椅子に座りますか

 その時、助手席へ放り出していたスマートフォンが、狂ったように通知音を鳴らし始めた。

 震える手で画面を開く。
 例の特設サイト。
 投票者たちへ向けて、新しい動画が一斉に配信されていた。

『暴食の二世議員――特等席での最後の晩餐』

 私は指を止めた。
 だが、開かずにはいられなかった。
 それは事後報道ではない。
 市民ホールの控室に仕掛けられていた隠しカメラによる、爆発直前からの映像だった。

 画面の中に久我晃生。
 演説前の控室で警護の人間を外へ下がらせ、持ち込ませた高級ケータリングの肉料理を貪るように食べている。

 油に濡れた口元をナプキンで拭き。
 そして、主賓用に用意された、豪奢な革張りの椅子へ深く腰を下ろした。

 次の瞬間。

 爆音、猛烈なオレンジ色の炎が、椅子を中心に一気に噴き上がった。
 昨日、グランドホテル東京で見たものと、酷似していた。
 そして、そのあとに残ったもの、画面越しでは、何が何なのか判別することすら難しいほど、激しく焼損している。

 黒く炭化した残骸。
 血なのか。
 肉なのか。
 骨なのか。
 映像だけでは見分けることもできない。

 絶対的な特権階級の中で生きていた久我晃生は、その豪奢な椅子と共に、人間だった頃の姿形を失っていた。

 そして、その映像を見た大衆は歓喜した。

『やったぜえええええええッ!!』

『隠蔽警察のトップが逃げた代わりに、親のすねかじり豚がホテル社長と同じように消し飛んで草www
 マジでメシウマ!!!
 繰り上げ当選最高!!』

『演説直前まで市民ホールで高級フレンチ食ってるとかマジで「暴食」じゃんw
 究極のエコなゴミ掃除だな!』

『てか数十万人も参加してるとかこのサイト凄すぎだろww
 俺たちの神聖な一票が、日本の粗大ゴミを処分したぞ!
 俺たちが世界を変えてるんだ!』

『次は誰だ!?
 本命の隠蔽ポリスを逃したからって、まだ満足してねえぞ!
 なあ、もったいぶるなよ犯人!
 早く次の投票を始めろ!!』

 吐き気が込み上げてきた。
 もう。
 正義など、どこにもなかった。

 標的が郷田だったのか。
 久我だったのか。
 そんなことすら、彼らにとってはどうでもいい。

 自分より上の階級にいる人間が、理不尽に死ぬ。

 その光景自体が、最高の娯楽になり、完全に脳を焼かれている。
 四十万人、圧倒的な数その数の暴力を盾に、次の生贄を求めて次の血を求める獣の群れ。

 車内に響く、スマートフォンの通知音。

 一度また一度、止まらない、まるで四十万人の大衆が一斉に「降車ボタン」を押し続けている地獄のチャイムのようだった。

 どれほどの時間、私はハンドルへ突っ伏したまま、虚空を見つめていたのだろう。
 やがて、カーラジオから流れていた臨時ニュースが途切れた。

 代わりに、少し前に終了した警視庁の「緊急記者会見」の録音音声が流れ始めた。

 昨日、ネット上に拡散された『狙い撃ちの処刑動画』について、マスコミから、怒号にも似た追及が飛んでいる。

『高山捜査本部長! あのリーク動画には、特捜本部内で郷田管理官が怒鳴り散らしている姿が、別アングルから鮮明に映っていました! 警察内部の人間が直接撮影したとしか思えません!』

『ネット上でも「警察にテロリストの内通者がいる」と騒がれています! 警察の隠蔽工作を内部からリークした者がいるのではありませんか!?』

 ラジオ越しでも、会見場が異常な熱気に包まれているのが分かった。

 しかし。

 高山の声は、ひどく落ち着いていた。
『――国民の皆様、どうか冷静にお聞きいただきたい』

 重く滑らかな用意された言葉。
『現在ネット上に拡散している特捜本部内の映像についてですが、一部の機密情報が外部に漏洩した可能性は否定できません』

 フラッシュの音とざわめき。
『我々としても断腸の思いですが、警察内部にテロリストへ情報を提供している者がいる可能性も視野に入れ、現在、監察官による徹底的な内部調査と情報管理の強化に乗り出しております』

 会見場が、さらに騒然となった。
 その空気を制圧するように。
『しかし!』
 高山が声を張り上げた。
『動画の中で示唆されている「特定の人物を狙い撃ちにした処刑」という主張は、警察に対する不信感を煽るための、テロリストによる極めて悪質な捏造です』

「……」

『バスの爆発物につきましても、警察の捜査を攪乱するための卑劣な陽動に過ぎません』

 私はゆっくり顔を上げた。

『このような凶悪な連続無差別テロを、我々警察は断じて許すわけにはいきません。警視庁の威信にかけ、内部の膿を出し切り、必ずや犯人を早期に逮捕して厳正なる法の裁きを下すことをお約束いたします』

 カーラジオから流れる声。

 まるで、最初から用意されていた台本を読み上げているかのようだった。
 私は、自分の耳を疑った。
 彼らは、息を吐くように嘘をついている。

 内部から情報が漏れた可能性、そこだけは、さすがに否定し切れない。

 だからその部分だけ認める。
 そして。
「内部調査を行う」という姿勢を見せる。

 だが、本当の核心。
 天楽建設の社長が、明確に主賓席だけを狙われて殺されたこと。
 四十万人もの人間が、現実の処刑に熱狂していること。
 犯人が人を選んで、裁いて、社会全体を巻き込んでいること。

 そこは。
『捏造』
『攪乱』
 その便利な言葉で、すべて上書きする。

「……狂っている」

 声が、自然に漏れた、血に飢えた四十万の大衆も核心の事実を握り潰し、組織の体面だけを守ろうとする警察も、どちらも狂っている。

 こんな国のために私はあの地下室で、自分の魂を削ってまで、正義を貫いたのか。

 雨音だけが響く車内で、胸の奥にあった何かが決定的に、音を立てて砕けていくのを感じた。

 私はハンドルへ突っ伏したまま喉の奥で、乾いた笑いを漏らした。
 この組織は、どこまでも組織自身を守るために動いている。
 その時だった助手席へ放り出していた警察用端末が、けたたましく鳴った。

 画面。

『郷田管理官』