豹紋もどき

       *

 一週間ほどの入院。
 意識を取り戻してから、クミは両親からそう聞いていた。
 そうして指折り数えてみると、あと二日くらいでその一週間が来てしまう。体に刻まれた火傷の状況も、少しは良くなってきているのだけど、痒みと言うのか、痛みの残滓のような感覚はまだ続いている。特に包帯を巻いた辺りの皮膚は、時折無性に引っ掻いてしまいそうになる。
 ただし、これでもう退院なのだ。両親の言葉に嘘はないだろう。
 だから、あの夜の言葉――お酒を飲んで二人が喚いていた事も、結局は真実なのだと思い知らされる。
「やあ、クミ。元気かい?」
 病院のベッドの上で聞く言葉にしては、かなり皮肉が効いている。
 恭一は白いマスクを外して、ジャケットのポケットに忍ばせる。
 娘に会う時は、ちゃんと素顔を見せたいと思ってくれたのか。それともマスクが単に煩わしくなったのか。
「うん」
 クミは、父に向かって精一杯の笑顔で答える。
「そうか。なら良かった」恭一は優しく笑う。「そう言えば、今日はクミの好きなもの買ってきたんだよ」
 彼はパイプ椅子に座ると、黒いビジネスバッグの中に手を入れる。
 父のカバンの中には物が少ない。それに綺麗に整理されている。それでも彼はもったいぶって、なかなか取り出そうとしない。ガサガサとビニールの擦れる音だけがする。
「なに買ってきたの?」
 仕事帰りの夕方。ここに来る前に立ち寄る店なら、コンビニエンスストアくらい。
「さあ、なんだと思う?」父はカバンの中に突っ込んだ手を止める。「クミの大好きなものなんだけどなぁ」
 彼は悪戯をするような笑みを浮かべる。
 そんな顔をされると、こちらまで楽しくなってしまう。とても簡単なクイズを仕掛けてくるのなら、それにつき合ってあげるのも悪くはない。そうすると、彼も喜ぶのだから。
「多分、あれ! あれだと思う!」
「あれって……それだけだとなにも分からないな」
「だから、プリン!」
 そこで父はスッとバッグの中から手を抜いた。クミの目の前にコンビニのデザートプリンが出された。フルーツとクリームでアレンジしたプリン・アラモードの新作のようだ。
「クミはすごいね。甘い匂いでもしたのかな」
 父はおどけたように言う。
 プリンのカップは、プラスチックの蓋で覆われている。蓋はテープでしっかりと留められているのだから、匂いなど漏れる筈もない。
 クミは蓋を剥がす。そこで初めてクリームの甘い香りを感じた。プラスチックのスプーンを使って、クリームのたっぷりついたプリンを口に入れる。まだ冷たい。とろりとした甘さが、口の中いっぱいに広がってくる。
「おいしい!」
 この瞬間は、嫌な事を全て忘れられる。だからクミは一刻も早くプリンを口の中に入れたかったのだ。
 この後に、父がなにを言おうとしているのか。
 それはもうクミには分かっている(・・・・・・)。
 彼がプリンを出した時から、分かってしまったのだ。
 もう一口頬張れば、これから数秒後に父の口から出てくる言葉を掻き消してくれるくらいの甘さが広がってくれるのかもしれない。
 ならば、一刻も早く。
 もう一度プリンの欠片をすくってしまわないと――。
「……なぁ、クミ」
 父が声を漏らしてしまった。
 残念だけど、手遅れ。間に合わなかった。
「ママの事なんだけど――」
 そんな父の声が聞こえた時だった。
「すみません」
 不意に声をかけられて、恭一はクミから視線を外した。
「これ落ちてました……」
 一人の少年が立っていた。無造作に伸びた漆黒の髪が、彼の目を隠している。俯くと、顔の全部が真っ黒の髪で覆われてしまうようだ。
 少年はゆっくりと顔を上げる。マスクはつけていない。細身の体。白い半袖シャツに、グレーのスラックスを合わせている。どこかの学校の制服のようだ。年の頃は、高校生くらいか。
