椅子に座りますか

 翌日の早朝。

 昨夜、私は裏情報屋の『カラス』へ連絡を取り、残る中継設備や犯人の足取りを追うよう依頼した。

 だが、犯人が構築した強固な分散型ネットワークの壁は厚く、カラスの腕をもってしても解析には時間がかかるとのことだった。

 デジタルな手掛かりを待つ間、私は雨の街を一人で這いずり回り、事件の端緒を探し続けた。だが、警察の情報網から外れた丸腰の刑事一人の足で、姿なきテロリストの尻尾がそう簡単に掴めるはずもなかった。

 だからこそ、私はここへ戻ってきた。

 私は、新宿署の特捜本部が置かれている道場へ足を踏み入れた。
 胸ポケットのあたりが、ひどく軽い。

 身分を証明する鉄の板が一枚ない。それだけで、長年通い慣れてきたはずの署内の空気が、まるで他人の家へ勝手に入り込んだかのように冷たく、余所余所しく感じられた。

 昨日、電話越しに聞いた郷田の声が、耳の奥で不快に蘇る。
『お前のその真っ直ぐで泥臭い正義感を、私は高く評価している。私の指示通りに動き、これ以上勝手な真似をしなければ、お前が内通者にされることはない』
 ねっとりと首輪を握り締めるような声。

 私を内通者の身代わりに仕立て上げ、その一方で、自分の都合のいい手駒として利用し続けようという卑劣な脅迫だった。

 警察組織への絶望は、泥のように胸の底へ沈殿している。

 それでも、私はここへ戻ってきた。
 郷田のためではない。
 腐りかけた組織を守るためでもない。
 義父が教えてくれた、
(泥水をすすってでも、誰かの命を引きずり上げる)
 という、あの不器用な正義の灯火だけが、私の背中を押していたからだ。
 バッジがあろうとなかろうと私は刑事だ。

 百五十名を超える合同捜査員がひしめく道場の重い扉を押し開けた瞬間、私は室内の異様な変化に気づいた。

 熱気そのものは一昨日と変わらない。

 何十台ものキーボードを叩く乾いた音。絶え間なく鳴る電話。壁際に並ぶモニターから漏れる青白い光。徹夜明けの捜査員たちが放つ疲労と焦燥。
 だが、道場の最前列――特捜本部の実質的な権力を握る幹部たちの布陣が、一昨日までとは明らかに変わっていた。

 本庁捜査一課の精鋭と、サイバー犯罪対策課の技術官たちが顔を突き合わせ、激しい議論を交わしている。
 しかし、その中心で指揮を執っているのは、郷田ではなかった。

「――おや、真下じゃないか。よく休めたかね」
 不意に、幹部席の端から声が飛んできた。
 郷田管理官だった。

 私を見るなり、わざとらしく口角を上げる。
 声にはたっぷりと余裕を含ませていた。周囲の捜査員たちにも聞こえるように、部下思いの良き上官を演じているのだろう。
 だが、奥の目だけは笑っていない、蛇のように細められた視線が、
『いつでもお前を内通者として切り捨てられる』
 と、無言の圧力をこちらへ突きつけていた。

 しかし、その郷田自身もまた、以前とは違っていた。
 幹部席の中央ではない。
 明らかに「端」へ追いやられている。
「皆には、例の『極秘の裏捜査』について私からうまく説明しておいたぞ。今日からは、より強固な体制で臨むことになった」
 郷田は、自分の権力が揺らいでいることを私に悟られまいとするように言い放ち、その隣――正確には、自分よりさらに上座に立つ男へ視線を向けた。

 四十代後半だろう。
 完璧に仕立てられたスーツを、微塵の乱れもなく着こなしている。
 若白髪の混じった短髪。
 冷たい硝子を思わせる鋭い眼光。

 ただ立っているだけなのに、郷田とはまるで違う種類の圧力があった。
 幾つもの修羅場を、自分の足で潜り抜けてきた人間だけが持つ重さ。

「本庁捜査一課から急遽着任された、綾瀬(あやせ)管理官だ」
 郷田が紹介した。
「私が新人の頃、現場のイロハを叩き込まれた大先輩であり、今回の広域連続テロ事案について、共同指揮を執っていただくことになった」

 綾瀬管理官は、僅かに頷いた。
 役職こそ郷田と同じ「管理官」だ。
 だが、その存在感は比べものにならない。

 本庁の最前線で長年修羅場を潜り抜けてきたベテランとしての立場も、三十八歳という若さで出世街道を駆け上がってきた郷田を遥かに凌いでいる。

 共同指揮、そんなものはただの建前だ。
 現職議員である久我晃生が爆殺された。
 しかも、その直前には郷田の失態がネット上へ晒され、警察の威信そのものが傷つけられている。

 上層部は、郷田一人にこれ以上好き勝手させるつもりがないのだ。
 本気の「お目付け役」それが、綾瀬なのだろう。
 郷田が私を脅してまで手柄に執着している理由が、この男を見た瞬間にはっきりと理解できた。

 道場の最前列で、綾瀬管理官はじっと私を見ていた。
 顔ではない、その奥、私という人間が何を考え、何を信じているのか。
 そこまで見透かそうとしているような視線だった。

「君が真下か」
「……はい」
「話は郷田から聞いているよ。なんでも、彼の特命で『極秘の裏捜査』に当たっているそうだな」

 その言葉を聞いた瞬間、私は内心で奥歯を強く噛み締めた。
 郷田は本当に、自分の作り上げた嘘を、この男にまで押し通している。
 私を都合のいい手駒として飼い殺すために。

 綾瀬管理官は、そんな私の僅かな表情の変化に気づいているのか、いないのか。
 硝子のような目を逸らすことなく、淡々と続けた。

「かつて君の親父さん――真下元警部補には、私も若い頃に現場で世話になってね」
「父を……?」
「ああ。君も父親譲りで、泥臭く、執念深い捜査をするそうじゃないか」

 綾瀬は、ほんの僅かに目を細めた。
「……期待しているよ、真下」
 低く、落ち着いた声だった。

 郷田のような薄っぺらな保身も、他人を見下すような傲慢さも、少なくとも、その言葉からは感じられなかった。

 だが、私は目の前の男に圧倒されている場合ではなかった。
 頭の中には、それ以上に大きな疑惑が渦巻いている。

「全員、一度手を止めろ。現状の共有を行う」
 綾瀬管理官の鋭い声が、道場へ響いた。