ビジネスホテルの壁に沿って設置された、小さく狭いデスク。
その上にノートパソコンを広げ、青白い光を放つ液晶画面と真っ向から向き合った。
画面にズラリと並んでいるのは、つい数時間前まで「これ以上ない完璧な出来栄えだ」と疑いもしなかった、数十ページにおよぶスライドの山。
『最新AIアルゴリズムによる購買行動予測と店舗オムニチャネル化の推進案』
しかし、オモニの店で熱々のお肉を頬張り、マッコリの酔いが心地よく身体を巡った今の私には、その見出しやグラフがどれほど冷たく、血の通っていない数字と記号の無機質な羅列に見えるか、痛いほど理解できた。
「見栄の脂を、落とす……」
つぶやいた声が、静まり返った客室にぽつりと落ちた。
私はマウスを強く握り締め、カーソルをスライド一覧の上へ滑らせた。
東京のオフィスで深夜まで残り、最新トレンドの海外論文や大手企業の成功事例から引用してきた難解なIT用語、カタカナだらけの概念図、そして「これを入れておけば頭が良く見えるだろう」と飾り立てた抽象的な分析ページ。
キーボードのDeleteキーを、迷わず連打する。
バサッ、バサッ、と音が聞こえるような感覚で、半分以上のスライドが画面から消え去っていく。
半年間の苦労が消えていく恐怖がなかったと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に「これでいいんだ」という不思議な晴れやかさが胸に広がっていった。
白紙に戻ったスライドを前に、私は改めてキーボードの上に指を置いた。
脳裏に浮かぶのは、データの数値ではない。
今日、天文館のアーケードの中で、「灰がついてますよ」と優しく声をかけてくれたおばあちゃんの暖かな笑顔。
アーケード街の果物屋で、威勢よく声を張り上げて常連客と世間話を交わしていた店主の熱気。
そして、オモニが「本質だけを残すのよ」と力強く語ってくれた、あの温かい手と溶岩プレートの熱。
南九州物産という地元に根ざした企業が、本当に必要としているのは何なのか。
それは、東京の大都市圏で使われているような、スマートで洗練されているけれど血の通わない無人化システムなどではない。
鹿児島という土地が脈々と受け継いできた「人と人との温もり」と、現場で毎日汗を流して接客しているスタッフ一人ひとりの情熱を、テクノロジーの力でどうサポートし、どうやって地域のお客様へ届けるかという仕組みなのだ。
『鹿児島店舗における、人と地域を繋ぐ温もり型店舗づくりのご提案』
表紙のタイトルを、迷いなく書き換えた。
そこからの作業は、自分でも驚くほどの集中力だった。
言葉が、思いが、指先を通じて次々と画面に溢れ出していく。
現場のパートさんや年配のスタッフが、忙しい業務の合間でも直感的に使える操作画面のイメージ。
「こんなの使えない」と拒絶されないよう、バッグから手帳を取り出し、ボールペンでノートパッドに手描き画面のスケッチを描いた。
スタッフが押しやすい大きなボタン、温かい手書き風のコメント欄。
「お疲れ様です!」のメッセージが表示されるログイン画面。
それをスマホで撮影し、スライドの真ん中にそのまま貼り付けた。
綺麗に整えられた図形よりも、私の手描きの線のほうがずっと伝えたい思いが宿っていた。
売上予測のシミュレーショングラフの横には、冷たい投資回収期間の数値だけでなく、こんな言葉を添えた。
『このシステムは、スタッフの作業時間を減らすためのものではありません。できた時間で、パートさんが“お客様とあと3分長く会話できる”ようにするための道具です』
売上向上という結果の前に、その結果を生み出す「現場の人間の笑顔」を一番の目的に置いた。
自分が現場で桐島氏や新城部長に言われた悔しい言葉の一つひとつを思い出し、その反省を提案のエネルギーに変えていく。
ホテルの窓の外、天文館の街から人の気配が消え、静寂が深まっていく。
ホテルの客室の壁に設置された時計の針が、カタカタと音を立てて深夜3時を回った。
ついに、新しい提案書が完成した。
全6ページ。
元の三分の一以下のボリュームだが、ここには一切の「余分な脂」が入っていない。
私が見栄や恐怖を捨て、この街と向き合って紡ぎ出した、熱い本質だけが詰まっていた。
プリンターもない狭いホテルの部屋で、私は何度もパソコンの画面を見返し、静かに、そして誇らしく胸を張った。
もう、明日上司に怒鳴られることも、新城部長に厳しく追及されることも怖くなかった。

