豹紋もどき

       *

 蝶――ヒョウモンモドキの鳴き声が響く、十三秒先のセカイ。
 鏑木ヒロは、あの現象の事をそう呼んでいる。
 それは地球上を覆う全ての領域などではない。ヒロにとって、それはせいぜい自分の目が届いて、触る事のできる狭い範囲の現実だった。彼はそんな小さなセカイを変えるための実験を繰り返している。
 ただ、それを実験と呼べるのかどうか。
 本気で考えると、自分でもバカらしくなってしまう。だから、なるべく根本的な疑問については考えない方が良い。
 根本的な疑問。
 例えば、それは――。
 なぜ、ヒロはヒョウモンモドキが鳴くセカイを知る事ができたのか、とか。
 そして、どうしてそのセカイを変える事ができると思ってしまったのか、とか。
 いや。後者の疑問はそれほど根本的なものでもない。答えなら直ぐに出せる。もちろん、自分だけが十三秒先のセカイ――未知の景色を目にしてしまったから、としか言いようがない。
 それに、この二つの疑問はつながっているのだ。あるいはコインの裏と面のような関係なのかもしれない。
 だから、やはり考えないようにしたところで、いつまでも心の中にモヤモヤと残ってしまう疑問はただ一つだけだ。
 どうして十三秒先の景色が、こうも鮮明に見えるのか。
 柳田雪にも、蝶の鳴き声が聴こえているのだけど、決して景色そのものが見えている訳ではない。詰まるところ、彼女はこの症状に見舞われた時――それが幸か不幸か、良く分からないのだけど――ヒロよりも制限を受けているようだった。
 そんな制限があるからかもしれない。
 雪は十三秒先の声を聴こえるようになった理由をあれこれ考えていない。そもそも彼女は感情を表に出す事が少ないのだから、余計にそう思えてしまう。
 恐らく、十三秒先の声が聴こえても、彼女はそれほど困る事はなかったのだろう。あの声は、頭の中で大音量のまま響き渡っているのではない。だから簡単に無視する事もできる。
 耳をすませば、確かに声が聴こえる頻度は高くなる。だけど、聴くのが嫌ならそうしなければ良いだけだ。その意味では、やはり十三秒先に触れるための制限がある事で、彼女は幸せなのかもしれない。
 ヒロにしても、初めはそうだった。
 どうして十三秒先のセカイが頭の中に広がっていくのか。どう考えても訳の分からない事象の原因究明にあれこれ悩むのは面倒だった。それにこれは未知の怪奇現象でもある。茫漠とした恐怖はいつも心の片隅にこびりついていた。
 だからこそ、と言えば良いのか。
 いつしかヒロは、不意に意識の中に入り込んでくる映像と音の濁流を無視し続ける事ができなくなっていた。
 流石に四六時中、頭の中でそんな映像が再生される訳ではなかったのだけど、一度、その景色を目にしてしまうと――それも、身近な人がいる景色なら――そこに意識を集中しない訳にはいかなくなった。
 だからこそ、ヒロはこの現象を使って、どうすれば残酷な現実から逃げられるのかを考え始めたのだ。
 そう。残酷な現実。
 ヒロにとっての現実は、本当に生きていく価値のないものに変わってしまったのだ。変わったのは、ちょうどこの十三秒先のセカイを手に入れた日でもある。あるいはこれが最低な現実を知ってしまった呪いであり、代償だったのかもしれない。
 もちろん彼は呪いを受けている。
 なぜなら、その呪いの元凶は、彼の家族――父親だったから。
 父は起業家としても、経営者としてももちろん優秀だった。彼が立ち上げた顧客管理の情報処理サービスは、今も数多くの中小企業で利用されており、評判も悪くない。そのサービスは、この分野の先駆的な存在として全国に知られている。だからこそ、父はこの地域では比類ないほどの富を築いたのだ。
 そして、彼はそんな莫大な資産を、自分の欲望を満たすためだけに使っていた。
 リゾート開発会社への資本参入。それはビジネスの多角化による安定収益の確保や、地域経済への貢献を念頭に置いて行ったもの――そう彼は高らかに宣伝していた。
 だけど、それは彼の本心ではなかった。まやかしのような文句で真実を覆い隠してしまうのだから、父はやはり一流のビジネスマンだったのかもしれない。
 そんな一流のビジネスマンは、ヒロにとっては厄災そのものでしかなかった。
