*
あの夜以来、元々弱っていた里佳子の心は完全に壊れてしまった。
そんな彼女が、今、どこに向かおうとしているのか。
山間部の夜の闇は、相変わらず深い。街灯はまばらであり、アスファルトで整備された車道を歩いていても、足元は覚束ない。
ヒロは緩い登り坂を歩き続けている。しかし、高等部の制服のまま来てしまったのは失敗だった。闇に同化したような黒の革靴が、軋むようなヘンな音を出している。足先が痛む。だけど歩みを止める訳にはいかない。
後ろから、雪もついてきている。彼女もまた中等部の制服の姿で黒のローファーを履いている。これも山道には向いていないのだから、やはり足を痛めないか心配だ。
彼女までこんなところに来る必要はなかった。それどころか、雪をここまで連れてくるべきではなかったのだ。
家政婦の山田から電話があった後、ヒロは、雪には家に帰ってほしいと頼んだ。しかし彼女は決して首を縦に振らなかった。
市内から、山間部の温泉街までは鉄道が走っている。ただ、ヒロが調べた時には、その日の電車はもう一本も走っていなかった。だから彼はタクシーを使った。市内から温泉駅までは片道約七十キロ、高速道路を使えば一時間半の道のりだった。二万円ほどの出費は、出発前に駆け込んだコンビニのATMから引き出した現金で賄った。
タクシーの運転手は、温泉旅館の跡地まで行く事を嫌がった。追加料金を払うと言っても、駅前のロータリーに車をつけると言って聞く耳を持たなかった。
こんな夜更けにあの旅館の跡地に行く人はまともではない――運転手は、後部座席に座るヒロと雪に向かって何度もそう言った。
あの場所は呪われている、と彼はマスク越しのくぐもった声で言う。あの五月の火事もそうだった。あれは、強引な旅館の開発のために住処を奪われた蝶――ヒョウモンモドキの祟りによって起こってしまった。だから地元の人はあそこには絶対に近づかない。お前らもヘンな好奇心で足を踏み入れると絶対に痛い目に遭うぞ。悪い事は言わないから、本当にやめておけ――そんな忠告を、料金を受け取ってドアを閉めるまで運転手は繰り返した。
ヒロはスマートフォンを使って目指す場所を確かめる。駅前から温泉旅館の跡地まで、およそ二キロ。歩けない距離でもない。ただ、目的の場所までは登り坂が続いている。
こんな夜更けに、どうしてその旅館の跡地に行かなければならないのか。
答えは簡単だ。
その場所に、今も鏑木里佳子がいるからだ。
警察署の駐車場で、ヒロが垣間見た十三秒先の景色。その中で、里佳子はシルバーの車の中にいた。
運転席に座って、里佳子は闇の中を眺めていた。彼女の視線の先には、不思議とその暗がりの中でもぼんやりと浮かび上がる場所があった。それがあの温泉旅館の跡地だと思えたのは、ひらりひらりと舞う季節外れの二匹の蝶――つがいのヒョウモンモドキの姿が見えたからだ。
ならば、なぜ母はそこにたどり着いてしまったのか。
心が壊れたままの彼女が、自分の意思で車を運転してそこまで来たのだろうか。
あるいはこれが呪いなら、彼女は呼ばれたのかもしれない。
彼女を呼び寄せたのは、ここで命を失ったヒロの父や雪の母。それに、かつてこの神域でつがいになって飛んでいた無数のヒョウモンモドキたち。ヒョウモンモドキが、十三秒先の世界から鳴いている。泣き叫んでいる――。
ヒロの行く手は、深い闇に包まれている。その先の街灯は故障でもしているのか。そこに灯りはなかった。
ヒロたちは既に三十分くらい。この一本道を歩いている。そろそろ旅館の跡地に近づいていてもおかしくはない。それでも、それらしい場所はまだどこにも見えない。
山道の右側からは、斜面に生い茂る木々が迫ってきている。十月のこの時期でも、まだ緑の葉をつけた木々が多い。左側も草木に覆われている。ガードレールもないその先は急な勾配になっている。スマートフォンで地図を確認すると、崖の下に川が走っている。耳をすませば、水の音が微かに聞こえてくる。
彼は後ろを振り返る。
雪がヒロの気配を感じて顔を上げる。彼女の顔はとても青白く見える。頬にうっすらと汗が滲んでいた。
「柳田は……どうするの?」
馬鹿な事を訊いてしまったとヒロは思う。
「なにが、ですか……?」彼女は少し息が上がっている。
「ごめん」と反射的に謝ってしまった。
これでは会話になっていない。
雪はじっとこちらを見ている。
「疲れてない?」
