「あのさ、柳田」
ヒロは頭を何度も引っ掻いている。
先を行く雪の綺麗な茶褐色の長いストレートの髪が、振り子のように揺れている。
「なんですか?」
雪は階段を降りる。彼女は足を止めない。こちらに振り返りもしない。
「教室であんまりヘンな事を言わないでくれる?」
「なにもヘンな事は言ってないですよ」
彼女は階段の途中から、ひらりと飛び降りる。濃緑のギンガムチェックのスカートが風を孕んではらりと舞う。一瞬だけ、細い足に残った赤黒い火傷の跡が露わになる。
ダンッと硬質の音を立てて、雪はその場で屈み込む。しばらくすると、彼女はゆっくりと背筋を伸ばして、こちらを見上げた。
普段から動きの少ない彼女に、どこにこんな余力があったのか。少なくとも大火傷の後遺症はないようだ。
ヒロは再び頭をガリガリと引っ掻く。
眼下の少女は、やはりなにを考えているのか良く分からない。
はぁとヒロは息を吐く。言葉が続かない。
高等部の校舎を抜けて、中等部の校舎に至る。
こちらの校舎は高等部のものよりも痛んでいる。シミのついた壁や柱の所々が欠けている。分別のつかない中学生たちが乱暴に扱っているから――と言うよりも、単に築年数が古いのだ。
二つの校舎をつなぐ廊下は一階にしかない。そのため、ヒロも雪の後に続いて再び階段を上る。彼女が目指す場所は、どうやらこの校舎の上の階にあるらしい。
昼休みなのだから、途中で中等部の生徒たちとすれ違うのだが、雪よりもヒロに注目が集まってしまう。こちらに来てしまえば、高等部の制服の方が珍しいのだ。
「なあ、柳田」そこでヒロは痺れを切らせて、雪の背中に声をかけた。「どこまで行くの?」
彼女はピタリと足を止めた。まるで声をかけられるのを待っていたようなタイミングだ。
「ここです」
そこは中等部教員の集まる職員室だった。
雪はドアを手にして、そっと室内の様子を伺う。
ヒロにとってこの職員室の景色はなんだか懐かしい。中等部の校舎を離れて、まだ半年も経っていないのに、こんな感覚になるとは思わなかった。
「柳田、ここに入るならマスクをつけた方が――」
そこで雪がくるりとこちらに顔を向けた。
「ヒロ、耳をすませてください」
彼女の鳶色の目が語っている。
十三秒先の、あの声を聴け、と。
《でもやっぱり、あたし……先生とずっと一緒にいたいんです!》
ヒロは思わず息を飲んだ。
十三秒先の声が頭に響いた。だけど声の主が誰なのか分からない。
彼も室内を覗き込む。
職員室の片隅。窓際の机に座っているのは、ヒロも見覚えのある細い銀縁のメガネをかけた男性の教師だった。教師にしては些か髪が長い。ただ、良く手入れしているようで、毛先まで綺麗な光沢を放っている。
彼の名前は下井津悠――中学三年生の数学を担当している若手の教師だ。
ただ、この学校の職員の平均年齢は些か高い。若手と言っても、下井津はもう三十代前半くらいにはなっている。
その彼の前に夏服姿の少女が立っている。もちろん女子中学生。彼の教え子だろう。黒いショートカットが、小さな逆三角形の顔を包んでいる。切れ長の目と合わせると、中学生にしては少し大人びて見える。
ここは中等部の職員室だ。だから、教師と教え子が向かい合っていても、特に違和感はない。
《下井津先生が好きです!》
おかしいのは、そこから聴こえる十三秒後の声だ。
この少女が叫んでいるのだろうか?
