椅子に座りますか

 深夜十時を回った頃、私は足立区の寂れた商店街の片隅に佇む、小さな交番の前に車を停めた。

 雨はすでに小降りになっていたが、冷気は濡れたアスファルトから底冷えするように這い上がってくる。交番の赤色灯が路面に滲み、不気味なほど鮮やかな赤を揺らしていた。

 引き戸を開けると、使い込まれた木の机の奥で、白髪交じりの初老の警察官が書類に目を通していた。

 真下修造――五十八歳。

 私の義父であり、この巨大な警察組織の中で唯一、私が無条件で心を預けられる男だった。

「……ジョウか。こんな夜更けに、しかもずぶ濡れの喪服でどうした」

 修造は老眼鏡を外し、鋭さの中にも温かみのある目で私を見た。かつては本庁捜査一課で「鬼の真下」と恐れられた凄腕の刑事だったが、今は一線を退き、地域課の警部補としてこの小さな交番の所長――ハコ長を務めている。

「義父さん……」

 声を出した瞬間、胸の奥にせき止めていた泥のような感情が、一気に喉元までせり上がってきた。

 久我晃生の通夜で見た、固く閉ざされた棺。私が郷田の命を救うために地下施設のシステムを破壊した結果、標的は自動的に切り替わり、久我晃生が死んだ。
 私が信じた「目の前の命を救う正義」が、結果として別の命を理不尽に散らしてしまったのだ。

 それ以上、言葉を続けることができなかった。私はただ、濡れた前髪から滴る雨粒を手の甲で拭った。

 修造は私のただならぬ様子を察したのだろう。何も問い詰めることなく立ち上がると、交番の奥にある狭い休憩室へ私を促した。

「……座れ。タオルを貸してやる」

 パイプ椅子に腰を下ろした途端、ゴワゴワとした清潔なタオルが、乱暴ながらも優しく頭に乗せられた。続いて修造は、自販機で買ってきたらしい温かい缶コーヒーを私の膝へ押しつける。

「ニュースは見てる。久我幹事長の息子が爆殺されたそうだな。それに、お前がその特捜本部へ放り込まれていることも、鑑識の柴田から聞いたぞ」
「柴田さんから……相変わらず耳が早いな」

 私は缶コーヒーのプルタブを開け、一口飲んだ。甘く、どこか泥水のようにも感じる味だったが、その温かさだけは、冷え切った内臓へゆっくり染み込んでいった。

 缶を握る両手が、微かに震えている。

「今日、久我晃生の通夜に潜り込んだんだ」
 私は缶を見つめたまま、低く続けた。
「……義父さん。俺は、間違っていたんだろうか?」

 気づけば、張り詰めていた糸が切れていた。押し殺してきた感情が一気に溢れ、声まで弱々しく震えていた。

「俺が良かれと思って下した決断のせいで……救えなかった命があるんだ。警察組織は保身のために、その事実すら隠そうとしている。ネットの向こうでは、狂った大衆が他人の死をゲームみたいに楽しんでる」

 一度、言葉を切った。

「そんな中で、自分が誰かを死なせてしまったという罪悪感だけを抱えて……俺は、ただの無力な男だ…」

 地下施設のシステム構造や、標的の自動切り替えについてまで話すことはできなかった。ただ、自分の決断の先で一人の人間が死んだという後悔だけが、ぽつり、ぽつりと口からこぼれ落ちていった。

 休憩室の空気が、静かに沈み込んでいく。

 修造は腕を組んだまま、しばらく私を見つめていた。やがて、責めるでも慰めるでもなく、低く穏やかな声で口を開いた。

「ジョウ。お前が俺の家に引き取られて間もない頃、二人で川へ釣りに行ったの、覚えてるか」
「……うん。一匹も釣れなかったけどね」
「ああ。だが、お前は透き通った川の水を見て、綺麗だって言った。それで空き瓶に汲んで、わざわざ家まで持って帰った」

 修造は僅かに目を細めた。
「……あの瓶の水、数日後にはどうなった?」
 不意の問いに少し戸惑いながら、私は遠い記憶を辿った。
「……ドロドロに濁って、汚くなった」
「そうだ」

 修造は太く温かい手で、私の肩を力強く掴んだ。
「川の水があんなに透き通って綺麗なのは、泥や砂を巻き込みながらも、決して流れを止めねえからだ。瓶の中へ閉じ込めて立ち止まらせちまえば、どれだけ綺麗な水だって、すぐに濁って腐っていく」

 肩に置かれた手から、じんわりと体温が伝わってくる。
「人間も同じだぞ、ジョウ」
 私は黙って修造の言葉を聞いた。
「いいか。誰かを救おうとして泥水へ飛び込めば、自分の手からこぼれ落ちた泥で、別の誰かを汚しちまうことだってある。それが怖くて立ち止まる奴は、最初から誰も救えねえ」

 修造の声には、現場で犯人を追い詰めていた頃の刑事としての鋭さではなく、不器用ながらも息子を深く案じる父親としての温かさが滲んでいた。

「お前が今抱えている、その吐き気がするような罪悪感は、お前が命の重さから逃げなかった何よりの証拠だ。だがな、そこで自分を責め続けて立ち止まっちまえば、お前の心もあの瓶の水と同じように濁って腐るぞ」

 私は俯いたまま、握った缶コーヒーの温かさを感じていた。

「流れを止めるな。ジョウ、止まるな」
 その一言が、胸の奥へゆっくり染み込んでいった。
「一人で抱え込むな。お前は俺の自慢の息子だ。俺がお前に教えてやれたことなんて、馬鹿みたいに真っ直ぐ生きる泥臭さくらいだが……お前のその執念だけは、絶対に誰にも負けねえはずだぞ」

 その言葉に、胸の奥の最も深い場所から、熱いものが込み上げてきた。
ずっと張り詰めていた心が解け、視界が滲む。気がつけば、一筋の涙が自然と頬を伝い落ちていた。

「……ありがとう、義父さん」
 私は手の甲で強く目を擦り、深く息を吸った。
「俺は、デカだ。誰が大衆を操って、誰が人の命を弄んで殺戮を繰り返しているのか……絶対に、この手で真実を抉り出してみせる」

 修造は満足そうにふっと笑い、私の背中をバンッと叩いた。

「行け。ただし、絶対に死ぬなよ、ジョウ」
 私は深く頷き、交番を後にした。
 罪悪感が消えたわけではない。おそらく、この先も完全に消えることはないだろう。

 だが、それでいい。

 消せないのなら、背負ったまま進めばいい。
 身体の奥底から、再び熱い闘志が湧き上がってくるのを感じながら、私は雨の止みかけた夜の街へ車を走らせた。