 少年の剥き出しの腕が、恭一に向かってスッと伸びている。手にはスマートフォンが握られている。ロック画面に映っているのは、新緑の渓谷を背景にしたクミの姿。ずいぶん無邪気に笑っている。こんな顔を他人に見られるのも恥ずかしい。
 とは言え。
 このスマートフォンは紛れもなく父のものだった。
「あれ? いつの前に……」
「この部屋のドアの近くに落ちてました」
「本当? 気がつかなかったよ」恭一はスマートフォンを受け取る。「いやぁ、本当にありがとう。えっと、君は――」
「鏑木(かぶらぎ)と言います。あっちにお見舞いにきたんです」
 鏑木と名乗った少年は、廊下側のベッドを指さした。
 そこに、上体を起こしたあの少女がいた。彼女のガラス細工のような鳶色の瞳はいつ見ても綺麗だ。Tシャツだけの彼女は、相変わらず白い包帯だらけでもある。
 少女もこちらをじっと見ていた。
「妹さん? なら、君のところも大変だったね」と恭一は優しく言う。
「いえ……」少年は苦笑を浮かべた。「妹と言うか……まあ、知り合いです。ぼくの方が年上なのは間違いないですけど」
「そうなんだ」
 ならば、家族でもない少年が、どうして病床の少女を見舞いに来るのか。
 恭一は言葉を逡巡している。そこは他人が踏み込む領域ではないと考えているようだ。
「――柳田(やなぎだ)さん、そろそろ包帯を取り替えましょうか?」
 いつの間にか、通路側のベッドの側に女性の看護師がいた。
 柳田と呼ばれた少女は素直に頷いた。
「じゃあ、ぼくはこれで」
 少年は軽く手を挙げて踵を返す。
 そのまま少女のベッドに近づくと、
「あの、柳田はこれから着替えますか?」
 看護師に向かってそう尋ねた。
「そうね。肩の包帯も替えた方が良いから。それより、鏑木くん――」
「なんです?」
「マスク、どうしたの?」看護師は怪訝そうな顔になって、彼に問いかける。「院内ではマスクは外したらダメよ。それに柳田さんも」
 もちろんこの看護師はしっかりとマスクをつけている。
「すみません、つい忘れて……」
 彼はスラックスの中からクシャクシャになった白い不織布のマスクを取り出した。
 少女の方は急にパタンとベッドの上に倒れて、顔を布団で被った。自分にはマスクは必要ない。そんなポーズなのだろうか。入院患者がマスクをつけないのは、暗黙のうちに特権のようにもなっているのだけど。
 クミの近くで、父も「あ、まずいね」と呟いて、素早くスーツのポケットに手を忍ばせた。綺麗に折り畳んだ不織布のマスクを伸ばしてから、そっと口につける。
 少年がこちらをチラと見たような気がした。
「ぼくはしばらくこの部屋出てますよ。柳田が着替えるみたいだし」
「カーテン閉めるから、別にここにいても構わないわよ」
「嫌ですよ。なんか気まずいし」彼は頭を引っ掻いて言う。「下の売店で飲み物でも買ってきますから」
 少年は慌てて外に出ていく。
 看護師はクスクス笑っている。彼の慌てぶりにウケたようだ。
「じゃあ、パパもそろそろ帰るからね」
 父はビジネスバックを肩に引っ掛けて、スッと立ち上がった。
 近くで柳田――あの少女が着替えるのなら、彼もここにいるのは許されないとでも思ったのだろうか。
「パパ、今度はいつ来るの?」
「そうだね。明日はママが来るから。明後日は……」
「明後日は、またパパの番だよ」
 これまでこの夫婦は二人揃って病院に来たことがない。
「うん。でも明後日になったら、クミは退院できるんじゃないかな」
 良かったね、と父は言う。目尻に皺が寄っている。彼は笑っているのかもしれない。マスク越しでは、表情の変化は良く分からない。
 クミはなにも答えなかった。
 確かにクミを診察してくれた担当の先生は「もう直ぐ退院できるからね」と優しい声で言ってくれた。肌の奥に感じる痒みも、耐えられないほどではない。
 だけど、まだ、なにも良くなっていない。体の事ではない。父と母の事だ。
 クミは胃の腑からせせり上がってくる気持ち悪さを感じていた。
 この病室から出ると、もうおしまい。クミの世界が変わってしまうような気がしていた。少なくとも、恭一と美樹の二人の関係は変わる。その関係は、クミの世界の全てと言っても良い。