 彼が再開発として意欲的に取り組んだリゾート施設の一つ――それが、山間の温泉旅館だ。
 その場所で起こった悲劇が、鏑木ヒロの現実を完全に変えてしまった。
 五月の連休の最中。父は珍しく家族で温泉でも行こうと提案した。その時、家族三人で訪れたのは、父の会社が再開発を行った温泉旅館だった。
 深夜の旅館。夜の闇は、かなり深い。
 客室で寝ていた筈のヒロは、いつの間にかその闇の中に紛れて歩いていた。ぼんやりとしたまま、気がつけば建物の外に出ていた。
 なにかに呼ばれたのだとしたら、それは人ではないような気がした。
 ふわりと宙を漂うオレンジと黒の模様の羽を持った生き物――蝶に導かれて歩いていた。そんな記憶が頭の片隅残っているのは、どう言う訳だろうか。
 夢でも見ているのかもしれない。
 目の前を飛ぶ蝶が囁くように鳴いている。あるいは泣いている。いずれにせよ、蝶は悲しみの声を上げているように思えたのだから、現実ではあり得ない光景のようだった。
 その時は、ずいぶん頭がぼんやりとしていた。
 しかし、次の瞬間、頭の中を覆っていた靄のようなものが一気に取り払われた。奇妙な景色が目の前に現れたからだ。
 最初は、音が全くない景色だった。声すらも聴こえない。
 そこには良く見知った人いた。
 父がベッドの上にいた。汗をかいている。それも背中からだ。
 これはヘンだ。笑ってしまいそうなくらいに滑稽な姿だった。とてもまともな大人には見えない。
 それだけなら、ヒロは本当に笑えたのだ。
 だけど。
 父の下に、白い肌を晒した少女がいた。
 少女の表情に変化はない。唇をギュッと結んだまま、感情のない目をこちらに向けている――。
 ヒロが吐き気を覚えた時、その映像が霧散した。
 なにが、起こったのか。
 息が上がる。吐き気を催す。頭を抱えても、深い闇はなにも教えてはくれない。
 げぇげぇ、と自分の喉が鳴る。
 その無様な音しか、耳に入ってこない。
 夢は覚めた。ここは旅館の庭園でもなければ、見知らぬ客室の中でもない。父もいなければ、あの少女の姿もない。ヒロたちが泊まっていた客室だ。
 ヒロは布団にくるまっていた。彼はゆっくりと立ち上がる。大量の汗をかいている。体が痺れたように感じるのは、幻覚の作用なのだろうか。クスリを飲んだ訳でもあるまいし。
 ここではない、どこかへ行かなくては、と思ってしまった。
 早く逃げよう。いっそここから消えてしまいたい。
 その前に、この気持ち悪さを抑えるには水でも飲んだ方が良い。ヒロは水を求めてふらふらと薄暗い室内をさまよった。
 その時、再びぼんやりとした映像が目に入ってきた。いや。それは本当に目に見えているものではない。見知らぬ景色が頭の中に広がっていくような感覚に陥った。
 どう言う訳か、母の里佳子がそこにいた。
 彼女は虚脱した顔になって、ボソボソと小声でなにかを呟いている。
 確かに里佳子もこの中に部屋にいた筈だった。旅館の浴衣を着て、自分の布団の中に入っていなかったか。それがいつの間にか、彼女は普段着のまま――白のブラウスと茶色のカーディガンに、ベージュのパンツを合わせた姿で歩いている。
 彼女は、手に白いボトルを持っている。あれは、大きなペットボトルだろうか。ブツブツと呟きながら、隣り合う二つの部屋を行き来している。
 いったいどこの部屋なのか。いずれの部屋にも、誰もいないのだろうか。
 里佳子が出入りを繰り返しているのに、誰も姿を見せない。
 そうして彼女は白いボトルの口を開けて、中の液体を部屋の中に撒き始めた。液体が跳ねる音は聴こえない。水でも撒いているのだろうか。しかし、部屋の中に水を撒き散らす事になんの意味があるのか。
 そう思っていると、里佳子は使い捨てのライターと新聞紙を取り出した。ライターで新聞紙に火をつける。新聞紙は直ぐに燃え上がった。
 彼女は液体を撒いた辺りに、その新聞紙をポイと放り投げた。
 間髪入れず、天井まで火柱が上がる。赤い炎が黒煙を上げて踊り狂う。
 まだ里佳子はブツブツと呟き続けている。
 頭の中の映像が消える間際に、彼女の声がヒロにも聴こえてきた。

《蝶々、もう捕まっちゃったのね……。あの人は、クスリで眠らせた……。あなたの母親も同じ。クスリでずっと眠らせてあげる……》