駅前の自販機で、水かスポーツドリンクのペットボトルでも買っておけば良かったと今更ながら後悔する。やけに喉が乾いてきた。
「大丈夫です……」雪は口元を緩める。「おばさんが、待ってます……」
彼女は笑おうとしているのかもしれない。
だけど、あまりうまく笑えていない。
「柳田、もう一つ訊いても良い?」
彼女は小さく頷いた。
「十三秒先の母さんの声。柳田にごめんねって言ってたけど……なんで、母さんはそんな事言ってたの?」
「…………」
雪は目を下げて沈黙する。
「いや、別にどうでも良いんだけどさ……」
ヒロは思い切り唇を噛む。
――なにを認めさせようとしているのか。
雪の母は、鏑木家の家政婦として勤めていた。そして、いつからか、ヒロの父のために売春の手引きをするようになったらしい。売春の現場は温泉旅館だった。それがいつからなのかは分からない。ひょっとしたら、そんな下らない事のためだけに、父はあの旅館を再開発したのかもしれない。
最終的に、雪の母はそこで自分の娘まで父に差し出した。
――それをこの子に確認してどうする。
我ながらずいぶん姑息で、醜い姿を晒してしまったと、ヒロは思う。最も忌避すべき人間――父の面影に、自分自身の姿が重なる。
血は争えないと言うことか。もはや自分を呪い殺したくもなる。
雪は顔を上げる。鳶色の瞳が揺れているのは、涙がそこに溜まっているからだろうか。
感情をほとんど表情に出さない彼女が、泣きそうになっている。なにかを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
その時だった。
《ヒロ……さようなら》
十三秒先の声。
里佳子の声が頭の中に響いた。強い意思の込められた声。まるで、心などつゆほども壊れていないかのような声だった。
同時に、ヒロの目の前に十三秒先の景色が広がった。
里佳子のいるセカイ。
彼女の目の前には、やはり闇が広がっている。里佳子はハンドルを手にしている。車のエンジンを入れる。鏑木家のハッチバックタイプの車は、ハイブリッドでもある。電動モーターが、音もなく車を動かし始める。進行方向は崖の下。やがて車は、ストンとその深い闇の中へ落ちる。バキバキと音を立てて周囲の木々を薙ぎ倒し、突き出た岩にフロントをぶつけて反転する。飛び出したエアバッグが、シートベルトをつけていない里佳子の体を後ろに跳ね返す。彼女の頭や顔から噴き出た血が、無数の赤黒い粒となって車内に飛び散っている。里佳子の意識はどこにあるのか。ただ、彼女の見開いた目は、エアバックのその先――ひび割れたフロントガラスの向こう側に浮かんだ二つの光を捉えている。あれは、つがいの蝶――。
「ヒロ!」
雪が駆け出した。彼女はヒロを追い越していく。
あの細身の体に、まだ全速力で走れるほどの体力が残っていたのか。ヒロは唖然として、雪の背中を見やる。しかし、彼にはそこで呆けてしまう時間はない。あの里佳子のセカイにたどり着くためには、たった十三秒しか残されていないのだ。
ヒロも足に力を込め、腕を懸命に振って走り始める。雪の小さな背中を懸命に追いかける。
雪の行く先。そこにぼんやりとした二つの光が見える。あれは街灯の光ではない。それよりも不確かなもの。ふらりふらりと飛ぶ様は、まるで蝶のようだ。
二匹の蝶――つがいのヒョウモンモドキが闇の中を飛んでいる。
その先にあるのは、十三秒先の景色。
ヒロは懸命に走る。雪の小さな背中が目の前に迫ってくる。雪はあの景色を見る事はできない。だから彼女では二匹の蝶に届かない。
それでも、ヒロならば蝶に手が届くのだ。
ヒロは走る。
いつの間にか雪の姿が消えていた。彼女に追いついて、追い越してしまったのか。それも良く分からない。
蝶はもう直ぐそこにいる。黒とオレンジの羽の模様がとても鮮やかだ。しかし、二匹の蝶の羽は痛んでいる。所々で模様が滲んだり、小さな穴が空いていたりする。まるで、誰かの靴底で踏み躙られたようだ。良くもこんなに傷んだ羽で飛んでいられる。
ああ、とヒロは思い当たった。
これはかつて父に踏み躙られたつがいの蝶ではないか。
この二匹は十三秒先の景色の中で生きている。
ならばこの醜い現実で、二匹分の犠牲が必要になる。
一匹分の犠牲もう足りた。五月の旅館を飲み込む業火に焼かれて、ヒロの父は死んだ。彼は灰になって、自分の罪を償ったのだ。
だけど、つがいになるのだから、もう一匹分の犠牲も必要だ。
それが、鏑木里佳子。
