための物理的なネットワークと実行部隊まで構築している。末端のネットユーザーの書き込みをいくら監視したところで、犯人の足元へ辿り着けるはずがない。

 私はその喧騒から少し離れた幹部用デスクへ目を向けた。

 綾瀬管理官が、一人静かに報告書へ目を通している。
 私は真っ直ぐ彼のもとへ歩み寄った。

「綾瀬管理官、昨夜の通夜の報告です」
 綾瀬は資料から顔を上げ、冷たい眼差しを私へ向けた。
「ご苦労。どうだった、政界の怪物の様子は」
「久我晃一郎は、息子の死をほとんど表に出していませんでした。まるで、最初から予定されていたトラブルを冷徹に処理しているような、異常な落ち着きです」

 私は一呼吸置いて続けた。

「それと、弔問客の政治家たちから興味深い話を耳にしました。殺された久我晃生は、父親の地盤を継ぐ前、ある男の秘書を務めていたそうです」
「……ほう。誰の秘書だ?」
「佐々木義泰、副大臣です」

 私の報告を聞き、綾瀬は唇の端を僅かに持ち上げて頷いた。
「素晴らしい。やはり君の泥臭い嗅覚は正確だ。これで捜査の的が絞れる」

 綾瀬は手元のタブレットへ情報を打ち込み始めた。

 私はその横顔を見ながら、昨日から胸の奥で燻り続けていた違和感を、思い切って口にした。

「綾瀬管理官。一つ、お聞きしてもいいですか」
「何だ?」
「昨日、管理官は私を特命に就かせる際、私の過去を調べたとおっしゃいました」
 綾瀬は黙ってこちらを見た。

「ですが、特別養子縁組の記録は、実親との関係を法的に断ち切る制度の性質上、自治体によって極めて厳重に秘匿されているはずです。いくら本庁の管理官とはいえ、直接の容疑者でもない一介の部下の、それも養子先に関わる情報まで、どうやってあれほど短時間で引き出したんですか?」

 その瞬間、綾瀬のタイピングする指がぴたりと止まった。

 百名を超える人間が動き回る道場の喧騒が、一瞬だけ遠のいたように感じた。
 綾瀬はゆっくり顔を上げると、私を真正面から見据えた。その瞳には一切の感情が浮かんでおらず、かえって恐ろしくなるほど静かだった。

「真下。警察庁の公安ネットワークには、開けられない扉はない」
 淀みのない声だった。
「国家の根幹に関わる連続テロ事案となれば、個人の秘匿記録など一枚の紙切れに等しい」

 そして、僅かに目を細める。
「……それとも君は、私が犯人と内通してでもいると疑っているのかね?」
 完璧な回答だった。

 警察中枢の権限を使えば、本来なら簡単には触れられない個人の秘匿情報にまでアクセスできる。それだけの話なのかもしれない。

「……いえ。失礼なことを聞きました」
 私は深く頭を下げた。
 その言葉に、嘘も追従もなかった。

 むしろ胸の中へ広がったのは、冷ややかな疑惑ではなく、静かな安堵だった。

 特別養子縁組の記録など、本来なら役所の奥深くに厳重に封じられ、誰もが自由に閲覧できるようなものではない。にもかかわらず、着任したばかりの綾瀬がすでに把握していた。

 それは、彼が犯人と繋がっている証拠ではない。
 警察の中枢が、必要ならあらゆる機密へ踏み込んででも、この連続テロを止めようとしている覚悟の表れなのだと、私は受け取った。

 郷田のように、面子や保身ばかりを優先する男とは違う。
 綾瀬管理官は、自分に与えられた権限と責任をすべて使い、真実へ辿り着こうとしている。

 義父から教わった「流れを止めない泥臭い正義」とは形こそ違う。だが、この冷徹な本庁のエリートもまた、自分なりの正義を胸に抱いているのではないか。

 私は、そう直感した。

「……真下」
 頭を下げる私へ、綾瀬が低い声で続けた。
「君の生い立ちを許可なく調べたことについては、腹に据えかねる部分もあるだろう。だが、久我晃生が標的となった今、久我家との接点を持つ君の存在は、我々にとって暗闇を照らす唯一の松明になり得る」

 綾瀬は、私の目を真っ直ぐに見た。

「君の胸の奥にあるその執念には、大いに期待している」
「……はい。必ず、真実を掴んでみせます」
 私は力強く頷き、綾瀬のデスクを離れた。

 背筋が自然に伸びていた。
 怒号と電話とキーボードの音が入り乱れる、この巨大な捜査本部。
 それでも私は、もう完全に孤独ではない。

 真実を追うために、背中を預けられるかもしれない指揮官がいる。
 その事実が、濁りかけていた思考を再び冷たく研ぎ澄ませてくれた。

 自席へ戻った、その直後だった。
「た、大変です!」
 壁際で作業していたサイバー犯罪対策課の若い捜査員が、血相を変えて立ち上がった。

「特設サイトが更新されました! 犯人から新たな予告です!」
 道場全体の空気が、一瞬にして凍りつく。
 巨大モニターが、例の黒と赤を基調とした不気味なサイトへ切り替わった。

 画面の中央。
 毒々しい赤い文字が明滅する。
【次なる大罪・虚偽(ウソ)。候補者の発表は、本日正午】