背筋を、強烈な悪寒が走った。
最初の電車、グランドホテル東京。
そして今回すべて同じ犯人の『署名』だった。
私はシールを凝視した。
頭の中へあの理知的で、冷たい笑い声が蘇る。
これは、ただの自己顕示欲ではない。
犯人は隠しカメラの向こうから久我を、そして、事件後にここへやってくる警察をこのシール越しに笑っている。
他人の犠牲の上で生き罪悪感もなく。
特権階級として当然のように、一番立派な椅子へ座る。
郷田が、記者会見の『特等席』へ座るのか。
それとも久我晃生が、この控室の『椅子』へ座るのか。
二人とも何の疑いもなく、自分のために用意された席を選んだ。
そして深く腰を下ろした。
犯人はカメラ越しに、その瞬間を見ていた。
(自分の意志で、処刑台へ座った)
そう嘲笑うようにこの一枚のシールは、警察をそして世界の「特等席」へ座る大人たちを容赦なく挑発している。
「柴田さん、ありがとうございます」
私はクレーターから顔を上げた。
「このシールが今回も残されていたこと、本部に共有します」
「ああ」
焦げ臭い空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出す。
孤独な戦いは、もう始まっている。
私は柴田さんへ深く一礼した。
証拠写真を端末へ収め、市民ホールを後にした。
* * *
特捜本部へ戻った私は、離れた席でふんぞり返る郷田の目を避けるようにして、綾瀬管理官のデスクへ向かった。
「綾瀬管理官」
「どうした」
「久我晃生の現場でも、これが残されていました」
私は端末を差し出した。
鑑識写真。
『椅子に座りますか』
綾瀬はしばらく無言で文字を見つめ、やがて目を細めた。
「……やはりな」
「やはり?」
「単なる自己顕示欲による悪戯ではない」
綾瀬は静かに言った。
「犯人の行動には、一貫した規則がある。歪んではいるが、極めて強固な『システム』としての規則性だ」
そして。
周囲を一度見回した。
捜査員たちは皆、慌ただしく動き回っている。
綾瀬は、その誰にも聞こえないほど声を落とした。
「真下」
「はい」
「君に、特捜本部全体の捜査とは別に、単独で動いてもらいたい案件がある」
「……私に?」
綾瀬はデスクの引き出しを開けた。
そこから、黒い縁取りが施された、一枚の『関係者用パス』を取り出した。
表面は金文字、久我家を示す紋章。
裏面には、警視庁警備部が今回のテロ警戒のために発行した、特殊なセキュリティコードが刻まれている。
「今夜、港区の青山葬儀所で、久我晃生議員の通夜が執り行われる」
「……」
「当然、爆殺テロの翌日だ。会場はSPと機動隊による超厳戒態勢が敷かれる。一般の弔問客もマスコミも、完全にシャットアウトされる」
綾瀬がパスを私へ差し出した。
「事前に身元確認を受け、このパスを支給された限られた関係者しか、敷地内へ入ることはできない」
私は黒いパスを受け取った。
「君も知っている通り、父親の久我晃一郎氏は、与党幹事長だ」
次期総理の座に、最も近い男。
政界の『怪物』。
「彼の影響力は計り知れない。我々警察は威信を懸けてテロリストを排除し、久我一族を守らなければならない」
綾瀬の言葉には、確かな重みがあった。
少なくとも、郷田のように、自分の出世や保身だけを考えて口にしているようには聞こえない。
国家にとって重要な人物を守る。警察官僚としての、強い使命感、そんなものが滲んでいた。
「本来なら、警察上層部の人間が何人も顔を出す場所だ。だが、今は連続テロの最中でもある。迂闊に動けば、こちらまで犯人に狙われかねない」
綾瀬が私を見る。
「……そこで、君だ」
「私が、このパスで入るのですか」
「そうだ」
短く答えたあと綾瀬は、私が最も聞きたくなかった話へ踏み込んだ。
「本庁の権限で、君の戸籍を調べさせてもらった」
「……」
「君には、かつて児童養護施設で生き別れになり、その後、久我家へ特別養子縁組で引き取られた実の弟がいたそうだな」
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
そこまで調べているのか、綾瀬は、郷田から吹き込まれた「極秘の裏捜査」などという話を、ただ鵜呑みにしているわけではない。
私の過去まで洗った上であえて、この仕事を任せようとしている。
「……ユウのことですか」
「ああ」
「二十二年前の話です」
私は答えた。
「ユウは久我家へ引き取られて……わずか三年後。十歳の時、海外で不慮の死を遂げました」
「君にとって」
綾瀬は静かに続けた。
「久我家は、弟が最期の時を過ごした場所だ」
「……」
「私的な感情を持ち込めとは言わない。ただ」
探るような目。
「君なら、あの場所に流れる空気の変化を感じ取れるかもしれない」
綾瀬はデスクの上で指を組んだ。
「犯人が久我晃生を『暴食』として狙い撃ちにした以上、そこには必ず、我々がまだ把握していない理由がある」
「理由……」
「君にしか見えないものがあるかもしれん」
その目が真っ直ぐ、私を射抜く。
「参列者の中へ紛れ込んでいる不審な人物。あるいは、警察内部から情報を流している『内通者』と接触する者がいないか、その目で確かめてこい」
一拍。
「……これは、私からの特命だ」
「……承知しました」
私は黒いパスを握り、深く頭を下げた。
久我晃生が、なぜ『暴食』と呼ばれたのか、今の私には、まだ何も分からない。
だが。