 今にでもここから逃げ出したくなるのだけど、家には帰りたくはない。クミが家に帰る事は、すなわち終わりの始まり――。
 彼女は勢い良く体をベッドの上に倒して、薄い掛け布団を口の辺りまで引っ掛けた。
 そこで目をぎゅっと瞑ったのは、泣きそうになったからだ。
「眠くなったのかい?」
 父は笑って言う。結局のところ、彼は娘の事などなに一つ理解できないのだ。
 いや。それでも――とクミは思う。
 薄く目を開いて、父の姿を追いかける。
 いつも優しい恭一。クミには滅多に怒らない。
 母の美樹は少しキツい。なにかあると目を剥いて直ぐに怒る。だけど、それはクミが怒られるような事をしたからだ。怒る美樹は、怒らない恭一よりも本当はずっと優しい。例えば、学校の体操服が破れた時。仕事でクタクタに疲れていても、美樹は夜のうちにちゃんと補綴をしてくれたのだ。
「クミは、パパの事が好きなのかい?」
「好き」彼女は迷わず答える。
「パパも同じだよ。愛してる」
 彼は目を細めて言う。穏やかな声だった。
 母は奇妙な顔をしたのだけど、父から「愛してる」と言われると、胸が温かくなる。少しくらいの不安は吹き飛んでしまいそうになる。それは魔法のような言葉なのもかもしれない。
「また来るからね。それまで良い子にしてるんだよ」
 父は手を軽く振ってから、背中を向けて立ち去っていった。

 病室の窓から見る空の色。その青はやはりそれほど深くない。雲ひとつない空にも拘らず、どこか白くぼんやりとしている。
「クミ、なにしてるの?」
 美樹が病室の入り口の近くに立って、声をかけてきた。今日の彼女はしっかりと白い不織布のマスクをつけている。
 うん、とクミは頷く。
「もう行くわよ。パパが下で待ってるから」
「分かってる」
 退院の日。今日は土曜日だった。
 結局、週末になれば二人の仕事も休みになる。それに退院となれば、病室からクミの荷物も持っていかなくてはならない。病院の会計で退院の手続きもある。だから、両親は、ずいぶん久しぶりに二人そろってこの病院までやってきたのだ。
「クミ!」
 ぼんやりし過ぎて、母が痺れを切らした。
「ママは先に行ってて」
 クミはグレーのフードパーカーに手を突っ込んで、そう言った。
「なんでよ?」
「ちょっとだけ、隣のお姉さんに挨拶したいから」
 廊下側のベッドをチラと見やる。
 そこにいる少女――柳田雪(やなぎだゆき)は、まだ退院できないようだった。よほど火傷の具合が酷いようだ。
「なら、ママは先に下の受付に行って、パパと一緒に待ってるからね。それとクミ――」
「な、なに?」
「マスクはちゃんとつけておきなさい。もう退院するんだし。下に行くと人も多いから目立つわ」
「ごめんなさい」
 クミはパーカーのポケットから白い不織布のマスクを取り出した。
 美樹は「じゃあね」と踵を返す。
 彼女の背中が小さくなってから、クミはマスクをポケットの中に戻した。やはり息苦しくなるのは嫌だ。それに口の辺りがむず痒くなるのもあまり好きではない。
 ベッドの上にいる少女に顔を向ける。もちろん彼女もマスクはつけていない。
 雪の表情はあまり変化がない。ガラス細工のような鳶色の瞳はとても綺麗だけど、あまりに透明過ぎて、そこにはなにも映っていないようにも思えてくる。
 彼女のベッドの側のパイプ椅子には、あの少年――鏑木(かぶらぎ)ヒロが座っている。クミと同じカタカナが二つだけの名前。だから直ぐに覚えてしまった。
「あ、あの柳田さん……」
「『雪』で良いですよ」と雪は抑揚のない声で答える。
 この人は顔にも声にも自分の感情を出さない。まるで機械のようだ。
「じゃあ、雪さん、それに……ヒロさんも」
 プッ、とヒロは吹き出した。
「ぼくまで下の名前で呼ぶの?」
「ご、ごめんなさい……」
「別に良いよ。こっちこそごめん」少年の黒い前髪がサラリと流れた。「君はクミちゃん――で良かったっけ?」