それにしても教師を前にして、女子中学生が簡単に口にする類のものではない。
《愛してる!》
「気持ち悪い……」
雪はそう呟いてから、室内に勢い良く飛び込んだ。どこにそんな力があったのかと思うほどの俊敏な動きで、教師の机の間をすり抜けていく。
ヒロも彼女の背中を追って駆け出した。
「おいっ!」
どこからか棘のある声が飛ぶ。
「職員室で走るな!」
その声は、先を行く雪に向けられたものなのか。
「それにマスクはどうした!」
怒声があまりに耳の奥に響いたため、ヒロは声の主に目を向けた。
通路側の机の向こうから、こちらに顔だけを出している中年の男がいた。白いマスクをつけた四角い顔。愛嬌があるのは、そこにある丸いピンポン球のような二つの目だけだ。
彼は、学年主任を務めている草村。昨年のヒロのクラスの担任でもあった。
草村は「おっ」と声を漏らして、意外そうな顔になった。昨年までの教え子とこんなところで顔を合わすとは――そう驚いている表情だ。
ヒロも軽く頭を下げる。ただ、足は止めない。そのまま雪の後を追いかける。
今はこの草村の事よりも、雪が向かった先が気がかりだった。
「だから、これ以上はもう……」
下井津は自席に座ったまま、困惑気味の声を漏らしている。彼はマスクをつけていない。下井津の机の上には、食べかけのサンドイッチとペットボトルが置いてある。その隣に白い不織布のマスクがあるのだから、昼食の最中だったようだ。
「でもやっぱり、あたし――」
少女の甲高い声が響く。
その言葉。それはちょうど十三秒前にヒロの耳の奥に響いた声とピタリと重なって――。
「下井津先生」
雪が声をかけた。
少女は雪の顔を見て目を丸くした。その弾みで、彼女はそのまま言葉を飲み込んだようだった。
その瞬間、これから生まれる筈の言葉は永遠に失われてしまった。
十三秒先の未来が、少しだけ変わる。
「えっと、君は……」
「三年一組の柳田雪です」
「あ、うん……柳田さん、そうだったね……」
下井津はぼんやりとした顔で答える。
状況がうまく理解できていないのもしれない。
「えっと、君もぼくになにか質問があるんだっけ……?」
「質問はありません」
「そう」
「だけど、下井津先生には言いたい事があります」
「うん?」
そこで下井津は、雪の側にいるヒロの姿を捉えた。
彼は胡乱な目をヒロに向ける。高等部の制服姿は、確かに中等部の職員室では目立ってしまう。
「早川恵から、早く離れてください」
雪の声は低く、とても静かだ。それでも。この室内の隅々まで響いていく。
「あなたは気持ちが悪いです」
そこで固まってしまったのは、下井津だけではない。ショートカットの少女もそうだ。
しかし、少女が固まったのはほんの一瞬だけだった。彼女の顔は直ぐに真っ赤になった。
少女の体が少し震えている――そうヒロが気づいた時には、もう遅かった。
バンッ、と。
乾いた破裂音が室内に響いた。
雪の体がフラリと揺れる。
「もう良い加減にしてよ!」
少女は大声で叫ぶ。
「あんたいったいなんなの! なんであたしにずっとつきまとってくんの!」
「恵の声が、聴こえたから」
雪は平然と少女を見据えて言う。
叩かれた雪の頬は、もう真っ赤になっている。
「名前で呼ぶな! キモい!」
恵と呼ばれた少女は、もう一度手を振り上げる。
「は、早川、やめなさい」
下井津が慌てて立ち上がって、恵の手を掴む。
「うっさい!」と恵は喚きながら、腕を強く振った。下井津の手は簡単に離れる。
それは恵にとっても予想外だったらしい。彼女は二、三歩ほどよろめいて、カクンと膝をついた。
学年主任の草村を含め、周囲にいた数人の教師が血相を変えて近づいてくる。
恵は直ぐに体勢を整えると、教師たちの隙間を狙って飛び出した。
「おい、ちょっと待て!」
草村の怒声が恵の背中に飛んだ。
