不意に、人の気配がした。
顔を上げると、いつの間にか雪が目の前にいた。
ヒロは自席に座ったまま、彼女を見上げてしまった。小柄な雪の顔をこうして下から見てしまうのは、初めての経験だった。
「ヒロ、驚いているんですか?」
よほど驚いた顔になってしまったようだ。
「あたしがマスクをつけてないからですか?」
「いや……」
確かに雪の桜色の唇は、白い不織布で覆われていない。
この学校では、感染症対策として教員と生徒にはマスクの常時着用が義務づけられている。ただし、教師の目のある授業中はともかく、昼休みになると同級生たちは直ぐにマスクを外してしまう。
ヒロも自分のマスクは机の上に置いたままだ。
「……なんで、柳田がここにいるの?」
「ヘンですか?」
「やっぱヘンでしょ。ここ高等部だし」
ここは、高等部二年四組の教室。鏑木ヒロのクラスでもある。中高一貫校で校舎が一体となっているとは言え、中等部三年一組の柳田雪が当たり前のようにいる場所ではない。
「ヒロに話したい事があります」とこの中学生はすました顔で言う。
「それ今じゃないとダメなの?」
ヒロは周囲を伺う。席を寄せ合って弁当を食べている同級生たちが、チラリとこちらを見ている。
雪が目立つのは、中等部の制服を着ているからだけではない。
夏休み明けのこの時期は、まだ生徒は夏服のままだ。彼女は半袖の白いシャツを身につけている。剥き出しの白い腕にはもう包帯は巻かれていない。ただし、そこには痛々しいほどの赤黒い火傷の跡が刻まれている。彼女はそれを隠そうともしないのだ。
「まあ、良いけどさ」とヒロは小さくため息を吐く。「それで、なんの話?」
「友だちの話です」
へぇ、とヒロが思わず声を漏らした。
この少女に友だちなんていたのか。などと意外に思ったことが、直ぐに顔に出てしまったのかもしれない。
彼女は無表情のまま、じっとこちらを見つめている。
心なしかその視線が痛い。
「ごめんなさい」
「良いですよ。そうやってヒロが謝るって分かってました」
え、とヒロは驚く。
「ぼくの十三秒先の声を聴いた?」
自分の未来の声を、この雪に聴かれるとは思わなかった。
「あの声が聴こえなくても、それくらいなら分かります」
雪はほとんど表情を変えずに言う。
「まあ、そうだよな。ごめん……」ヒロは所在なく頭を引っ掻く。
「そんな事よりもあたしの友だちの事です」
「うん」
「彼女を助けてたいと思っています」
「うん……?」
どうも要領を得ない。脈絡もなく話を進めてしまうのは、彼女の性格なのか。
「ヒロ、どうすれば良いですか?」
彼女はグイと顔を近づけてくる。
こうも真剣な目で迫られると、弓のように背中を曲げて、仰け反ってしまう。
「いや、もっと事情を説明してくれないと理解できないって言うかさ……」
「ヒロには、あたしの十三秒先の声が聴こえませんか?」
真顔でそんな事を言う。
クラスメイトたちの囁く声が聞こえる。この中等部の少女は、どこか雰囲気がおかしいと気がついたのかもしれない。
「……ちゃんと口で説明してくれるだけで良いんだよ」
それでは、と雪はすぅっと息を吸い込んだ。
「あたしの友だちは大人の男と援助交際を続けています。とても気持ちが悪いので、それを止めさせるにはどうすれば良いですか?」
彼女がそう言い放った後、この教室にしばしの沈黙が訪れた。
顔を上げると、いつの間にか雪が目の前にいた。
ヒロは自席に座ったまま、彼女を見上げてしまった。小柄な雪の顔をこうして下から見てしまうのは、初めての経験だった。
「ヒロ、驚いているんですか?」
よほど驚いた顔になってしまったようだ。
「あたしがマスクをつけてないからですか?」
「いや……」
確かに雪の桜色の唇は、白い不織布で覆われていない。
この学校では、感染症対策として教員と生徒にはマスクの常時着用が義務づけられている。ただし、教師の目のある授業中はともかく、昼休みになると同級生たちは直ぐにマスクを外してしまう。
ヒロも自分のマスクは机の上に置いたままだ。
「……なんで、柳田がここにいるの?」
「ヘンですか?」
「やっぱヘンでしょ。ここ高等部だし」
ここは、高等部二年四組の教室。鏑木ヒロのクラスでもある。中高一貫校で校舎が一体となっているとは言え、中等部三年一組の柳田雪が当たり前のようにいる場所ではない。
「ヒロに話したい事があります」とこの中学生はすました顔で言う。
「それ今じゃないとダメなの?」
ヒロは周囲を伺う。席を寄せ合って弁当を食べている同級生たちが、チラリとこちらを見ている。
雪が目立つのは、中等部の制服を着ているからだけではない。
夏休み明けのこの時期は、まだ生徒は夏服のままだ。彼女は半袖の白いシャツを身につけている。剥き出しの白い腕にはもう包帯は巻かれていない。ただし、そこには痛々しいほどの赤黒い火傷の跡が刻まれている。彼女はそれを隠そうともしないのだ。
「まあ、良いけどさ」とヒロは小さくため息を吐く。「それで、なんの話?」
「友だちの話です」
へぇ、とヒロが思わず声を漏らした。
この少女に友だちなんていたのか。などと意外に思ったことが、直ぐに顔に出てしまったのかもしれない。
彼女は無表情のまま、じっとこちらを見つめている。
心なしかその視線が痛い。
「ごめんなさい」
「良いですよ。そうやってヒロが謝るって分かってました」
え、とヒロは驚く。
「ぼくの十三秒先の声を聴いた?」
自分の未来の声を、この雪に聴かれるとは思わなかった。
「あの声が聴こえなくても、それくらいなら分かります」
雪はほとんど表情を変えずに言う。
「まあ、そうだよな。ごめん……」ヒロは所在なく頭を引っ掻く。
「そんな事よりもあたしの友だちの事です」
「うん」
「彼女を助けてたいと思っています」
「うん……?」
どうも要領を得ない。脈絡もなく話を進めてしまうのは、彼女の性格なのか。
「ヒロ、どうすれば良いですか?」
彼女はグイと顔を近づけてくる。
こうも真剣な目で迫られると、弓のように背中を曲げて、仰け反ってしまう。
「いや、もっと事情を説明してくれないと理解できないって言うかさ……」
「ヒロには、あたしの十三秒先の声が聴こえませんか?」
真顔でそんな事を言う。
クラスメイトたちの囁く声が聞こえる。この中等部の少女は、どこか雰囲気がおかしいと気がついたのかもしれない。
「……ちゃんと口で説明してくれるだけで良いんだよ」
それでは、と雪はすぅっと息を吸い込んだ。
「あたしの友だちは大人の男と援助交際を続けています。とても気持ちが悪いので、それを止めさせるにはどうすれば良いですか?」
彼女がそう言い放った後、この教室にしばしの沈黙が訪れた。