「は、はい! 魚津クミです!」クミは背筋を伸ばして答える。「あの……短い間でしたけど、お世話になりました!」
 勢い良く頭を下げる。後ろで結んだ髪もシュッと下に流れていく。
「あたしはあなたにお世話なんかしてません」
 顔を上げると、雪がキョトンとした顔になって言う。
 どうもこの人には、挨拶の常套句としては受け取ってもらえないようだ。
「いえ、その、でも……あの時(・・・)は本当に助かりましたから」
 だから、とクミは精一杯畏まる。
「ありがとうございました!」
 もう一度だけ頭を下げる。
 彼らには、確かに助けてもらった。だからこそお礼を言わなければならないとクミは思う。
 最初に母の美樹が「パパの事――」と口にした時。結局、その言葉を封じ込めたのは、柳田雪だったのだ。彼女が窓を閉める音で、美樹はその先の言葉を飲み込んだ。
 鏑木ヒロも同じ事をしてくれた。今度は、父の恭一が「ママの事――」と口にした時に、会話に割り込んでくれた。
 たったそれだけの事。
 だけど。
「クミちゃん」ヒロは微笑を浮かべたまま言う。「この先の事は、ぼくたちにも分からないんだ」
 クミは思わず息を飲んだ。
 あるいはクミの心の中まで覗いて、彼は全てを理解しているのかもしれない。
「わ、分かるって……どう言う意味ですか?」
「クミちゃんのパパとママが、あまり仲良くないって事」
 え、とクミは小さく声を漏らす。
「信じてもらえないかもしんないけどさ、前に会った時、クミちゃんのパパの声が聴こえたんだ。心の中の声、みたいなヤツ」
「こ、心の声……」
 そう、とヒロは言ってから、苦笑を浮かべる。
 突拍子もない事を平然と口にしている。それを自覚しているから、そんな苦い顔にもなるのだろうか。
「けど、あんまり良いニュースじゃなかったから。クミちゃん、一人っ子でしょ」
 うん、とクミは応じる。
 彼の笑みが少しだけ柔くなった。
「だったらパパとママは二人とも一緒にいてくれないと寂しいよね」
 クミはもう一度コクリと頷く。
「だからなんとかしようと思ってね。あの時、こっそりパパのバッグのポケットから、スマホを抜き取ったんだ。クミちゃんに謝るのもヘンだけど、やっぱりごめん。人の物を勝手に取っちゃうのは良くないよね」
「い、いえ、別に……」
 そこで自分に謝られてもどうしようもない。
 あのスマートフォンは父の元に戻っている。
「それに結局なんの解決にもなってないし」とヒロは諦めたように言う。
 クミはゴクリと唾を飲み込んだ。
 これから家に帰った後で、両親は自分になにを言ってくるのか。
 父も母も、家族と言う形に未練がなくなっているのなら、二人は決定的な言葉を言ってくる筈だ。それは呪いの言葉。クミにとっては最悪の未来が待っている。
 それでも――。
 思考を巡らせていると、不意に誰かの視線を感じた。
 雪がこちらを眺めている。彼女の桜色の小さな唇が小さく動いている。
 じっと目を凝らして、雪の唇を読む。

 ――十秒。
 雪は数を数えている。
 ――十一秒。
 一秒ずつ増えていく。
 これはいつまで続くのだろう。
 ――十二秒。
 雪の鳶色の瞳にクミの姿が映っている。
 まるで、その小さな宝石の中に囚われてしまったように。

「だ、大丈夫です!」

 クミは思わず大声を出してしまった。
 なにが大丈夫なのか。自分で口にした言葉の意味を改めて考える。
 恭一も美樹も、クミを嫌っている訳でもない。彼らの愛情のベクトルは、確かにこちらに向いている。クミも二人が嫌いじゃない。それどころか大好きなのだ。
 だから、大丈夫……なのか?
「そう」と雪が短く反応する。彼女はクミの事など、全く気にかけていないようだ。
「クミちゃん、頑張って」とヒロが声をかけてくれる。優しい声音だ。
 そんな二人に向かって、クミはもう一度だけ頭を下げる。
「帰ります。さようなら……」
 彼女は、一度も振り返らずに病室を後にした。