椅子に座りますか

【00:59】
【00:58】

 数字が、一秒ごとに減っていく。

 右側のモニターでは、郷田が壇上に用意された椅子に座っている。
 左側では、殺意に満ちたコメントが滝のように流れ続ける。

『死ね!』
『傲慢な警察トップを吹き飛ばせ!』
『俺たちの手で処刑してやる!』

 彼らは、本当に理解しているのだろうか。
 自分たちがいま、一人の人間の命を奪う決定に加担していることを。
 おそらく、ほとんどの者は考えてすらいない。

 画面を一度押す。
 ただ、それだけ。
 ゲームの投票と変わらない。

 その指先の向こう側に、現実の命があるという感覚が完全に失われている。

【00:30】

 鉄パイプを握る手が、カタカタと震えた。
 郷田を救う価値など、本当にあるのか、あの男は、自分の出世のために私を利用した。

 私が命を懸けて拾った手柄を奪い、都合が悪くなれば切り捨てた。
 今回も、自分たちの失態を隠すために事件の真実を歪め、私を不当に捜査から外した。

 腐りきった男だ。

 もし、ここで郷田が死ねば。
 警察組織の膿が、一つ消えるのではないか。

 あの男の死をきっかけに組織全体が揺さぶられ、一度は徹底的に壊され、今より健全な形へ生まれ変わる可能性さえあるのではないか。

 犯人の言う通り、私が何もしないことこそが、多数決によって選ばれた「正義」なのかもしれない。

 十五万人が望んでいる。

 私一人だけが、それを否定する権利などあるのか、なぜ、あんな男のために、どうして私が。

 あと数十秒。
 ただ待っているだけで、私を散々踏みにじってきた、あの忌まわしい上司は――。

(……待て)

 その考えが頭をよぎった瞬間、私は自分自身に戦慄した。

 違う。

 これは「正義」ではない。

 私はいま、見殺しにしても構わない理由を探している。
 郷田を憎んでいるから、救いたくないから。
 だから、十五万人という数を言い訳にして、自分の責任を放棄しようとしている。
 多数決という顔のない狂気へ判断を委ね、自分は何もせず、ただ結果だけを眺める。

 それでは私は、刑事でも何でもない。
 ただの傍観者だ。

 そして――。

(これこそが……『怠惰』(スロース)じゃないのか)

 背筋に電流が走った。
 助ける価値のない人間なら、見捨てればいい。
 悪人なのだから仕方がない。

 大勢が死を望んでいるのだから、自分一人が抗っても意味はない。
 そうやって考えることをやめ、行動する責任を放棄する。

 犯人が私へ仕掛けた、本当の罠。

 この極限状態の中で私を絡め取ろうとする、最も深く、最も歪んだ『怠惰(スロース)』の迷路。

 ふざけるな。

 私は、お前が作った盤上で踊る駒じゃない。
 正義は、顔のない多数決で決まるものではない。

 誰に憎まれていようと、どれほど救いようのない人間であろうと、目の前で命が不当に奪われようとしているなら、それを全力で止める。

 それが、義父から教わったことだ。

 警察官として、刑事として。
 私が最後まで捨ててはいけない矜持だ。

「……うおおおおおおっ!!」

 腹の底から咆哮が迸った。
 己の迷いも、胸の奥へ這い寄ってきた甘い『怠惰』の誘惑も、すべて断ち切るように、私は鉄パイプを両手で握り直した。

【00:10】
【00:09】

「……ふざけるな」
 私はサーバーラックを睨みつけた。
「お前の安い脚本通りになんて、動いてたまるかッ!」

 赤錆びた鉄パイプを大きく振り被った。
 そして、サーバーラックの中心部へ向け、渾身の力で叩き込む。

 ガァンッ!
 激しい衝撃が両腕へ返ってきた。

 金属と強化プラスチックが砕け、内部の部品が床へ飛び散る。
 私は止めなかった。

 二度。
 三度。

 何度も鉄パイプを振り下ろす。

 配線がちぎれ、基板が砕け、バチバチという激しい放電音と共に火花が飛び散った。

 部屋を囲んでいた何十枚ものモニターが次々と砂嵐へ変わり、そのまま暗転していく。

【00:03】
【00:02】
【00:01】

 そして。

 正午。
 ゼロ。

 地下室を、圧倒的な暗闇と沈黙が包み込んだ。
 私は鉄パイプを握ったまま、ひどく乱れた呼吸を繰り返していた。
「はぁ……はぁ……」

 目の前では、粉々になったサーバーラックから細い煙が立ち昇っている。
 何も動かない。
 何の音もしない、完全に沈黙していた。

(……止めた)

 私はようやく息を吐いた。
 起爆信号は送られなかった。
 郷田は生き延びた。

 十五万人分の「殺意」は、ぎりぎりのところで現実の死へ変わらずに済んだ。
 全身から一気に力が抜けた。
 私は壁へ手をつき、崩れ落ちそうになる身体をどうにか支えた。

 その時だった。
 暗闇の中に、完全に破壊したはずのサーバー群の奥で、ぽつりと一つだけ光が灯った。

「……?」

 一枚のモニター。

 真っ黒な画面の中央に浮かび上がったのは、黄色いプラスチックの枠に収められた、あのオレンジ色の降車ボタンだった。

 独立した非常用電源で動いているらしい。
 やがて。
 暗闇の中に、男の声が響いた。

『――おめでとう、真下刑事』
「……貴様」

 私は鉄パイプを握り直した。

「まだどこかに……!」
『君は見事に、自分の正義を貫いた』

 犯人の声には、怒りも焦りもない。
 むしろ、満足しているようにさえ聞こえた。

『十五万人の大衆を敵に回し、あれほど傲慢な上司の命を救った。マスターノードの破壊も確認したよ。郷田の座る椅子が火を噴くことは、もうない』

「当然だ」
 私は荒い呼吸を整えながら言った。
「貴様のふざけたテロは、これで終わりだ」

 一瞬沈黙。

 そして。

『――終わり?』

 犯人が、哀れむように小さく笑った。

『君は一つ、決定的な勘違いをしている』

「……何?」

『サイトそのものは分散型だ。この地下室にあった設備を壊したところで、投票サイトそのものは消えない』

 嫌な予感が胸の奥へ広がっていく。