その日、雪は午後の時間のほとんどを医務室のベッドの上で過ごしたらしい。もちろん授業は全て欠席扱いとなったのだろう。
放課後になってヒロが医務室を覗くと、雪はまだ体を横にしたまま、目を閉じていた。
ただ、彼がパイプ椅子にそっと腰を下ろした瞬間、
「心配しましたか?」
彼女は目をパチリと開いた。
まるでその瞬間を狙っていたかのようなタイミングだ。
「そりゃ心配するでしょ」とヒロは目を逸らしながら言う。「あの後、ずっとここで寝てたんだから」
「寝てませんよ。ずっと起きてました」
「いや、そうじゃなくて……」ヒロは頭を引っ掻く。「結局、柳田は教室に戻らなかったんじゃないかって事を言いたかったんだよ。午後の授業は全部サボったんじゃないの?」
「そうですね」と雪は平然と言う。「ここでやる事がありましたから」
「こんなところで?」
彼女はスッと上体を起こす。茶褐色の長いストレートの髪が、音もなく背中の後ろに流れていく。
「声を聴いていたんです。十三秒先の」
雪はあまり感情のない声で答える。
「いや、ここには誰もいないし……なにも聴こえないと思うんだけど」
「そうでもないですよ」
彼女はこちらの目を真っ直ぐに見て、はっきりと言う。
鳶色の目は相変わらず宝石のように澄んでいる。その目を向けられると、声など聴かれなくとも、心奥に隠した秘密の全てを覗かれたような気分になってしまう。
思わずヒロは雪から目を逸らす。
「耳をすませていると、頭の中で聴こえた声もあります。友だちの声ですけど」
「友だちって……」ヒロが雪の友人関係で思いつくのは一人しかいない。「今日の昼に職員室にいた、あの子?」
雪はコクリと頷く。
そもそもその友だち――確か、早川恵と言っていたが――その子に思い切り頬を叩かれたから、彼女はこんなところにいるのではないか。
そんな仇の声を何度も聴いて、雪は結局なにがしたいのか。
「あの早川って子が、医務室に来てくれたの?」
職員室で目にしたあの剣幕ではとてもそうは思えない。
「分かりません。あたし、ずっと目を閉じていましたから」
けど、と雪は淡々と続ける。
「頭の中に恵の声が響きました。近くで喋っている声とはまるで違いましたから、あれは、十三秒先の声だったと思います」
ふうん、とヒロは頷くしかない。これが嘘だと疑う根拠もないのだ。
「それで、早川さんはなんて言ってたの?」
「『今日はホテルに行きます』」
へ? とヒロは思わず声を出した。
相変わらずこの子の言葉は予想の斜め上から出てくる。
それでも、本人はなんとも思っていないようだ。こちらに向けられた鳶色の瞳に揺らぎはない。
「だから、恵は『ホテルに行く』と言ったのです」
「だ、誰と?」
「下井津先生とです。決まっているじゃないですか」彼女は呆れた顔になって言う。「あの子はずいぶん長い間、下井津先生と援助交際を続けていますから」
「マジで……」
ヒロはあの数学担当の教師の顔を思い浮かべる。ぼんやりとした顔。体の線は細く、暴力的には見えない。教え子に相応の金銭を支払って、快楽を貪るほど裕福そうでもない。
「あの先生、早川さんにそんなに気に入られてるの?」
それほど顔が良いとも思えない。
「てか、柳田のクラスだと、女子とかに人気があったりする?」
意外にも、雪は軽く首肯した。
「なんでそんなに人気があるの?」
「良く分かりません。あたしはネットの特別サイトは見てませんから」
はぁ? ヒロは奇声を上げる。
「特別サイト? 下井津先生がそんなものを作ったりしてるの?」
「下井津先生は出演していないと思います。けど、そこに出演している誰かに似ているから、『推しメン』だと恵のグループでは噂になっています」
「推しメンって……」
よもやこの無愛想な少女の口からそんな言葉が吐き出されるとは。
十三秒前でもこれは予想できなかった。
当の雪はニコリとも笑わずに続ける。
「クラスの女子グループで人気がある男性アイドルグループのオーディションサイトの話です。視聴者が、複数の参加者を毎日一票ずつ投票して、一定期間後の投票結果でアイドルのメンバーが決定するシステムのようです」
みなさん、スマートフォンを使っているみたいですが、と雪は淡々と説明する。
「下井津先生は、参加者の中の一人に外見がとても良く似ているそうです」
ならば早川恵たちは、下井津悠の事を自分たちの身近にいる擬似的なアイドルとして憧れているのか。仲間内で話題になるくらいだから、そこでアイドルに我先にと近づくための競争意識が芽生えてもおかしくはない。
下井津悠と言う賞品を手に入れる――そのための競争。まだ十代半ばの少女たちなら、ゲーム感覚で熱狂するのだろうか。
では、そんなゲームに参加した女子たちは、果たしてどれだけの対価を支払うのか?
