椅子に座りますか

 日下部なら、本当に来るだろう。警察手帳を投げ捨てても、出世の道を自分から閉ざしてでも、私のところへ駆けつける。

 だが、その姿を想像した瞬間、三年前の記憶が鮮明に蘇った。
 私は何のために、炎の中へ飛び込んだのか。
 何のために、日下部の命を救ったのか。
 今ここで、あいつをまた同じ泥沼へ引きずり込むためではない。

「……お前は来るな」

 電話の向こうで、日下部の息が止まった。

「郷田に尻尾を振ってでも、そのバッジにしがみつけ」
『真下さん!?』
「いいか、日下部」
 私はフロントガラスの向こうへ視線を向けた。冷たい雨が灰色の東京を覆い、街の輪郭を滲ませている。

「警察の正義を中から変えられるのは、泥にまみれて、もう組織の外へ転がり落ちかけている俺じゃない」

『……』

「お前だ…出世しろ。ちゃんと上へ行け。真っ当な権力を持て。そして、俺みたいな人間が二度と潰されない組織に変えてくれ」
『真下さん……』
「それができるのは、お前みたいな奴だ」

 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。

「……俺の分まで、生き残れ」

 電話の向こうで日下部が何かを叫んだが、私は最後まで聞かなかった。その悲痛な声を遮るように通話を切り、今度こそ端末の電源を完全に落として、助手席へ乱暴に放り投げた。

 私は郷田の言葉を考えていた。 

 高く評価している。頼りにしている。郷田はいかにも部下を思いやる上司のような言葉を並べていたが、結局のところ、あの男が言いたかったことは一つしかない。

 内通者探しで本部全体が疑心暗鬼に陥っている間も、自分に逆らわず、便利な手駒として泥水をすすれ、少しでも勝手な行動を取れば、お前を内通者として本部長へ差し出す。

 それだけだった。
 吐き気を催すような、究極の飼い殺しだ。

 日下部の話が正しければ、郷田はすでに本部内で、いざという時にすべての責任を私へ押しつけるための布石を打ち始めているのだろう。
 警察組織そのものが、事件の真実を隠そうとしている。

 そんな状況の中で郷田という男は、足元のどこかに潜んでいるかもしれない本物の内通者を追うことよりも、無実の部下を恩着せがましく脅し、自分の『特等席』だけを守ることを選んだのだ。

 私は無意識に胸ポケットへ手を伸ばした。
 だが、そこに警察手帳はない。
 昨日、謹慎処分を言い渡された時、すでに特捜本部のデスクへ置いてきている。

 今の私は、警察官としての権限をほとんど持たない。制服もなければ、バッジもなく、組織の後ろ盾もない。立場だけを見れば、ただの一般人に限りなく近い存在だった。

 フロントガラスの向こうでは、雨が絶え間なく降り続いていた。灰色の街並みの中で赤いテールランプが滲み、濡れたアスファルトが鈍い光を反射している。

 そのすべてが、今の私にはひどく遠く見えた。

 郷田のような男たちが牛耳る組織の中で、私がこれまで当然のように受け入れてきた規律や階級、命令、面子、出世といったものが、急に何の意味も持たないものに思えてきた。

 犯人が周到に組み上げた悪意の盤上では、それらは真実を守るための盾ですらない。腐臭を放ちながらその場に立っているだけの、巨大な張りぼてにしか見えなかった。

 組織への絶望と、郷田への怒り。そして、自分が信じてきた警察という存在そのものへの疑念が、胸の奥で黒い渦となって絡み合っていく。

 もう全部、どうでもいい。

 一瞬だけ、本気でそんな考えが浮かんだ。
 その時だった。
 フロントガラスを叩く冷たい雨音を聞いているうちに、聞こえるはずのない声が、記憶の底からふいに蘇った。

『いいか、ジョウ。警察のバッジが、人を救うわけじゃねえ』

 義父――真下修造の声だった。

 不器用で、ぶっきらぼうで、それでもどこか温かい。
 まだ私が警察官になったばかりの頃、義父と酒を飲んでいた時に、何気なく聞かされた言葉だった。

『理不尽な泥水に突き落とされた誰かの手を、自分も泥まみれになって引きずり上げる。刑事ってのはな、バッジじゃなく、その「執念」で命を救う立派な仕事なんだぞ』

 私は目を閉じた。

 胸の奥へ鈍い痛みが走ると同時に、消えかけていた僅かな熱が戻ってきた。
 そうだ私は何のために刑事になった。
 郷田のためではない。
 本部長のためでもないし、警察という巨大な組織の面子を守るためでもない。
 義父から教わり、あの人の背中を見ながら学んだのだ。

 法を守ること、正義を貫くこと、そして、どれほど理不尽な壁にぶつかっても、最後まで真実へ食らいつくこと。

 救える命があるなら、自分も泥だらけになって手を伸ばすこと。
 それこそが、私が人生を懸けて守ろうとしてきたものだった。

 郷田のような男が出世欲を満たすためでも、高山のような人間が組織の失態を隠すためでもない。不当に奪われようとしている命を救い、誰かにとって都合の悪い真実であろうとも、その奥まで手を突っ込み、泥ごと抉り出す。

 それが、私が義父から教わった事だったはずだ。

 警察組織が腐っているからといって、私まで腐る必要はない。バッジを失ったからといって、刑事として生きてきた時間まで消えるわけでもない。

 たとえ誰かに『お前はもう警察官ではない』と言われたとしても、私の中に残っているものまで奪えるわけではないのだ。
 私は深く息を吸い込み、冷たい空気を肺の奥まで送り込んでから、ゆっくりと吐き出した。

 そして、ハンドルへ手を戻した。

 キーを捻ると、車のエンジンが低い唸りを上げ、再び目を覚ました。
 これ以上、犯人の狂った『正義』によって誰かの命が奪われるのを、黙って見過ごすわけにはいかない。

 警察が私を疑っていても、郷田が私を切り捨てようとしていても構わない。たとえ組織の中に味方が一人もいなくなったとしても、そんなことはもう関係なかった。

 私は刑事だ。

 バッジを持っているから刑事なのではない。真実を追い、救える命を見捨てず、最後まで犯人へ食らいつく。その執念を捨てない限り、誰に何と言われようと、私は刑事なのだ。

 そう胸の中で言い切ると、私はハンドルを強く握り直し、アクセルを踏み込んだ。
 
 灰色の空と濡れた街並みの向こうには、まだ姿さえ見えない犯人がいる。そして、まだ救えるかもしれない命がある。

(待っていろ。今度こそ、お前の正体を引きずり出す)

 警察手帳もなければ、組織の後ろ盾もない。

 それでも、刑事としての執念だけは、まだ確かに私の中に残っている。
 私はアクセルをさらに踏み込み、降りしきる雨を切り裂くように、再び東京の街へ車を走らせた。