豹紋もどき

       *

 点滴の細い管が、ヒロの手首の辺りに伸びてきている。
 細い透明の管は、彼の腕に残った小さな火傷の跡をなぞっている。点滴は生理的食塩水だから、毒でも薬でもない。それでも酷い脱水症状にはこれが一番だからと先ほどまで側にいた医師は丁寧に説明してくれた。
 点滴を受けていると、上体を起こすのも厄介だ。まだ大人しくベッドの上で横になっている方が良いのだけど、なにやら手持ち無沙汰にもなってしまう。
 数十分もすれば点滴の管は外されるようだから、あと少しの我慢だ。しばらくすれば体を自由に動かせるのだろう。そう思って、首だけを左に向ける。
「目が覚めましたか?」
 その声の主が、ベッドの側にある椅子の上に座っている。
 雪がじっとこちらを眺めていた。
「柳田……いつから、そこにいたの?」
「少し前からです。ヒロは眠っていたので、ここでじっとしてました」
「起こしてくれても良かったのに」
「無理です」雪は僅かに相好を崩す。「ヒロの寝顔をずっと見てました。思ったよりもかわいかったですよ」
 彼女らしくもない冗談だった。
 それよりも、この少女はこんな風に笑うのかとヒロは驚いてしまった。
「どうかしました?」
「いや、どうも、してないけど……」ヒロは左手を使って頭を引っ掻く。「そっちは点滴してないの? 柳田も脱水症状だって聞いてたんだけど」
 ヒロと雪の二人は、あの山道で意識を失って、この総合病院に運び込まれたのだ。もちろん彼女も酷い脱水症状になっていたらしい。
「あたしは、ヒロよりも軽症です。直ぐに自分で水も飲めるようになりましたし」
 雪は簡易テーブルに置いたペットボトルを持ち上げた。彼女の白のカットソーの袖が揺れる。水色の長ズボンと合わせているのだけど、ルームウェアにしては少しサイズが大きい。
 ヒロが着ているTシャツとハーフパンツもそうだった。普段よりもワンサイズ大きい。
 そう言えば、この服はいったい誰が用意したのだろうか。
 気がつけば身につけていたのだから、緊急搬送された患者のために、この総合病院が用意したものなのかもしれない――。
「あら、ヒロも起きたのね」
 不意に、雪の背後から声がした。
 その女性の顔を目にして、ヒロの心臓が跳ね上がった。
「ヒロのその服はちょっと大き目のサイズだったみたいね。雪ちゃんのもそうだったから、感覚だけで買っちゃうと間違うのよね」
 鏑木里佳子がため息を吐きながら言う。
「あたしはこれで大丈夫です。サイズが大きい方が首の辺りが苦しくならないから楽ですし」
 雪は座ったまま、里佳子を見上げて答える。
「そう言ってもらえると、急いで買ってきた甲斐があったわ」
 里佳子の雰囲気は、ヒロが見知ったものとまるで違っている。彼女のセミロングの黒髪は、パサついた感じなどどこにもなく、とても艶やだ。
 彼女は白のシャツの上にダークグレーのスーツの上下を合わせている。足元はヒールの高い黒のパンプス。スーツの袖を少し捲って腕を見せているが、それはルーズではなく、「仕事のできる女性」のファッションの一部になっている。
 専業主婦の彼女が、ビジネススタイルに身を包んでいる。
 いや、それよりも――。
「母さん、なんで……」
 生きているのか。
 ヒロはその言葉をなんとか声に出さずに飲み込んだ。
 あの夜。温泉旅館の焼け落ちた跡に向かって、里佳子は車ごと飛び込んだのではなかったのか。
 まるでつがい蝶――ヒョウモンモドキの神域に誘われるように。
「なぁに、ヒロ。まるでオバケを見たような顔をして。自分の親なのに本当に失礼ね」
 里佳子は肩の力を抜いて、腰に軽く手を当てる。
「でも、今回はヒロがオバケにならなかったから、本当に良かったわ。それに雪ちゃんも」
「オバケって……ぼくたちが?」
 幽霊ならば、今、目の前にいる里佳子の方ではないか。