彼女はこの蝶たちの鳴き声――十三秒先の声に導かれて、ここまで来たのかもしれない。
ヒロの頬に、蝶たちが触れる。僅かな温もりを感じたのは、果たして気のせいか。ヒロは蝶にも追いついた。
この先にいるのは、母の里佳子だけだ。闇の先にシルバーの車が見えた。ヘッドライトが光っている。急勾配にライトを向けたまま、車は音もなく動いている。
ヒロは必死で手を伸ばす。もう少しであの車に触れる事ができるのだ。あの中に里佳子はいる。あと少し。ほんの少しだけ手を伸ばせば車に触れられる。そうして、この醜い現実を変えられる。変えてみせる。
いや。そうじゃない。
変えるのはでない。ここから逃げるのだ。
家政婦が自分の娘を売り、父がそれを買う。母が全てを焼き払いながら、心を壊してしまう。この狂った現実には、もうなんの価値もない。
ヒロはもう知っている。何度も目にしている。
十三秒先には、この現実とは異なる、それでも良く似た別の景色がある事を。
目に映る十三秒先の景色はこれから起こり得る未来などではない。あれは、ほんの十三秒先にズレてるだけの本当の、あるべきセカイ。
この醜い現実と並行して存在しているもの。
並行するセカイ。
十三秒先のズレが見えるヒロだからこそ、この醜い現実からそのセカイの中へ逃げ出せる。
だから、早く自分もそこへ連れていってほしい――そう願って、ヒロは手を目一杯伸ばした。その手はシルバーの車に吸い寄せられる。彼の体もその車と一体となり、中にいる里佳子と共に、崖下まで落ちていく。目の前に迫ってくるのは、焼け落ちた温泉旅館の跡。無数のつがいの蝶が集まり、踊り、そして命をつなげたアザミの草地が広がってくる――。
「待ってよ!」
雪の叫び声が聞こえた。
彼女の姿は見えない。どこで叫んでいるのだろうか。
それでもヒロの体がグイと後ろに引かれる。奇妙な感覚だった。
雪は十三秒先の景色の中には行けない。あのセカイが見えていないのだから、当然だろう。
ヒロは目の前の景色から目を離さない。そこには、既にいくつかの見慣れた情景が広がっている。
病室で魚津クミがベッドの上で眠っている。彼女の火傷はまだ癒えていない。側にいるのはクミの両親だ。魚津恭一が気落ちしている美樹の肩を優しく抱いている。この夫婦の仲はとても良さそうだ。
中等部の教室。下井津悠が教鞭を取っている。中等部三年一組の生徒たちは彼の授業を真面目に聞いていない。それは早川恵も同じようで、彼女は隣席の女子とコソコソと無駄話を楽しんでいる。恵の目に下井津は映っていない。下井津にしても、彼女はまるで可愛げのない教え子の一人とでも思っているようだった。
バレエ教室に、さつきがいる。ステップを踏んで、足を広げて跳躍する。グラン・パ・ドゥ・シャ。誰かに見せつけるように、何度も飛ぶ。その姿はとても美しい。やがてさつきは手を振った。中年の男――さつきの父が手を振り返している。父は自分の娘だけを見ている。
ヒロの家に家政婦の柳田がいる。昔馴染みの彼女はもう四十過ぎだろうか。まだ独身で、子供はいないと聞いている。柳田は母の里佳子に尋ねている。今日は風邪気味で体調がすぐれないので、早めに切り上げても良いですか。彼女は恐縮して頭を下げる。それは心配ね、と里佳子は言う。じゃあ、これ持って帰ってね。里佳子は、父が知り合いから貰ってきたメロンの入った紙袋を柳田に渡している。
柳田が家を去ると、ヒロの父が帰ってくる。良い匂いだね、と彼は里佳子に言う。柳田さんと一緒に作ってみたの。特製のシチューよ。ヒロはまだ帰ってきていないけど、あなたは食べる? と母が訊く。ヒロが帰ってからで良いよ。一緒の方が夕食はおいしいからさ、と父は優しく笑う。
十三秒先には、そんな景色がある。
そこに近づく事ができるのなら、自分は救われるのか。幸せになれるのだろうか。
その先に行こうと、ヒロは目一杯手を伸ばそうとする。ただ、思ったよりも自分の腕が伸びない。
どうして、と考える。
ああ、これは当たり前だ。
答えが分かってホッとする。
この景色はやはりヘンなのだ。なぜならここには、あの子の姿がどうしても見つけられないから。だからそこに手を伸ばす事をためらってしまうのだ。あの子がいないセカイは、どうしても嫌だと思ってしまった。
その景色の中では、どうしても見つけられない人。
十三秒先のセカイに入れない人。
それでも、ヒロがずっと側にいてほしいと願う人。
――それは、誰だ……?