潤沢な資金を投じる女子中学生などいる筈もない。
だけど、金銭以外の価値のあるものなら、ただひとつだけ持っている。早川恵はそのゲームの勝者になるためだけに、自分の未熟な体を差し出そうとしているのかもしれない。
果たしてそれは、本当に援助交際と呼べるものなのか。
「いや、でも……早川さんはさ、下井津先生の事を『愛してる』とか言ってなかったっけ? 先生が純粋に好きなんじゃないかな」
「実際には言ってませんよ。あれは十三秒先の声でしたから」
雪は断言する。
確かに、雪が現れた事によって、早川恵の十三秒先の未来は変化した。確かに彼女は「愛してる」の言葉を飲み込んだのだ。
「それはそうだけど……。でも、彼女の方が好きだって事は、やっぱり『援助交際』とは違うんじゃない。早川さんは別に見返りを求めてない気がするし」
「なにも違いません」
「じゃあ、早川さんはお金に困ってるんだっけ?」
「あたしがそんな事知ってる訳ないじゃないですか」
珍しく雪は苛立ったように言う。
「友だちなのに?」
彼女は言葉を飲み込む。じっとこちらを見る目つきは変わらないのだけど、どこか睨まれているように感じるのは気のせいか。
「なら、ヒロは自分の友だちの事をなんでも知ってるんですか?」
「いや別になんでも知ってるって訳じゃないけどさ……。ぼくも友だちって全然いないし」
雪がじっとこちら見つめている。
やはりどこか不満気な表情だ。怒っているのだろうか。
いや。違う。とヒロは思い直す。
その表情に悲しみが浮かんでいるようにも思えてくる。彼女は自分の感情を込めた言葉を出そうとしているのかもしれない。
ならばあと少しで、あれが聴こえてくるのだろうか?
《あたしは、ヒロの友だちですか?》
十三秒先の雪の声が頭に響く。
しかし、これは相当の難問だ。そして、その正解を導くには、ヒロにとって十三秒はとても短い。知り合ってからまだ数ヶ月しか経っていないと言うのに、ヒロと雪の関係はかなり歪なものになってしまっている。
「柳田は、さ――」
ヒロは先んじてそう口にする。ここではなにを言っても、取り繕ったようになってしまい、不自然なのだろう。
「友だちじゃないよ」
雪は目を見開いた。
この子には珍しく、よほど驚いた顔になっている。
ただ、直ぐにこちらが十三秒後の声を聴いたのだと察したようだった。その瞬間に雪とロの未来が少しだけ修正されたのかもしれない。
雪の表情が変わる。その目に失望の色が宿る。十三秒先の言葉を飲み込んだ――いや、生まれる前に、彼女の体の中で溶けて、消えてしまったのかもしれない。
「そうじゃなくて……」ヒロは彼女から目を逸らす。「ぼくは柳田を『家族』だと思ってるから」
だからこそ、雪はヒロの「友だち」ではない。
今日も彼女を自分の家に連れて帰らなければならない。鏑木家に父はいない。その家で待っているのはヒロの母だけだ。その母が、身寄りのない雪を家で引き取った。ヒロの母――鏑木里佳子は、雪の事を「娘」と呼ぶ事もある。
「家族……」
雪は目を下げて呟く。
既に十三秒先の彼女の未来は変わってしまった。
彼女はそうして吐き出した言葉の重みを噛み締めているのだろうか。あるいは表面だけの安っぽい言葉だと思ってしまったのかもしれない。
「今日はもう一緒に帰ろうか」
手を差し出すと、雪も白い手を伸ばしてくる。
「家に、帰る……」
だけど、彼女は伸ばした手を直ぐに引っ込めた。
そのままシーツの上に伸ばした腕をだらりと投げ出す。彼女の白い腕には赤黒い火傷の跡が残っている。
ヒロはその腕から目を逸らす。彼がそこを直視できないのは、今に始まった事ではない。
それなのに――。
「ヒロ」
「なに?」
「家に帰る前に寄りたい場所があります。一緒に来てください」
ここで拒絶すると、こちらからいくら手を伸ばしても、彼女がそれを掴む事はないのかもしれない。
「良いよ」
雪は軽く頷く。火傷の跡だらけの細い腕をそっと伸ばして、今度はヒロの手をしっかりと掴む。
雪の手はしっとりと湿っていて温かい。いや。むしろ熱いくらいだ。彼女はここのベッドでずっと横になっていたのだから、体温は上がったままなのかもしれない。
だけど。
雪の手から熱を感じてしまうのは――彼女の体を焼いてしまったあの時の炎を思い出すからだろう。
放課後になってヒロが医務室を覗くと、雪はまだ体を横にしたまま、目を閉じていた。
ただ、彼がパイプ椅子にそっと腰を下ろした瞬間、
「心配しましたか?」