学年主任の権威を嘲笑うように、恵は一度も振り向かずにドアの向こうまで走り去っていく。
「ぼく、彼女と話してきます」
下井津は机の上に置いた白いマスクを引っ掴んで、席を後にする。
彼は本気で教え子の事を心配したのか。それとも、上司や同僚に囲まれたこの悪夢のような状況から逃げ出したいと思ったのだろうか。
「ちょっと下井津先生! どこに行くんですか!」
草村の声を振り切って、下井津は足早に職員室のドアの向こうに消えた。
ヒロは頭を何度も引っ掻いている。
先を行く雪の綺麗な茶褐色の長いストレートの髪が、振り子のように揺れている。
「なんですか?」
雪は階段を降りる。彼女は足を止めない。こちらに振り返りもしない。
「教室であんまりヘンな事を言わないでくれる?」
「なにもヘンな事は言ってないですよ」
彼女は階段の途中から、ひらりと飛び降りる。濃緑のギンガムチェックのスカートが風を孕んではらりと舞う。一瞬だけ、細い足に残った赤黒い火傷の跡が露わになる。
ダンッと硬質の音を立てて、雪はその場で屈み込む。しばらくすると、彼女はゆっくりと背筋を伸ばして、こちらを見上げた。
普段から動きの少ない彼女に、どこにこんな余力があったのか。少なくとも大火傷の後遺症はないようだ。
ヒロは再び頭をガリガリと引っ掻く。
眼下の少女は、やはりなにを考えているのか良く分からない。
はぁとヒロは息を吐く。言葉が続かない。
高等部の校舎を抜けて、中等部の校舎に至る。
こちらの校舎は高等部のものよりも痛んでいる。シミのついた壁や柱の所々が欠けている。分別のつかない中学生たちが乱暴に扱っているから――と言うよりも、単に築年数が古いのだ。
二つの校舎をつなぐ廊下は一階にしかない。そのため、ヒロも雪の後に続いて再び階段を上る。彼女が目指す場所は、どうやらこの校舎の上の階にあるらしい。
昼休みなのだから、途中で中等部の生徒たちとすれ違うのだが、雪よりもヒロに注目が集まってしまう。こちらに来てしまえば、高等部の制服の方が珍しいのだ。
「なあ、柳田」そこでヒロは痺れを切らせて、雪の背中に声をかけた。「どこまで行くの?」
彼女はピタリと足を止めた。まるで声をかけられるのを待っていたようなタイミングだ。
「ここです」
そこは中等部教員の集まる職員室だった。
雪はドアを手にして、そっと室内の様子を伺う。
ヒロにとってこの職員室の景色はなんだか懐かしい。中等部の校舎を離れて、まだ半年も経っていないのに、こんな感覚になるとは思わなかった。
「柳田、ここに入るならマスクをつけた方が――」
そこで雪がくるりとこちらに顔を向けた。
「ヒロ、耳をすませてください」
彼女の鳶色の目が語っている。
十三秒先の、あの声を聴け、と。
《でもやっぱり、あたし……先生とずっと一緒にいたいんです!》
ヒロは思わず息を飲んだ。
十三秒先の声が頭に響いた。だけど声の主が誰なのか分からない。
彼も室内を覗き込む。
職員室の片隅。窓際の机に座っているのは、ヒロも見覚えのある細い銀縁のメガネをかけた男性の教師だった。教師にしては些か髪が長い。ただ、良く手入れしているようで、毛先まで綺麗な光沢を放っている。
彼の名前は下井津悠――中学三年生の数学を担当している若手の教師だ。
ただ、この学校の職員の平均年齢は些か高い。若手と言っても、下井津はもう三十代前半くらいにはなっている。
その彼の前に夏服姿の少女が立っている。もちろん女子中学生。彼の教え子だろう。黒いショートカットが、小さな逆三角形の顔を包んでいる。切れ長の目と合わせると、中学生にしては少し大人びて見える。
ここは中等部の職員室だ。だから、教師と教え子が向かい合っていても、特に違和感はない。
《下井津先生が好きです!》
おかしいのは、そこから聴こえる十三秒後の声だ。
この少女が叫んでいるのだろうか?
