*
「ヒロ」
この病室は四階にある。空は見えるのだけど、午後の日当たりはそれほど良くもない。それに駐車場に面しているため、そこに出入りする車の音で騒がしい。
「なに?」
鏑木ヒロは窓から顔を出して、眼下の駐車場を眺めている。
「なにを見ていますか?」
柳田雪も隣で窓の外を見下ろしている。
「多分、柳田と同じ」
週末の外来の診察は午前中で終了する。この時間に駐車場に入ってくる車は少ない。
黒い髪をツインテールにした女の子が歩いている。彼女の目指す先は、一台の大型の黒いSUVだ。彼女の父は、その車のトランクに荷物を押し込んでいる。母は助手席のドアを開けて、娘を待っている。
この様子を見ただけでは、女の子の両親の仲が悪いとはとても想像できない。
「『愛してる』の言葉は、本当に気持ちが悪いですね」
雪は淡々と言う。その声にはほとんど感情が込められていない。
へぇ、とヒロはひとつ相槌を打つ。
「じゃあ、『好き』って言われるとどうなの?」
「反吐が出そうです」
「そうなの?」
ヒロは雪をまじまじと見る。
どうも彼女は、クミの父が娘に送った言葉が気に入らないらしい。
「本当ですよ」雪はいつも通り顔にほとんど感情を出さない。「それより、あれはやっぱり十三秒先の言葉でした」
雪はまだ眼下の女の子――魚津クミから目を離さない。
「あれって、さっきクミちゃんが言った事?」
彼女はコクリと頷く。
「あの子が『大丈夫』と言ったのは、最初にあたしの頭の中で声が聴こえてからちょうど十三秒後でした。今度はちゃんと数えましたから――」
間違いないです、と雪は続ける。
ヒロと雪の頭の中に響く未来の声。そんな奇妙なものが聴こえるようになったのは、ヒロにしても、雪にしてもつい最近の事だ。だから、どう言う原理で幻聴のような症状が二人に起こっているのか、まだなにも理解できていない。
恐らくそれは身近にいる人たちの直ぐ先の声なのだろうけど、何秒先に聴こえるものなのかなんて、ヒロは考えた事もなかった。
「たった十三秒くらい先の声が聴こえても、あまり役に立ちそうにないけど」
「そうですか?」
雪は意外そうに言う。いつも淡白な彼女にしては、これは予想外の反応だ。
雪はようやく窓の外を見るのを止めた。チラとこちらをみる。大きな鳶色の目はガラスのように透き通っている。
「その声を聴いて、柳田はなにができると思った?」
「未来が変わりました」
「クミちゃんの? でも、あれは多分……」
例えば、数日前。クミの両親たちが、病室で離婚の話を切り出そうしたのを押し留めてみた。
十三秒先の声は確定したものではない。だから、自分たちが先回りをすれば、ほんの少しは未来を変える事ができるようではあった。
だけど、ほんの少しだけだ。
《パパの事なんだけどね。ごめんね。ママは、パパと一緒にいられなくなったの》
これが、あの時、母親が娘のクミに向かって十三秒後に口にする筈の言葉だった。
だけど結局、彼女はそれを飲み込んだ。
《ママの事なんだけど……クミやパパと、もう一緒に暮らす事ができなくなったんだ》
あの父親もそんな声を飲み込んでしまった。
だけど、二人はただ言葉を飲み込んだだけ。どちらかがそれを吐き出すのは、時間の問題なのかもしれない。
結局、なにも変える事はできない。
なにも変わらない。
雪はじっとこちらを見ている。彼女の鳶色の目には小さな光が集まっている。
すると――。
《それでも、あたしはあの子の世界が変わったと思います》
雪の静かな声が、ヒロの頭の奥に響いてきた。
変わったのはクミの未来ではなく、「世界」だと彼女は言う。果たしてそこに深い意味が込められているのだろうか。
しばらく彼女と見つめ合う。
「…………」
ヒロはなにも言わない。
雪も無言のままだ。
一言でも口にしてしまえば、十三秒先が変わってしまう。そう思うと、ヒロはなにも喋れなくなってしまった。未来を――世界を変えてしまう事は、こんなにも茫漠として、不安で、怖いものなのか。
それにしても、と。
互いに見つめ合ったまま無言でいると、ずいぶんと照れ臭い。十数秒ほどがこれほど長いとは思わなかった。
ヒロは耐え切れずに、頭を引っ掻いた。
「それでも、あたしはあの子の世界が変わったと思います」
ようやく雪は唇を動かした。
十三秒が経過したのだ。
やはり彼女の声にはあまり感情が乗っていない。
ただ、今の雪は微笑を浮かべている。十三秒先の声をヒロに伝える事ができて満足していると言うよりも、「ほら、十三秒先の声が届いたでしょう?」と悪戯を成功させて喜んでいるのかもしれない。
案外この子も子供っぽいな、とヒロは思ってしまった。