彼女は目をパチリと開いた。
まるでその瞬間を狙っていたかのようなタイミングだ。
「そりゃ心配するでしょ」とヒロは目を逸らしながら言う。「あの後、ずっとここで寝てたんだから」
「寝てませんよ。ずっと起きてました」
「いや、そうじゃなくて……」ヒロは頭を引っ掻く。「結局、柳田は教室に戻らなかったんじゃないかって事を言いたかったんだよ。午後の授業は全部サボったんじゃないの?」
「そうですね」と雪は平然と言う。「ここでやる事がありましたから」
「こんなところで?」
彼女はスッと上体を起こす。茶褐色の長いストレートの髪が、音もなく背中の後ろに流れていく。
「声を聴いていたんです。十三秒先の」
雪はあまり感情のない声で答える。
「いや、ここには誰もいないし……なにも聴こえないと思うんだけど」
「そうでもないですよ」
彼女はこちらの目を真っ直ぐに見て、はっきりと言う。
鳶色の目は相変わらず宝石のように澄んでいる。その目を向けられると、声など聴かれなくとも、心奥に隠した秘密の全てを覗かれたような気分になってしまう。
思わずヒロは雪から目を逸らす。
「耳をすませていると、頭の中で聴こえた声もあります。友だちの声ですけど」
「友だちって……」ヒロが雪の友人関係で思いつくのは一人しかいない。「今日の昼に職員室にいた、あの子?」
雪はコクリと頷く。
そもそもその友だち――確か、早川恵と言っていたが――その子に思い切り頬を叩かれたから、彼女はこんなところにいるのではないか。
そんな仇の声を何度も聴いて、雪は結局なにがしたいのか。
「あの早川って子が、医務室に来てくれたの?」
職員室で目にしたあの剣幕ではとてもそうは思えない。
「分かりません。あたし、ずっと目を閉じていましたから」
けど、と雪は淡々と続ける。
「頭の中に恵の声が響きました。近くで喋っている声とはまるで違いましたから、あれは、十三秒先の声だったと思います」
ふうん、とヒロは頷くしかない。これが嘘だと疑う根拠もないのだ。
「それで、早川さんはなんて言ってたの?」
「『今日はホテルに行きます』」
へ? とヒロは思わず声を出した。
相変わらずこの子の言葉は予想の斜め上から出てくる。
それでも、本人はなんとも思っていないようだ。こちらに向けられた鳶色の瞳に揺らぎはない。
「だから、恵は『ホテルに行く』と言ったのです」
「だ、誰と?」
「下井津先生とです。決まっているじゃないですか」彼女は呆れた顔になって言う。「あの子はずいぶん長い間、下井津先生と援助交際を続けていますから」
「マジで……」
ヒロはあの数学担当の教師の顔を思い浮かべる。ぼんやりとした顔。体の線は細く、暴力的には見えない。教え子に相応の金銭を支払って、快楽を貪るほど裕福そうでもない。
「あの先生、早川さんにそんなに気に入られてるの?」
それほど顔が良いとも思えない。
「てか、柳田のクラスだと、女子とかに人気があったりする?」
意外にも、雪は軽く首肯した。
「なんでそんなに人気があるの?」
「良く分かりません。あたしはネットの特別サイトは見てませんから」
はぁ? ヒロは奇声を上げる。
「特別サイト? 下井津先生がそんなものを作ったりしてるの?」
「下井津先生は出演していないと思います。けど、そこに出演している誰かに似ているから、『推しメン』だと恵のグループでは噂になっています」
「推しメンって……」
よもやこの無愛想な少女の口からそんな言葉が吐き出されるとは。
十三秒前でもこれは予想できなかった。
当の雪はニコリとも笑わずに続ける。
「クラスの女子グループで人気がある男性アイドルグループのオーディションサイトの話です。視聴者が、複数の参加者を毎日一票ずつ投票して、一定期間後の投票結果でアイドルのメンバーが決定するシステムのようです」
みなさん、スマートフォンを使っているみたいですが、と雪は淡々と説明する。
「下井津先生は、参加者の中の一人に外見がとても良く似ているそうです」
ならば早川恵たちは、下井津悠の事を自分たちの身近にいる擬似的なアイドルとして憧れているのか。仲間内で話題になるくらいだから、そこでアイドルに我先にと近づくための競争意識が芽生えてもおかしくはない。
下井津悠と言う賞品を手に入れる――そのための競争。まだ十代半ばの少女たちなら、ゲーム感覚で熱狂するのだろうか。
では、そんなゲームに参加した女子たちは、果たしてどれだけの対価を支払うのか?