それにしても教師を前にして、女子中学生が簡単に口にする類のものではない。
《愛してる!》
「気持ち悪い……」
雪はそう呟いてから、室内に勢い良く飛び込んだ。どこにそんな力があったのかと思うほどの俊敏な動きで、教師の机の間をすり抜けていく。
ヒロも彼女の背中を追って駆け出した。
「おいっ!」
どこからか棘のある声が飛ぶ。
「職員室で走るな!」
その声は、先を行く雪に向けられたものなのか。
「それにマスクはどうした!」
怒声があまりに耳の奥に響いたため、ヒロは声の主に目を向けた。
通路側の机の向こうから、こちらに顔だけを出している中年の男がいた。白いマスクをつけた四角い顔。愛嬌があるのは、そこにある丸いピンポン球のような二つの目だけだ。
彼は、学年主任を務めている草村。昨年のヒロのクラスの担任でもあった。
草村は「おっ」と声を漏らして、意外そうな顔になった。昨年までの教え子とこんなところで顔を合わすとは――そう驚いている表情だ。
ヒロも軽く頭を下げる。ただ、足は止めない。そのまま雪の後を追いかける。
今はこの草村の事よりも、雪が向かった先が気がかりだった。
「だから、これ以上はもう……」
下井津は自席に座ったまま、困惑気味の声を漏らしている。彼はマスクをつけていない。下井津の机の上には、食べかけのサンドイッチとペットボトルが置いてある。その隣に白い不織布のマスクがあるのだから、昼食の最中だったようだ。
「でもやっぱり、あたし――」
少女の甲高い声が響く。
その言葉。それはちょうど十三秒前にヒロの耳の奥に響いた声とピタリと重なって――。
「下井津先生」
雪が声をかけた。
少女は雪の顔を見て目を丸くした。その弾みで、彼女はそのまま言葉を飲み込んだようだった。
その瞬間、これから生まれる筈の言葉は永遠に失われてしまった。
十三秒先の未来が、少しだけ変わる。
「えっと、君は……」
「三年一組の柳田雪です」
「あ、うん……柳田さん、そうだったね……」
下井津はぼんやりとした顔で答える。
状況がうまく理解できていないのもしれない。
「えっと、君もぼくになにか質問があるんだっけ……?」
「質問はありません」
「そう」
「だけど、下井津先生には言いたい事があります」
「うん?」
そこで下井津は、雪の側にいるヒロの姿を捉えた。
彼は胡乱な目をヒロに向ける。高等部の制服姿は、確かに中等部の職員室では目立ってしまう。
「早川恵から、早く離れてください」
雪の声は低く、とても静かだ。それでも。この室内の隅々まで響いていく。
「あなたは気持ちが悪いです」
そこで固まってしまったのは、下井津だけではない。ショートカットの少女もそうだ。
しかし、少女が固まったのはほんの一瞬だけだった。彼女の顔は直ぐに真っ赤になった。
少女の体が少し震えている――そうヒロが気づいた時には、もう遅かった。
バンッ、と。
乾いた破裂音が室内に響いた。
雪の体がフラリと揺れる。
「もう良い加減にしてよ!」
少女は大声で叫ぶ。
「あんたいったいなんなの! なんであたしにずっとつきまとってくんの!」
「恵の声が、聴こえたから」
雪は平然と少女を見据えて言う。
叩かれた雪の頬は、もう真っ赤になっている。
「名前で呼ぶな! キモい!」
恵と呼ばれた少女は、もう一度手を振り上げる。
「は、早川、やめなさい」
下井津が慌てて立ち上がって、恵の手を掴む。
「うっさい!」と恵は喚きながら、腕を強く振った。下井津の手は簡単に離れる。
それは恵にとっても予想外だったらしい。彼女は二、三歩ほどよろめいて、カクンと膝をついた。
学年主任の草村を含め、周囲にいた数人の教師が血相を変えて近づいてくる。
恵は直ぐに体勢を整えると、教師たちの隙間を狙って飛び出した。
「おい、ちょっと待て!」
草村の怒声が恵の背中に飛んだ。
学年主任の権威を嘲笑うように、恵は一度も振り向かずにドアの向こうまで走り去っていく。
「ぼく、彼女と話してきます」
下井津は机の上に置いた白いマスクを引っ掴んで、席を後にする。
彼は本気で教え子の事を心配したのか。それとも、上司や同僚に囲まれたこの悪夢のような状況から逃げ出したいと思ったのだろうか。
「ちょっと下井津先生! どこに行くんですか!」
草村の声を振り切って、下井津は足早に職員室のドアの向こうに消えた。