「なんで行っちゃうの!」
腕が痺れる。体が動かない。
伸ばした筈のヒロの腕は、いつの間にか誰かに掴まれていた。
周囲の景色が変わる。
ここは、まだ暗闇の中。だけど目の前には、雪の白い顔が浮かんでいる。目が真っ赤になっている。その目から、涙が溢れ出している。そんな雪が、必死になってヒロの腕を掴んでいる。
「行かないで!」
「なんで……」
雪はこんな酷い現実で生きていく事を選ぶのか。
「行っちゃヤダ! 絶対ヤダ!」雪は目一杯の力を込めて、ヒロの腕を掴んでいる。「ここにいてよ!」
ヒロの体がふらりと揺れる。もう足に力が入らない。そのまま彼は雪に自分の体を預けてしまった。
雪にしても限界だったらしい。やがて彼女は膝から崩れ落ちる。雪はヒロを胸に抱え込むようにアスファルトの上に転がった。不思議とヒロは痛みを感じない。こんなにも小さな雪の体が、自分を守ってくれたのだろうか。
「なんで……」ヒロは雪の胸の中で、再び彼女に問いかけた。
雪はこの現実を選ぶのか。残酷な現実は、彼女から全てを奪い去って、絶望しか残さない。どうして彼女はそんな現実にしがみついてしまうのか。
「変わったと思ったのに……」
雪の声が頭の上から聴こえてくる。不思議な感覚だった。
これは十三秒先の声にも似ている。
だけど、あの頭の中に響く奇妙な声とは決定的に違う。
ドクン、ドクン、ドクン、と雪の心臓が鳴っている。とても気持ちの良いリズムで。
「ヒロがいたから……変われたのに……」
なにが、変わったの?
ヒロは頭の中で問いかける。もう声を出す気力もない。
「あたしが……」
まるでヒロの声が聴こえたように、雪はそう答えた。
頬が温かい。雪の胸から伝わるこの温かさは、胃の腑を抉るような恐怖を和らげてくれる。そしてとても良い匂いがする。優しい匂いだ。その匂いに包まれていると、不安が消えていくようだった。安心したせいか、意識が朧げになっていく。
「ヒロとここにいたい。だから、お願い……」雪の体が揺れる。「あたしの全部、あげるから……。ヒロ、あっちに行かないでよ……」
彼女はまだ泣いているのだろうか。「全部、あげるから……」と彼女は鼻声になって繰り返している。
雪からはもう十分なくらい温もりを貰っていた。そんな彼女の全部を貰っても、ヒロにはなにも返せない。逃げ出すしかできなかった自分は贖罪さえもままならない。今の自分には一ドルの価値もない。
それにしても、とヒロはまどろみの中で思う。
これはどこかで聞いた事のある話だ。それがなんなのかは、直ぐには思い出せないのだけど――。
意識が消える前に、ああ、とヒロはようやく思い当たった。
まるで、そう。
ドル・オークション・ゲーム。
なにも持たないヒロを手に入れるために、雪はこれまでも、そしてこれからも、それ以上の価値――彼女の存在の全てと未来を注ぎ込むのだろうか。
あの夜以来、元々弱っていた里佳子の心は完全に壊れてしまった。
そんな彼女が、今、どこに向かおうとしているのか。
山間部の夜の闇は、相変わらず深い。街灯はまばらであり、アスファルトで整備された車道を歩いていても、足元は覚束ない。
ヒロは緩い登り坂を歩き続けている。しかし、高等部の制服のまま来てしまったのは失敗だった。闇に同化したような黒の革靴が、軋むようなヘンな音を出している。足先が痛む。だけど歩みを止める訳にはいかない。
後ろから、雪もついてきている。彼女もまた中等部の制服の姿で黒のローファーを履いている。これも山道には向いていないのだから、やはり足を痛めないか心配だ。
彼女までこんなところに来る必要はなかった。それどころか、雪をここまで連れてくるべきではなかったのだ。
家政婦の山田から電話があった後、ヒロは、雪には家に帰ってほしいと頼んだ。しかし彼女は決して首を縦に振らなかった。
市内から、山間部の温泉街までは鉄道が走っている。ただ、ヒロが調べた時には、その日の電車はもう一本も走っていなかった。だから彼はタクシーを使った。市内から温泉駅までは片道約七十キロ、高速道路を使えば一時間半の道のりだった。二万円ほどの出費は、出発前に駆け込んだコンビニのATMから引き出した現金で賄った。