潤沢な資金を投じる女子中学生などいる筈もない。
だけど、金銭以外の価値のあるものなら、ただひとつだけ持っている。早川恵はそのゲームの勝者になるためだけに、自分の未熟な体を差し出そうとしているのかもしれない。
果たしてそれは、本当に援助交際と呼べるものなのか。
「いや、でも……早川さんはさ、下井津先生の事を『愛してる』とか言ってなかったっけ? 先生が純粋に好きなんじゃないかな」
「実際には言ってませんよ。あれは十三秒先の声でしたから」
雪は断言する。
確かに、雪が現れた事によって、早川恵の十三秒先の未来は変化した。確かに彼女は「愛してる」の言葉を飲み込んだのだ。
「それはそうだけど……。でも、彼女の方が好きだって事は、やっぱり『援助交際』とは違うんじゃない。早川さんは別に見返りを求めてない気がするし」
「なにも違いません」
「じゃあ、早川さんはお金に困ってるんだっけ?」
「あたしがそんな事知ってる訳ないじゃないですか」
珍しく雪は苛立ったように言う。
「友だちなのに?」
彼女は言葉を飲み込む。じっとこちらを見る目つきは変わらないのだけど、どこか睨まれているように感じるのは気のせいか。
「なら、ヒロは自分の友だちの事をなんでも知ってるんですか?」
「いや別になんでも知ってるって訳じゃないけどさ……。ぼくも友だちって全然いないし」
雪がじっとこちら見つめている。
やはりどこか不満気な表情だ。怒っているのだろうか。
いや。違う。とヒロは思い直す。
その表情に悲しみが浮かんでいるようにも思えてくる。彼女は自分の感情を込めた言葉を出そうとしているのかもしれない。
ならばあと少しで、あれが聴こえてくるのだろうか?
《あたしは、ヒロの友だちですか?》
十三秒先の雪の声が頭に響く。
しかし、これは相当の難問だ。そして、その正解を導くには、ヒロにとって十三秒はとても短い。知り合ってからまだ数ヶ月しか経っていないと言うのに、ヒロと雪の関係はかなり歪なものになってしまっている。
「柳田は、さ――」
ヒロは先んじてそう口にする。ここではなにを言っても、取り繕ったようになってしまい、不自然なのだろう。
「友だちじゃないよ」
雪は目を見開いた。
この子には珍しく、よほど驚いた顔になっている。
ただ、直ぐにこちらが十三秒後の声を聴いたのだと察したようだった。その瞬間に雪とロの未来が少しだけ修正されたのかもしれない。
雪の表情が変わる。その目に失望の色が宿る。十三秒先の言葉を飲み込んだ――いや、生まれる前に、彼女の体の中で溶けて、消えてしまったのかもしれない。
「そうじゃなくて……」ヒロは彼女から目を逸らす。「ぼくは柳田を『家族』だと思ってるから」
だからこそ、雪はヒロの「友だち」ではない。
今日も彼女を自分の家に連れて帰らなければならない。鏑木家に父はいない。その家で待っているのはヒロの母だけだ。その母が、身寄りのない雪を家で引き取った。ヒロの母――鏑木里佳子は、雪の事を「娘」と呼ぶ事もある。
「家族……」
雪は目を下げて呟く。
既に十三秒先の彼女の未来は変わってしまった。
彼女はそうして吐き出した言葉の重みを噛み締めているのだろうか。あるいは表面だけの安っぽい言葉だと思ってしまったのかもしれない。
「今日はもう一緒に帰ろうか」
手を差し出すと、雪も白い手を伸ばしてくる。
「家に、帰る……」
だけど、彼女は伸ばした手を直ぐに引っ込めた。
そのままシーツの上に伸ばした腕をだらりと投げ出す。彼女の白い腕には赤黒い火傷の跡が残っている。
ヒロはその腕から目を逸らす。彼がそこを直視できないのは、今に始まった事ではない。
それなのに――。
「ヒロ」
「なに?」
「家に帰る前に寄りたい場所があります。一緒に来てください」
ここで拒絶すると、こちらからいくら手を伸ばしても、彼女がそれを掴む事はないのかもしれない。
「良いよ」
雪は軽く頷く。火傷の跡だらけの細い腕をそっと伸ばして、今度はヒロの手をしっかりと掴む。
雪の手はしっとりと湿っていて温かい。いや。むしろ熱いくらいだ。彼女はここのベッドでずっと横になっていたのだから、体温は上がったままなのかもしれない。
だけど。
雪の手から熱を感じてしまうのは――彼女の体を焼いてしまったあの時の炎を思い出すからだろう。