「なんで……?」
「二人とも山道で倒れてたのよ。脱水症状ってそんなに甘く見ちゃダメ。タクシーの運転手さんが見つけてくれなかったら、本当に今頃オバケになっていたかもしれないわ」
「タクシーの運転手……」
「あなたたちを駅まで乗せてくださった方よ。ヒロがなにも言わずに真っ暗な山道の方向に歩いていったのを見て、どうしようかって迷ったらしいんだけど、追いかけてくれたみたい」
 あの時、ヒロはタクシーの運転手になにも言わなかった訳ではない。焼け落ちた温泉旅館の跡地まで乗せていってくれるように、何度も運転手に頼み込んだ。だけど彼は蝶の祟りを恐れて、頑として首を縦に振ってくれなかった。そんな運転手が追いかけてくれるのだろうか。
「でもね、ヒロ」
「な、なに?」
「今回の事は、本当に反省しなさい。いくら雪ちゃんのためだからって、なにも持たずに山の中に入って行くのは良くないわ」
 雪のためとはいったいどう言うことなのか。
 チラと雪の顔を見ると、彼女は僅かに顔を横に振る。どうやら彼女も理解できないと言う合図のようだ。
 ただ、里佳子はその雪の反応を見て、気落ちしているとでも思ったのかもしれない。
「ごめんないさいね、雪ちゃん。昨日はあなたのお母さんの命日だったのよね」
 え? と雪は意外そうな声を上げる。
「あたしもうっかりしてた。仕事ばかりしてると本当にダメね。大切な事も思い出せなくなってしまうから」
 雪の母の命日。
 それは、五月の連休ではなかったか。
 あの焼け落ちた温泉旅館の中で、雪の母の遺体は見つかっていた。その遺体はあまりにも激しく損傷していた。だからこそ警察と消防による現場検証では、彼女が見つかった場所が火元だと結論づけていたのだ。彼女の側には焼け落ちたボトルが落ちており、そこにはガソリンが入っていたと見られていた。
「退院したら、あたしが車で連れていってあげる。川沿いの蝶を祀った祠の近くだったわよね。昨年のこの時期にハイキング中の柳田さんが遭難して倒れてたのは……」
 雪は目を丸くしている。
 彼女も初めて知る(・・・・・)母親の意外な真実に驚いている。
 本当に事実が変わってたのだろうか。
 それとも、この里佳子も、以前と同じように心の病に犯されて自我を失い、夢を語って幻を追いかけているのだろうか。
 それにしても、里佳子はあまりにもハキハキと喋っている。
「鏑木さん、いらしてたんですか」白衣を身につけた四十代後半の医師が室内に入ってくる。「いつもお世話になってます」
 後ろから若い女性の看護師も続いてくる。
「なに言ってるんですか、先生」里佳子は背筋を伸ばして笑いかける。「今、お世話になってるのはこちらですよ。息子と雪ちゃんを助けて頂いたのに」
 いえいえいえ、と医師は笑みを浮かべたまま恐縮する。
「鏑木さんの会社からは、また当院に対して多大な寄付を頂いたと院長からも伺っておりますので……」
 なにやら彼は揉み手になっている。
 そんな二人のやり取りを尻目に、看護師がヒロの点滴を確認してくる。
「気分はどう?」と彼女は言いながら、ほとんど空になりつつあるパックに目を向けている。
「もう大丈夫です。大分良くなった感じです」
 うん、と看護師は頷く。
「先生、もう点滴は外しても良いと思いますよ。鏑木くんはもう自分で水を飲めるみたいですから」
 医師はこちらに振り向いてから、
「そうだね。でも、念のためにここでちょっとだけ診断してみようか」
 肩に引っ掛けた聴診器に手を回した。
「わたしは入院の手続きをしてきます。先生、息子をよろしくお願いします」
 里佳子は頭を下げる。
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
 医師も深々と頭を下げる。
 そうして里佳子は病室を後にした。