椅子に座りますか

 *  *  *
 
 午後六時。

 青山葬儀所の外周は、冷たい氷雨と、それ以上に異様な熱気に包まれていた。
 空を覆い尽くす黒雲。
 絶え間なく落ちてくる雨。
 防護柵の向こうには、雨合羽を着込んだテレビ局のカメラマンたちが、ずらりと砲列を作っている。

 週刊誌の記者。
 スマートフォンを掲げたネットメディアの配信者。
 次期総理候補の一族を襲った前代未聞の爆殺事件。
 その特ダネを一秒でも早く抜こうと、まるで、血の匂いに集まるハイエナの群れだった。

 黒塗りの高級車が門をくぐるたび。
 怒号、呼びかけ、白いフラッシュ。
 目が眩むほどの光が、雨の中へ何度も弾ける。

 正面ゲートでは、防弾チョッキ姿の機動隊員とSPが、一人ひとりの顔とパスを厳重に照合していた。

 私は地味な喪服に身を包み、黒い傘を深く差しながら、列の最後尾へ並んだ。

「関係者パスを確認します。ご芳名を」

 ゲート前にSPが無機質な声で言った。
 私は綾瀬管理官から渡された黒いパスを差し出した。

 SPは裏面のセキュリティコードを端末へ読み込ませる。
 数秒、鋭い目が、私の顔を確認する。
 そして無言で道を開けた。
 私は小さく息を吐き、厳重なセキュリティゲートを通過した。

 式場の分厚い扉を開ける。その瞬間、白菊と胡蝶蘭。
 おびただしい数の花の香りが、室内の熱気と混じって一気に肺へ流れ込んできた。
 むせ返るほど濃い。

 会場内は、黒い喪服をまとった政財界の大物たちで埋め尽くされていた。

 私は気配を殺し、壁際を選びながら、ゆっくりと祭壇へ向かった。
 すると雨音と衣擦れ、その合間からひそひそと交わされる声が、耳へ飛び込んでくる。

「まさか、あの晃生くんがネットの投票で殺されるとはな」
「ああ。いよいよ父親の地盤を継いで、次期衆院選に出馬するって矢先だったのにな。明日の決起集会での演説、かなり気合が入っていたらしいぞ」

 話しているのは、初老の政治家たちだった。
 声には、若くして命を落とした人間への哀悼などほとんどない。
 あるのは、明日は我が身かもしれないという恐怖。

 そして野次馬じみた好奇心。

「警察は『無差別テロ』と発表しているが、そんな言葉を信じる奴がどこにいる。完全に狙われているのは、特権階級だ」
「だが、あのサイトに書かれていた『暴食』ってのは、一体何の罪なんだ?」
「さあな」

 少し声が落ちる。

「だが……あいつも人が変わっちまったよな」
 私は歩調を僅かに落とした。
「議員になったばかりの頃は、親父――幹事長の威光をひけらかすこともなかった。随分と誠実で、国民思いのいい青年だったじゃないか」
「ああ、間違いない。誰にでも腰が低くてな。我々みたいな古狸にまで、真摯に教えを乞うてきた」
「でも……ここ数年だろ?」
「そうだな」
「急に天狗になったというか、態度がデカくなった。党の会合でも、信じられないほどキツイ口調で周りを怒鳴り散らして」
「権力の魔力にでも当てられたのかね。それとも……」

 声がさらに小さくなった。

「晃生くんが佐々木(ささき)副大臣の秘書をやっていた頃。我々の知らないところで、よっぽど『甘い汁』の味でも覚えたのか」
「おい、滅多なことを言うな。幹事長の耳に入ったら終わりだぞ」

 そして低い笑い。

「……まあ、今のうちにしっかり悲しむフリをしておけば、後で幹事長から恩恵に与れるかもしれんがな」

(佐々木副大臣の秘書……?)

 私は、その言葉を頭の中へ刻み込んだ。
 薄汚い打算、欲望、そんな会話の中へ、思いがけない手掛かりが紛れ込んでいる。

 かつて誠実で腰が低く国民思いだった青年、それがいつからか傲慢な人間へ変わった。

 そして犯人から『暴食』と呼ばれるまでになった。

 その変化の原点が佐々木副大臣の秘書をしていた時代にあるのではないか。私は政治家たちの横を通り過ぎた。打算と欲望が渦巻く人垣を抜け、ようやく祭壇の正面へ出る。

 中央、久我晃生の巨大な遺影、三十一歳。

 未来へ向かって笑っているような晴れやかな表情。
 色鮮やかな花々その奥豪奢な棺が安置されている。

 だがその中には何もない、爆発数千度の業火。
 遺体と呼べるものすら残らなかった分厚く閉ざされた棺の蓋。
 その中にあるのは空虚、死という事実だけだ。
 私は棺から視線を上げ、もう一度、久我晃生の遺影を見た。その笑顔が胸を鋭く抉った。

(……すまない)

 昨日、江東区の地下施設で、もし私が郷田を救うために第一ゲートウェイを破壊せず、起爆を止めていなければ、目の前にいるこの男の命は奪われなかった。

 私は『目の前の命を救う』ことが正義だと信じ、その信念に従って行動した。しかし、その結果として別の人間が死んだ。

 本来なら、あの時間に死ぬはずではなかった男の命を、自分の決断によって別の場所へ押し流してしまったのではないかという罪悪感が、冷たい鉛の塊のように胃の奥へ沈んでいた。

 遺影を見つめているうちに、二十二年間、一度も消えることのなかった記憶が鮮明な映像となって脳裏へ蘇った。

 両親を失ったあと、私と離れ離れになった弟――ユウ。
 当時、まだ七歳だったユウは久我家へ引き取られ、その三年後、十歳の時に海外で不慮の死を遂げたと知らされた。

 冷たい雨の降る中、密やかに行われた葬儀の光景を、私は今でも覚えている。

 棺の中には、氷のように冷たくなった小さなユウが横たわっていた。私はその身体へ縋りつき、顔を押し当てながら声が枯れるほど泣いた。

 そして、遺族席には久我家の息子である晃生が座っていた。
 彼は、泣き崩れる私をずっと見ていた。
 まるで汚らわしい虫でも見るかのような、底知れず冷たい目で。

(なぜ……)

 あの時、晃生はどうして私をあんな目で見ていたのか、そして今回、犯人はなぜ彼を『暴食』と呼んだのか。

 先ほど通夜の席で政治家たちが語っていたのは、『誠実な青年』としての久我晃生だった。だが数年後には、変貌したと言う。

 だが、私の記憶に残っているのは、弟の死を嘆く私を冷酷な目で見下ろしていた少年の姿だ。

 二つの人物像の間には、どうしても埋まらない奇妙な食い違いがある。
 その違和感が、頭の奥を激しく掻き乱していた。
 少なくとも、あの犯人が何の意味もなく久我晃生を殺したとは思えない。