タクシーの運転手は、温泉旅館の跡地まで行く事を嫌がった。追加料金を払うと言っても、駅前のロータリーに車をつけると言って聞く耳を持たなかった。
こんな夜更けにあの旅館の跡地に行く人はまともではない――運転手は、後部座席に座るヒロと雪に向かって何度もそう言った。
あの場所は呪われている、と彼はマスク越しのくぐもった声で言う。あの五月の火事もそうだった。あれは、強引な旅館の開発のために住処を奪われた蝶――ヒョウモンモドキの祟りによって起こってしまった。だから地元の人はあそこには絶対に近づかない。お前らもヘンな好奇心で足を踏み入れると絶対に痛い目に遭うぞ。悪い事は言わないから、本当にやめておけ――そんな忠告を、料金を受け取ってドアを閉めるまで運転手は繰り返した。
ヒロはスマートフォンを使って目指す場所を確かめる。駅前から温泉旅館の跡地まで、およそ二キロ。歩けない距離でもない。ただ、目的の場所までは登り坂が続いている。
こんな夜更けに、どうしてその旅館の跡地に行かなければならないのか。
答えは簡単だ。
その場所に、今も鏑木里佳子がいるからだ。
警察署の駐車場で、ヒロが垣間見た十三秒先の景色。その中で、里佳子はシルバーの車の中にいた。
運転席に座って、里佳子は闇の中を眺めていた。彼女の視線の先には、不思議とその暗がりの中でもぼんやりと浮かび上がる場所があった。それがあの温泉旅館の跡地だと思えたのは、ひらりひらりと舞う季節外れの二匹の蝶――つがいのヒョウモンモドキの姿が見えたからだ。
ならば、なぜ母はそこにたどり着いてしまったのか。
心が壊れたままの彼女が、自分の意思で車を運転してそこまで来たのだろうか。
あるいはこれが呪いなら、彼女は呼ばれたのかもしれない。
彼女を呼び寄せたのは、ここで命を失ったヒロの父や雪の母。それに、かつてこの神域でつがいになって飛んでいた無数のヒョウモンモドキたち。ヒョウモンモドキが、十三秒先の世界から鳴いている。泣き叫んでいる――。
ヒロの行く手は、深い闇に包まれている。その先の街灯は故障でもしているのか。そこに灯りはなかった。
ヒロたちは既に三十分くらい。この一本道を歩いている。そろそろ旅館の跡地に近づいていてもおかしくはない。それでも、それらしい場所はまだどこにも見えない。
山道の右側からは、斜面に生い茂る木々が迫ってきている。十月のこの時期でも、まだ緑の葉をつけた木々が多い。左側も草木に覆われている。ガードレールもないその先は急な勾配になっている。スマートフォンで地図を確認すると、崖の下に川が走っている。耳をすませば、水の音が微かに聞こえてくる。
彼は後ろを振り返る。
雪がヒロの気配を感じて顔を上げる。彼女の顔はとても青白く見える。頬にうっすらと汗が滲んでいた。
「柳田は……どうするの?」
馬鹿な事を訊いてしまったとヒロは思う。
「なにが、ですか……?」彼女は少し息が上がっている。
「ごめん」と反射的に謝ってしまった。
これでは会話になっていない。
雪はじっとこちらを見ている。
「疲れてない?」
駅前の自販機で、水かスポーツドリンクのペットボトルでも買っておけば良かったと今更ながら後悔する。やけに喉が乾いてきた。
「大丈夫です……」雪は口元を緩める。「おばさんが、待ってます……」
彼女は笑おうとしているのかもしれない。
だけど、あまりうまく笑えていない。
「柳田、もう一つ訊いても良い?」
彼女は小さく頷いた。
「十三秒先の母さんの声。柳田にごめんねって言ってたけど……なんで、母さんはそんな事言ってたの?」
「…………」
雪は目を下げて沈黙する。
「いや、別にどうでも良いんだけどさ……」
ヒロは思い切り唇を噛む。
――なにを認めさせようとしているのか。