弟の命が消えたあの一族に、ついに自分から足を踏み入れる時が来た。
最初の電車、グランドホテル東京。
そして今回すべて同じ犯人の『署名』だった。
私はシールを凝視した。
頭の中へあの理知的で、冷たい笑い声が蘇る。
これは、ただの自己顕示欲ではない。
犯人は隠しカメラの向こうから久我を、そして、事件後にここへやってくる警察をこのシール越しに笑っている。
他人の犠牲の上で生き罪悪感もなく。
特権階級として当然のように、一番立派な椅子へ座る。
郷田が、記者会見の『特等席』へ座るのか。
それとも久我晃生が、この控室の『椅子』へ座るのか。
二人とも何の疑いもなく、自分のために用意された席を選んだ。
そして深く腰を下ろした。
犯人はカメラ越しに、その瞬間を見ていた。
(自分の意志で、処刑台へ座った)
そう嘲笑うようにこの一枚のシールは、警察をそして世界の「特等席」へ座る大人たちを容赦なく挑発している。
「柴田さん、ありがとうございます」
私はクレーターから顔を上げた。
「このシールが今回も残されていたこと、本部に共有します」
「ああ」
焦げ臭い空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐き出す。
孤独な戦いは、もう始まっている。
私は柴田さんへ深く一礼した。
証拠写真を端末へ収め、市民ホールを後にした。
* * *
特捜本部へ戻った私は、離れた席でふんぞり返る郷田の目を避けるようにして、綾瀬管理官のデスクへ向かった。
「綾瀬管理官」
「どうした」
「久我晃生の現場でも、これが残されていました」
私は端末を差し出した。
鑑識写真。
『椅子に座りますか』
綾瀬はしばらく無言で文字を見つめ、やがて目を細めた。
「……やはりな」
「やはり?」
「単なる自己顕示欲による悪戯ではない」
綾瀬は静かに言った。
「犯人の行動には、一貫した規則がある。歪んではいるが、極めて強固な『システム』としての規則性だ」
そして。
周囲を一度見回した。
捜査員たちは皆、慌ただしく動き回っている。
綾瀬は、その誰にも聞こえないほど声を落とした。
「真下」
「はい」
「君に、特捜本部全体の捜査とは別に、単独で動いてもらいたい案件がある」
「……私に?」
綾瀬はデスクの引き出しを開けた。
そこから、黒い縁取りが施された、一枚の『関係者用パス』を取り出した。
表面は金文字、久我家を示す紋章。
裏面には、警視庁警備部が今回のテロ警戒のために発行した、特殊なセキュリティコードが刻まれている。
「今夜、港区の青山葬儀所で、久我晃生議員の通夜が執り行われる」
「……」
「当然、爆殺テロの翌日だ。会場はSPと機動隊による超厳戒態勢が敷かれる。一般の弔問客もマスコミも、完全にシャットアウトされる」
綾瀬がパスを私へ差し出した。
「事前に身元確認を受け、このパスを支給された限られた関係者しか、敷地内へ入ることはできない」
私は黒いパスを受け取った。
「君も知っている通り、父親の久我晃一郎氏は、与党幹事長だ」
次期総理の座に、最も近い男。
政界の『怪物』。
「彼の影響力は計り知れない。我々警察は威信を懸けてテロリストを排除し、久我一族を守らなければならない」
綾瀬の言葉には、確かな重みがあった。
少なくとも、郷田のように、自分の出世や保身だけを考えて口にしているようには聞こえない。
国家にとって重要な人物を守る。警察官僚としての、強い使命感、そんなものが滲んでいた。
「本来なら、警察上層部の人間が何人も顔を出す場所だ。だが、今は連続テロの最中でもある。迂闊に動けば、こちらまで犯人に狙われかねない」
綾瀬が私を見る。
「……そこで、君だ」
「私が、このパスで入るのですか」
「そうだ」
短く答えたあと綾瀬は、私が最も聞きたくなかった話へ踏み込んだ。
「本庁の権限で、君の戸籍を調べさせてもらった」
「……」
「君には、かつて児童養護施設で生き別れになり、その後、久我家へ特別養子縁組で引き取られた実の弟がいたそうだな」
ドクン。
心臓が、嫌な音を立てた。
そこまで調べているのか、綾瀬は、郷田から吹き込まれた「極秘の裏捜査」などという話を、ただ鵜呑みにしているわけではない。
私の過去まで洗った上であえて、この仕事を任せようとしている。
「……ユウのことですか」
「ああ」
「二十二年前の話です」
私は答えた。
「ユウは久我家へ引き取られて……わずか三年後。十歳の時、海外で不慮の死を遂げました」
「君にとって」
綾瀬は静かに続けた。
「久我家は、弟が最期の時を過ごした場所だ」
「……」
「私的な感情を持ち込めとは言わない。ただ」
探るような目。
「君なら、あの場所に流れる空気の変化を感じ取れるかもしれない」
綾瀬はデスクの上で指を組んだ。
「犯人が久我晃生を『暴食』として狙い撃ちにした以上、そこには必ず、我々がまだ把握していない理由がある」
「理由……」
「君にしか見えないものがあるかもしれん」
その目が真っ直ぐ、私を射抜く。
「参列者の中へ紛れ込んでいる不審な人物。あるいは、警察内部から情報を流している『内通者』と接触する者がいないか、その目で確かめてこい」
一拍。
「……これは、私からの特命だ」
「……承知しました」
私は黒いパスを握り、深く頭を下げた。
久我晃生が、なぜ『暴食』と呼ばれたのか、今の私には、まだ何も分からない。
だが。
弟の命が消えたあの一族に、ついに自分から足を踏み入れる時が来た。
