鹿児島で大失敗した私が、桜島の溶岩でサムギョプサルを焼く理由


翌朝8時。
ホテルの暗いロビーに現れた佐伯課長は、眉間に深いシワを寄せ、見るからに不機嫌でピリついたオーラを全身から纏っていた。
朝一番の便で羽田から飛んできたその顔には、隠しきれない疲労とイラ立ちが滲み出ている。

「矢野、覚悟はできているんだろうな。新城部長はお怒りだぞ。今日の挽回次第じゃ、うちの会社全体が出禁になりかねん」
「はい。ですが課長、南九州物産様に向かう前に、まずこれを見ていただけますか」

私はホテルのビジネスセンターで刷り上がったばかりの、温かい湯気が残るような新しい企画書を差し出した。
課長は最初は「無駄な抵抗を」と言いたげに面倒そうにページをめくっていたが、3ページ目の手描きあたりでピタリと手を止めた。
パラパラとめくっていた指の動きが完全に止まり、眼鏡の奥の目線が険しいものから真剣なものへと変わっていく。

「……お前、これ、夕べ一晩で書き直したのか?」
「はい。昨日の私の提案には、この街と現場で働く人たちへの敬意が決定的に足りていませんでした。自分を良く見せたいだけの余分な脂を全部落として、一番大事な本質だけを書きました」
「……ふん。相変わらず生意気な口をきくが……よし、これで行こう。俺が全力でフォローしてやる」

午前10時。
再び「南九州物産」の本社応接室。
重厚な空間の奥で、新城部長と現場統括の桐島氏が、前日と同じ冷ややかな眼光で私たちを迎えた。

「矢野さん、昨日あれだけ言ったのに、また来たのかね」
「新城部長、桐島様、昨日は大変申し訳ありませんでした。私の勉強不足と浅はかさをお詫びします。ですが、どうか十五分だけ、この新しい提案を聞いてください。もしこれで駄目なら、私は自らこのプロジェクトの担当を降ります」

息を呑む課長の横で、私は背筋をピンと伸ばし、まっすぐに新城部長と桐島氏の目を見てプレゼンを始めた。
今回は「AI」も、難解な最新用語なんてひとつも使わなかった。
自分の言葉で、鹿児島の店舗が持つ温かさと、現場のパートさんたちが地域のお客様に届けている笑顔をどう支えるかという具体的なアイデアを、熱を込めて語った。

プレゼンが終わったとき、室内には重々しい静寂が満ちていた。
新城部長は目を閉じ、腕を組んだままじっと動かない。横の桐島氏が、手描きの画面スケッチをいとおしそうに指でなぞっている。
やがて、新城部長は深く息を吐くと、クスッと小さく笑った。

「……君、夕べ何かいいものでも食べたかい?」
「えっ?」
「昨日の君はガチガチで、まるで東京から来たロボットと話しているみたいだった。でも今の提案には、ちゃんと君自身の『熱』が入っている。……いいだろう。この案で進めよう。桐島、現場と詰めてくれ」
「はい! 矢野さん、この手描きの案、現場のパートたちも喜ぶよ」

応接室を出た瞬間、膝の力が一気に抜けそうになった。
エレベーターに向かう廊下に出るなり、佐伯課長が私の肩をドシッと力強く叩く。

「よくやったぞ、矢野! 本当に大逆転だ! 一体どうやってあんな短時間でこんな良い案に巻き返したんだ?」
「……課長。新幹線の時間までまだありますよね。ちょっと一緒に行きたい場所があるんです」

夕方前の天文館。
アーケードの喧騒を抜け、私は課長を連れてあの薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。

「おい矢野、こんな雑居ビルの地下に何があるんだ?」
怪しむ課長を促し、地下へと続く階段を降りて、仕込み中の『オモニの店』の木製扉をトントンと叩く。

「はいはい……あら、お姉さん! 昨日の!」
仕込みの手を止め、バケツを持ったオモニが扉を開け、びっくりしたように目を見張った。

「オモニ、昨日のお礼を言いたくて! それに……どうしてもこの人に、オモニのお肉を食べさせたくて連れてきました」
「えっ、上司の方? はいはい、いらっしゃい! ささ、カウンターへどうぞ!」

わけが分からず戸惑う課長を丸パイプの椅子に座らせると、オモニは手際よくコンロに火をつけ、あの漆黒の桜島溶岩プレートを温め始めた。そして、分厚い鹿児島県産の豚バラ肉をドカンと載せる。

ジュウウウッ——!

激しい音とともに溢れ出る肉汁。そして、溶岩の傾斜をすーっと滑り落ち、端の穴からポタポタと落ちていく無数の透明な脂。

「課長、この溶岩プレートを見てください。遠赤外線でじっくり熱を通して、余分な脂をポタポタと外に落とすから、肉本来の旨味だけが残るんです」
「……脂が、下に落ちていくな」
「はい。昨日の私は、“デキる社員に見せたい”っていう見栄の脂でギトギトだったんです。だから失敗しました。でも夕べ、ここでオモニにこの溶岩の話を聞いて……見栄や不安の脂を全部削ぎ落として、一番大事な本質だけで企画書を書き直したんです」

オモニが手際よくカットしてくれた香ばしいサムギョプサルを、エゴマの葉とサムジャンで包み、課長の皿に載せる。
課長は半信半疑のままそれを口に放り込み、一口、二口と噛み締めた。

「……! なんだこれ……うまい! 全然重くないし、肉の旨味がすごいぞ!」
「でしょ? 溶岩が余分な脂を落としてくれたからです。私の企画書も、これと同じです」

満足そうに肉を噛み締める課長を見て、オモニが「はいよ、合格のお祝いね!」と冷えたカメからマッコリを二人のグラスに並々と注いでくれた。

「オモニ、仕事、本当にうまくいきました! ありがとう!」
「本当!? よかったぁ! あんたならやると思ってたよ!」

オモニは自分のことのように大喜びし、私を力強く抱きしめてくれた。ごま油と香ばしい肉の匂いが胸いっぱいに広がる。

「オモニ、私、絶対にまたこの街に出張に来ます。その時は一番にここに来て『ただいま』って言いますから」
「待ってるよ! 今度はもっともっと大きな肉を焼いてあげるからね!」

グラスを突き合わせ、マッコリを飲み干す。
喉を駆け抜ける爽快感とともに、胸の奥が熱く満たされていくのが分かった。

店を出ると、雨上がりの桜島の上空には、どこまでも澄み切った青空が広がっていた。
ドカ灰が舞う見知らぬ街で、私は一生ものの泥臭く大切な教えを教わったのだ。
気負わず、飾らず、自分の中の一番美味しい本質だけで勝負すること。

隣を歩く課長と笑い合いながら、新幹線のホームへ向かう私の足取りは、昨日とは比べものにならないほど、軽やかで力強かった。