雪の母は、鏑木家の家政婦として勤めていた。そして、いつからか、ヒロの父のために売春の手引きをするようになったらしい。売春の現場は温泉旅館だった。それがいつからなのかは分からない。ひょっとしたら、そんな下らない事のためだけに、父はあの旅館を再開発したのかもしれない。
最終的に、雪の母はそこで自分の娘まで父に差し出した。
――それをこの子に確認してどうする。
我ながらずいぶん姑息で、醜い姿を晒してしまったと、ヒロは思う。最も忌避すべき人間――父の面影に、自分自身の姿が重なる。
血は争えないと言うことか。もはや自分を呪い殺したくもなる。
雪は顔を上げる。鳶色の瞳が揺れているのは、涙がそこに溜まっているからだろうか。
感情をほとんど表情に出さない彼女が、泣きそうになっている。なにかを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
その時だった。
《ヒロ……さようなら》
十三秒先の声。
里佳子の声が頭の中に響いた。強い意思の込められた声。まるで、心などつゆほども壊れていないかのような声だった。
同時に、ヒロの目の前に十三秒先の景色が広がった。
里佳子のいるセカイ。
彼女の目の前には、やはり闇が広がっている。里佳子はハンドルを手にしている。車のエンジンを入れる。鏑木家のハッチバックタイプの車は、ハイブリッドでもある。電動モーターが、音もなく車を動かし始める。進行方向は崖の下。やがて車は、ストンとその深い闇の中へ落ちる。バキバキと音を立てて周囲の木々を薙ぎ倒し、突き出た岩にフロントをぶつけて反転する。飛び出したエアバッグが、シートベルトをつけていない里佳子の体を後ろに跳ね返す。彼女の頭や顔から噴き出た血が、無数の赤黒い粒となって車内に飛び散っている。里佳子の意識はどこにあるのか。ただ、彼女の見開いた目は、エアバックのその先――ひび割れたフロントガラスの向こう側に浮かんだ二つの光を捉えている。あれは、つがいの蝶――。
「ヒロ!」
雪が駆け出した。彼女はヒロを追い越していく。
あの細身の体に、まだ全速力で走れるほどの体力が残っていたのか。ヒロは唖然として、雪の背中を見やる。しかし、彼にはそこで呆けてしまう時間はない。あの里佳子のセカイにたどり着くためには、たった十三秒しか残されていないのだ。
ヒロも足に力を込め、腕を懸命に振って走り始める。雪の小さな背中を懸命に追いかける。
雪の行く先。そこにぼんやりとした二つの光が見える。あれは街灯の光ではない。それよりも不確かなもの。ふらりふらりと飛ぶ様は、まるで蝶のようだ。
二匹の蝶――つがいのヒョウモンモドキが闇の中を飛んでいる。
その先にあるのは、十三秒先の景色。
ヒロは懸命に走る。雪の小さな背中が目の前に迫ってくる。雪はあの景色を見る事はできない。だから彼女では二匹の蝶に届かない。
それでも、ヒロならば蝶に手が届くのだ。
ヒロは走る。
いつの間にか雪の姿が消えていた。彼女に追いついて、追い越してしまったのか。それも良く分からない。
蝶はもう直ぐそこにいる。黒とオレンジの羽の模様がとても鮮やかだ。しかし、二匹の蝶の羽は痛んでいる。所々で模様が滲んだり、小さな穴が空いていたりする。まるで、誰かの靴底で踏み躙られたようだ。良くもこんなに傷んだ羽で飛んでいられる。
ああ、とヒロは思い当たった。
これはかつて父に踏み躙られたつがいの蝶ではないか。
この二匹は十三秒先の景色の中で生きている。
ならばこの醜い現実で、二匹分の犠牲が必要になる。
一匹分の犠牲もう足りた。五月の旅館を飲み込む業火に焼かれて、ヒロの父は死んだ。彼は灰になって、自分の罪を償ったのだ。
だけど、つがいになるのだから、もう一匹分の犠牲も必要だ。
それが、鏑木里佳子。
彼女はこの蝶たちの鳴き声――十三秒先の声に導かれて、ここまで来たのかもしれない。
ヒロの頬に、蝶たちが触れる。僅かな温もりを感じたのは、果たして気のせいか。ヒロは蝶にも追いついた。
この先にいるのは、母の里佳子だけだ。闇の先にシルバーの車が見えた。ヘッドライトが光っている。急勾配にライトを向けたまま、車は音もなく動いている。
