椅子に座りますか

 私はゆっくり身体を起こした。

 数秒表示された名前を見る。

 そして通話ボタンを押した。

『――真下か』
 郷田の声。
『どうやら、無事だったようだな』

 午前中の記者会見を乗り切った安堵。
 そして、いつもの冷徹さ。

「……郷田管理官」
 私は静かに言った。
「ニュースは聞いていますか」
『何の話だ』
「久我晃生議員が、爆死しました」
『ああ』
 郷田は、驚きもしなかった。
『痛ましい事件だ』
「……痛ましい?」
『我々の会見直後に発生したのは計算外だったが、高山本部長が会見で「連続無差別テロ」という見解を先に世間へ示せたのは大きい』
 私は言葉を失った。

『これで事態は完全に我々の土俵だ』
「……何を言っているんですか」
『我々警察もまた、「無差別テロの被害者側」として堂々と大義名分で捜査に専念できる』
「大義名分だと……?」
 胸の奥から、怒りが込み上げてきた。
「ふざけるな……!」
『真下?』
「あなたが今、生きているのは、たまたま命拾いしただけだ!」
 私は後ろめたさのあまりに怒鳴った。

「その結果、市民ホールで久我晃生が死んだんだぞ!」
『……』
「奴は無差別になんか殺していない! 明確な意図を持って、標的を選んでいる!」
『まだそんな妄言を吐いているのか、真下』
 郷田の声が、鋭く変わった。

 上官として、私を押さえつけるあの声。
『私が座っていた椅子も、講堂も無傷だったではないか』
「それは――」
『お前は昨日から捜査本部を無断で離れ、あろうことか上官である私へ狂ったような暴言を吐いている』
 冷たい声。
『本来なら、組織の規律を乱したとして即刻懲戒処分にされてもおかしくない』

「だったらクビにすればいい!」
 私は叫んだ。
「真実から目を背け、組織の面子のために市民を危険へ晒すことが警察の正義だというなら!」

 血が滲むほど拳を握る。

「あんなバッジに未練はない!」
 しばらく、電話の向こうが沈黙した。

 そして。

『……そう熱くなるな、真下』
 声が変わった、冷たさが消え、代わりに親が子供を諭すようにひどく穏やかで、恩着せがましい響き。
『少しは、自分の置かれた立場を客観的に見たらどうだ?』
「……何?」
『会見を聞いただろう』
「……」
『特捜本部内部に、犯人へ情報を流している者がいる』

 私は黙った。

『いま本部内は、高山本部長の号令で、誰も彼もが互いを疑っている。最悪の魔女狩り状態だ』

 嫌な予感と共に胸騒ぎがしだした。

『……分かるか、真下』
「……」
『最初の特捜会議、犯人の声明文が読み上げられた時』

 まさか。

『お前は、何と言った?』
「……!」

 あの瞬間、会議室は静寂になり。
 私の声は会議室の全員に届いた声。
『……気持ちは、わかりますよ』
 背中に冷たい汗が流れた。

『そうだ』
 郷田の声。
『あの時、お前はテロリストの声明文へ、同情的とも取れる発言をした』
「違う! あれは犯人の心理を――」
『本部長も』
 言葉を遮られる。
『監察官も』

 一拍。

『全員、覚えている』
「……」
『その上』

 郷田の声が、さらに低くなる。
『お前は謹慎処分を受けた直後に、警察組織への不満を抱えたまま無断で姿を消した』
「……」
『いま本部内で、誰が真っ先に「内通者ではないか」と疑われているか』

 僅かな沈黙。

『言わなくても分かるな?』
「な……っ!」

 あの時、犯人の声明文に触れ弱者が踏みにじられる社会への怒りへ、一瞬だけ心が共鳴した。
 その結果、無意識に漏れた言葉が私自身の奥底にある感情、それが今度はテロリストへ思想的に共鳴している証拠として、私の首を絞めている。

『だが』
 郷田は続けた。
『安心しろ』
「……?」
『お前を今すぐしょっ引こうと息巻いている本部長や監察官には、私がきっちり説明をつけて庇っておいてやった』

 胸の奥に嫌悪感。
「……何て説明した」
『簡単なことだ』

 一拍。

『真下は確かに組織へ不満を抱いている狂犬だが、システムをハッキングしてテロリストと共謀するような知能犯ではない』
「……」
『今回の無断離脱についても』

 声は笑っている。

『実は私が単独行動を許可し、内通者を炙り出すための「極秘の裏捜査」を命じて泳がせている』
 私は目を閉じた。
『私がしっかり首輪を握り、監視しているので心配ありません』
 吐き気がした。
『……そう説明しておいた』
 電話の向こうでは、郷田の笑い。

 器の大きな上司、部下を守る上官を演じながら、実際には私の首へ、新しい縄を掛ける。
『お前の、その真っ直ぐで泥臭い正義感を、私は高く評価している』
 白々しい声。
『だから今回の、謹慎中の無断離脱には目を瞑ってやろう』

 郷田はそこで一度言葉を切った。私が何も答えずにいると、その声からわざとらしい温度が消え、さらに冷たくなる。
『私の指示通り動き、これ以上、勝手な真似をしなければ、お前が内通者にされることはない』

 私は黙ったまま、端末を強く握り締めた。

『逆に言えば、私がお前から「首輪を外した」と報告書を一枚出すだけで、お前は終わるということだ』
 完全な脅迫だった。それを郷田は、あくまで部下の将来を心配した善意の忠告であるかのような調子で語っている。

 そして次の瞬間には、また虫唾が走るほど白々しい『良き上官』の声へ戻った。
『……今日は一日休んで、頭を冷やせ。そして明日からまた、都民の平和のために全力を尽くしてくれ。……頼りにしているぞ、真下』
 プツン、と通信が切れ、無機質な切断音だけが車内に残った。

 私は端末を握ったまま、しばらく動けなかった。
「……クソが」
 吐き捨てるように呟き、助手席へ端末を投げつけようとした、その時だった。再び振動が手の中に伝わり、画面に『日下部』の名前が表示された。

 一瞬迷ったが、私は通話ボタンを押した。

『……真下さん!』

 繋がった瞬間、日下部の怒声が飛び込んできた。
『郷田の奴、本部で先輩に責任を押しつけようと、もう根回しを始めてます!』
「日下部――」
『また…一人で事件を追ってるんですよね?』 
 日下部は、覚悟が決まった決意のこもった言葉で口にした。
『俺も行きます! 真下さん一人に、泥は被せません!』

 声は必死だった。

 私は静かに目を閉じた。