「ヒロ」
この病室は四階にある。空は見えるのだけど、午後の日当たりはそれほど良くもない。それに駐車場に面しているため、そこに出入りする車の音で騒がしい。
「なに?」
鏑木ヒロは窓から顔を出して、眼下の駐車場を眺めている。
「なにを見ていますか?」
柳田雪も隣で窓の外を見下ろしている。
「多分、柳田と同じ」
週末の外来の診察は午前中で終了する。この時間に駐車場に入ってくる車は少ない。
黒い髪をツインテールにした女の子が歩いている。彼女の目指す先は、一台の大型の黒いSUVだ。彼女の父は、その車のトランクに荷物を押し込んでいる。母は助手席のドアを開けて、娘を待っている。
この様子を見ただけでは、女の子の両親の仲が悪いとはとても想像できない。
「『愛してる』の言葉は、本当に気持ちが悪いですね」
雪は淡々と言う。その声にはほとんど感情が込められていない。
へぇ、とヒロはひとつ相槌を打つ。
「じゃあ、『好き』って言われるとどうなの?」
「反吐が出そうです」
「そうなの?」
ヒロは雪をまじまじと見る。
どうも彼女は、クミの父が娘に送った言葉が気に入らないらしい。
「本当ですよ」雪はいつも通り顔にほとんど感情を出さない。「それより、あれはやっぱり十三秒先の言葉でした」
雪はまだ眼下の女の子――魚津クミから目を離さない。
「あれって、さっきクミちゃんが言った事?」
彼女はコクリと頷く。
「あの子が『大丈夫』と言ったのは、最初にあたしの頭の中で声が聴こえてからちょうど十三秒後でした。今度はちゃんと数えましたから――」
間違いないです、と雪は続ける。
ヒロと雪の頭の中に響く未来の声。そんな奇妙なものが聴こえるようになったのは、ヒロにしても、雪にしてもつい最近の事だ。だから、どう言う原理で幻聴のような症状が二人に起こっているのか、まだなにも理解できていない。
恐らくそれは身近にいる人たちの直ぐ先の声なのだろうけど、何秒先に聴こえるものなのかなんて、ヒロは考えた事もなかった。
「たった十三秒くらい先の声が聴こえても、あまり役に立ちそうにないけど」
「そうですか?」
雪は意外そうに言う。いつも淡白な彼女にしては、これは予想外の反応だ。
雪はようやく窓の外を見るのを止めた。チラとこちらをみる。大きな鳶色の目はガラスのように透き通っている。
「その声を聴いて、柳田はなにができると思った?」
「未来が変わりました」
「クミちゃんの? でも、あれは多分……」
例えば、数日前。クミの両親たちが、病室で離婚の話を切り出そうしたのを押し留めてみた。
十三秒先の声は確定したものではない。だから、自分たちが先回りをすれば、ほんの少しは未来を変える事ができるようではあった。
だけど、ほんの少しだけだ。
《パパの事なんだけどね。ごめんね。ママは、パパと一緒にいられなくなったの》
これが、あの時、母親が娘のクミに向かって十三秒後に口にする筈の言葉だった。
だけど結局、彼女はそれを飲み込んだ。
《ママの事なんだけど……クミやパパと、もう一緒に暮らす事ができなくなったんだ》
あの父親もそんな声を飲み込んでしまった。
だけど、二人はただ言葉を飲み込んだだけ。どちらかがそれを吐き出すのは、時間の問題なのかもしれない。
結局、なにも変える事はできない。
なにも変わらない。
雪はじっとこちらを見ている。彼女の鳶色の目には小さな光が集まっている。
すると――。
《それでも、あたしはあの子の世界が変わったと思います》
雪の静かな声が、ヒロの頭の奥に響いてきた。
変わったのはクミの未来ではなく、「世界」だと彼女は言う。果たしてそこに深い意味が込められているのだろうか。
しばらく彼女と見つめ合う。
「…………」
ヒロはなにも言わない。
雪も無言のままだ。
一言でも口にしてしまえば、十三秒先が変わってしまう。そう思うと、ヒロはなにも喋れなくなってしまった。未来を――世界を変えてしまう事は、こんなにも茫漠として、不安で、怖いものなのか。
それにしても、と。
互いに見つめ合ったまま無言でいると、ずいぶんと照れ臭い。十数秒ほどがこれほど長いとは思わなかった。
ヒロは耐え切れずに、頭を引っ掻いた。
「それでも、あたしはあの子の世界が変わったと思います」
ようやく雪は唇を動かした。
十三秒が経過したのだ。
やはり彼女の声にはあまり感情が乗っていない。
ただ、今の雪は微笑を浮かべている。十三秒先の声をヒロに伝える事ができて満足していると言うよりも、「ほら、十三秒先の声が届いたでしょう?」と悪戯を成功させて喜んでいるのかもしれない。
案外この子も子供っぽいな、とヒロは思ってしまった。