ヒロは必死で手を伸ばす。もう少しであの車に触れる事ができるのだ。あの中に里佳子はいる。あと少し。ほんの少しだけ手を伸ばせば車に触れられる。そうして、この醜い現実を変えられる。変えてみせる。
いや。そうじゃない。
変えるのはでない。ここから逃げるのだ。
家政婦が自分の娘を売り、父がそれを買う。母が全てを焼き払いながら、心を壊してしまう。この狂った現実には、もうなんの価値もない。
ヒロはもう知っている。何度も目にしている。
十三秒先には、この現実とは異なる、それでも良く似た別の景色がある事を。
目に映る十三秒先の景色はこれから起こり得る未来などではない。あれは、ほんの十三秒先にズレてるだけの本当の、あるべきセカイ。
この醜い現実と並行して存在しているもの。
並行するセカイ。
十三秒先のズレが見えるヒロだからこそ、この醜い現実からそのセカイの中へ逃げ出せる。
だから、早く自分もそこへ連れていってほしい――そう願って、ヒロは手を目一杯伸ばした。その手はシルバーの車に吸い寄せられる。彼の体もその車と一体となり、中にいる里佳子と共に、崖下まで落ちていく。目の前に迫ってくるのは、焼け落ちた温泉旅館の跡。無数のつがいの蝶が集まり、踊り、そして命をつなげたアザミの草地が広がってくる――。
「待ってよ!」
雪の叫び声が聞こえた。
彼女の姿は見えない。どこで叫んでいるのだろうか。
それでもヒロの体がグイと後ろに引かれる。奇妙な感覚だった。
雪は十三秒先の景色の中には行けない。あのセカイが見えていないのだから、当然だろう。
ヒロは目の前の景色から目を離さない。そこには、既にいくつかの見慣れた情景が広がっている。
病室で魚津クミがベッドの上で眠っている。彼女の火傷はまだ癒えていない。側にいるのはクミの両親だ。魚津恭一が気落ちしている美樹の肩を優しく抱いている。この夫婦の仲はとても良さそうだ。
中等部の教室。下井津悠が教鞭を取っている。中等部三年一組の生徒たちは彼の授業を真面目に聞いていない。それは早川恵も同じようで、彼女は隣席の女子とコソコソと無駄話を楽しんでいる。恵の目に下井津は映っていない。下井津にしても、彼女はまるで可愛げのない教え子の一人とでも思っているようだった。
バレエ教室に、さつきがいる。ステップを踏んで、足を広げて跳躍する。グラン・パ・ドゥ・シャ。誰かに見せつけるように、何度も飛ぶ。その姿はとても美しい。やがてさつきは手を振った。中年の男――さつきの父が手を振り返している。父は自分の娘だけを見ている。
ヒロの家に家政婦の柳田がいる。昔馴染みの彼女はもう四十過ぎだろうか。まだ独身で、子供はいないと聞いている。柳田は母の里佳子に尋ねている。今日は風邪気味で体調がすぐれないので、早めに切り上げても良いですか。彼女は恐縮して頭を下げる。それは心配ね、と里佳子は言う。じゃあ、これ持って帰ってね。里佳子は、父が知り合いから貰ってきたメロンの入った紙袋を柳田に渡している。
柳田が家を去ると、ヒロの父が帰ってくる。良い匂いだね、と彼は里佳子に言う。柳田さんと一緒に作ってみたの。特製のシチューよ。ヒロはまだ帰ってきていないけど、あなたは食べる? と母が訊く。ヒロが帰ってからで良いよ。一緒の方が夕食はおいしいからさ、と父は優しく笑う。
十三秒先には、そんな景色がある。
そこに近づく事ができるのなら、自分は救われるのか。幸せになれるのだろうか。
その先に行こうと、ヒロは目一杯手を伸ばそうとする。ただ、思ったよりも自分の腕が伸びない。
どうして、と考える。
ああ、これは当たり前だ。
答えが分かってホッとする。
この景色はやはりヘンなのだ。なぜならここには、あの子の姿がどうしても見つけられないから。だからそこに手を伸ばす事をためらってしまうのだ。あの子がいないセカイは、どうしても嫌だと思ってしまった。
その景色の中では、どうしても見つけられない人。
十三秒先のセカイに入れない人。
それでも、ヒロがずっと側にいてほしいと願う人。
――それは、誰だ……?
「なんで行っちゃうの!」
腕が痺れる。体が動かない。
伸ばした筈のヒロの腕は、いつの間にか誰かに掴まれていた。
周囲の景色が変わる。
ここは、まだ暗闇の中。だけど目の前には、雪の白い顔が浮かんでいる。目が真っ赤になっている。その目から、涙が溢れ出している。そんな雪が、必死になってヒロの腕を掴んでいる。
「行かないで!」
「なんで……」
雪はこんな酷い現実で生きていく事を選ぶのか。
「行っちゃヤダ! 絶対ヤダ!」雪は目一杯の力を込めて、ヒロの腕を掴んでいる。「ここにいてよ!」
ヒロの体がふらりと揺れる。もう足に力が入らない。そのまま彼は雪に自分の体を預けてしまった。
雪にしても限界だったらしい。やがて彼女は膝から崩れ落ちる。雪はヒロを胸に抱え込むようにアスファルトの上に転がった。不思議とヒロは痛みを感じない。こんなにも小さな雪の体が、自分を守ってくれたのだろうか。
「なんで……」ヒロは雪の胸の中で、再び彼女に問いかけた。
雪はこの現実を選ぶのか。残酷な現実は、彼女から全てを奪い去って、絶望しか残さない。どうして彼女はそんな現実にしがみついてしまうのか。
「変わったと思ったのに……」
雪の声が頭の上から聴こえてくる。不思議な感覚だった。
これは十三秒先の声にも似ている。
だけど、あの頭の中に響く奇妙な声とは決定的に違う。
ドクン、ドクン、ドクン、と雪の心臓が鳴っている。とても気持ちの良いリズムで。
「ヒロがいたから……変われたのに……」
なにが、変わったの?
ヒロは頭の中で問いかける。もう声を出す気力もない。
「あたしが……」
まるでヒロの声が聴こえたように、雪はそう答えた。
頬が温かい。雪の胸から伝わるこの温かさは、胃の腑を抉るような恐怖を和らげてくれる。そしてとても良い匂いがする。優しい匂いだ。その匂いに包まれていると、不安が消えていくようだった。安心したせいか、意識が朧げになっていく。
「ヒロとここにいたい。だから、お願い……」雪の体が揺れる。「あたしの全部、あげるから……。ヒロ、あっちに行かないでよ……」
彼女はまだ泣いているのだろうか。「全部、あげるから……」と彼女は鼻声になって繰り返している。
雪からはもう十分なくらい温もりを貰っていた。そんな彼女の全部を貰っても、ヒロにはなにも返せない。逃げ出すしかできなかった自分は贖罪さえもままならない。今の自分には一ドルの価値もない。
それにしても、とヒロはまどろみの中で思う。
これはどこかで聞いた事のある話だ。それがなんなのかは、直ぐには思い出せないのだけど――。
意識が消える前に、ああ、とヒロはようやく思い当たった。
まるで、そう。
ドル・オークション・ゲーム。
なにも持たないヒロを手に入れるために、雪はこれまでも、そしてこれからも、それ以上の価値――彼女の存在の全てと未来を注ぎ込むのだろうか。

