*
両親の関係――それが、なんだかおかしい。
クミがそう感じ始めたのは、五月の連休に入って、久しぶりの家族旅行に出かけた時だった。
両親は共働きであり、二人とも仕事に追われている。それでもずっと会社に行きっぱなしではない。新型の感染症が流行して、世界中がその対策に一喜一憂する最中、彼らの会社も社員たちに対してテレワーク――つまり、在宅勤務を推奨するようになったのだ。
二人とも週に二、三日は、それぞれの自室に籠ってパソコンを睨んでキーボードを打ち続けていた。父――魚津恭一に至っては、モニターをもう一つパソコンにくっつけてしまって、深い睨み利かせるようになってしまった。
彼らはいったいどんな仕事をしているのだろう?
クミはなにも知らない。だけど、この夫婦は別々の部屋にずっと篭ってばかりで、ほとんど会話がなくなってしまっている。互いのコミュニケーションもそうだが、娘に対しても同じようなものだった。これは良い事ではない。
それがどう言う訳か、五月の連休前になって、二人の部屋のドアが同時に開いたのだ。
温泉に行こうと言い出したのは、果たしてどちらからだったのか。父の恭一がそう提案したような気がするのだけど、クミにはもう思い出せない。
珍しく三人の家族が揃って顔を合わせた夕食。目の前に大人が二人も並んで座っていると、いつものダイニングテーブルがやけに狭く感じてしまった。
その時から、あの温泉旅館に到着するまで、両親はずっと笑顔だった。
県北の山間部にある温泉旅館の予約は、どうやらずいぶん前から入れてあったらしい。
五月の初旬に一家で訪れたのは、渓谷の景色が自慢の宿だった。川沿いの露天風呂からは新緑の木々の絶景が楽しめる――両親はそう得意気に言っていた。
実際にクミが露天風呂に足を踏み入れた時、その謳い文句は大袈裟でもなかったと思えた。湯船に入っていても、間近に迫る川のせせらぎが聞こえていた。
部屋で出された夕食は、地元の山の幸をふんだんに使った贅沢なものだった。大人向けの凝った和食は、クミの舌にはまだ合いそうになかったのだけど、彼女は出されたほとんどの料理をペロリと食べてしまった。
お腹が満たされると、自然と眠くなってしまう。まるで重しがついたように、まぶたが徐々に下がってくる。いつしか、クミは布団の中でまどろんでいた。
まだ両親は夕食の席にいる。二人でお酒でも飲んでいるのだろうか。恭一の声がいつもよりも大きい。声が大きいのは美樹も同じだ。そう言えば、普段はあまり飲まない彼女も、今日はビールを何杯も呷っていたのだから、もう顔が真っ赤になっていた。
アルコールが入ると気分が大きくなるのだろう。それに、彼らは自分の娘が完全に眠ってしまったとでも思い込んでいるようだった。こちらには全く注意を払っていない。
「俺はもう無理だ!」、「我慢できないのは、あたしの方よ!」、「この旅行が最後だから」、「あの子の親権は……」などと、彼らは刺々しい声を出す。
その大声が布団をかぶったクミの耳まで届いている事に、二人とも自覚はないのだろうか。
あるいは酔った勢いなのか?
もちろんクミにとって意味不明な言葉も混じっている。だけど、二人の間に険悪な雰囲気が漂っている事なんて簡単に理解できる。
詰まるところ、この二人はもう「仲良し」ではないのだ。
むしろ仲が悪いと言った方が良い。仲が悪いとは言っても、小学校のクラスメイトたちのように、人の物を勝手に隠すようなイジメもなければ、互いに髪を引っ張り、爪を立てて襲いかかるようなキャットファイトもない。せいぜい今みたいに口喧嘩を続けるくらい。
そう言えば、今日も恭一はこの旅館にまつわる随分怖い話をしていた。美樹は眉を顰めて聞いていたのだから、これも父の意地悪だったのだろうか。
この旅館――特に、クミたちの部屋がある新館の建物は、元々この場所にあった古いお墓を壊して作られたものらしい。それも人のお墓ではなく、蝶々のお墓だと言う。だから、「悪い子」には、蝶々の祟りがあるのだと父は面白そうに話していた。
今のところ「悪い子」とは、クミではなく、口喧嘩を続ける恭一であり、美樹だろう。だから祟られるのはこの二人だ。
しかし、どんな祟りなのだろうか?
恭一は熱心に説明してくれたのだけど、難しい言葉が多すぎてクミにはあまり理解できなかった。なにやら「反対派」やら、「環境アセスメント」やら、「リベート」なんかの言葉が踊っていた。これは完全に大人の話なのだと思って、途中からうわの空で聞いてしまった。それに想像するだけで怖くなってしまうのだから、クミはもう深く考えないようにしていた。
そんな昼の出来事を思い出していると、なんだか眠くなってしまった。このまま眠って明日になれば、両親はすっかり仲良しになっているのかもしれない。いや。心からそうなってほしいと願っている。
糊の利いたシーツの匂いに包まれて、彼女の意識はスッと消えていった。
クミはそっと目を開けた。
瞬間、シーツの匂いがどこか変わったように感じた。
そっと上体を起こすと、左右には両親が横になっていた。二人とも静かに寝息を立てている。
周囲は真っ暗だった。まだ夜は明けていない。
親子三人で川の字になって寝ていたようだ。こんな風に両親と寝たのはいつ以来だろう。家にいると、クミは自分の部屋のベッドで一人きりだった。家族旅行もずいぶん久しぶりだったのだから、両親に挟まれて寝ていた記憶はあまり思い出せない。
ヘンな気分だった。
両親と一緒に寝てしまう事が、どうしてヘンなのか。なにもおかしくないのに、笑いそうになってしまう。つまるところ、これは苦い笑いだ。まるで大人みたい。そう思って少しは気が楽になった。
だけど――。
しばらくしてクミは、自分の中のこの違和感は、もっと別のところから来ているものだと気がついた。
クミは目を擦る。
カーテン越しの窓に映る影が、少し動いている。
そこに、なにかいる。
ゆらゆらと揺れているもの。だけどいくら目を凝らしても、それが生き物のようには見えない。もっと別のもの。それは実態のない空気のようなもののように思えた。
ふらりと窓に近づいた時、
「クミ!」
大声で名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。反射的に振り向いた。
恭一が目を見開いて、立っていた。まるでなにかに怒っているような、鬼のような形相。
その声で美樹は目を覚ましたようだった。
「なによぉ……」と彼女は恨めしそうに呟いて、目を擦っている。
「そこから離れろ!」
恭一は叫びながら、手を伸ばしてくる。
クミがその手に縋ろうとした瞬間だった。
ドンッとなにかが崩れる音がした。
ズンッと肩の辺りに衝撃を受けと思った瞬間に、目の前が真っ白になった。
その後の事は、ほとんど覚えていない。
次に目を覚ました時、クミは見知らぬベッドの上にいた。
上体を起こそうとすると、肩や腕、それに背中にジンジンと鈍い痛みを覚えて泣きそうになった。その時、本当に泣いていたのはベッドの側にいた母の美樹だ。彼女は涙を流しながら、あの夜に宿泊していた旅館の一部が、火事により焼け落ちてしまったのだと教えてくれた。
クミたちの部屋は半壊したらしい。そして、クミ自身は上半身に酷い火傷を負った。それでも命に別条がなかったのは、恭一が直ぐにクミの手を取って、焼け落ちた建物の破片から引き離したからだった。
両親の関係――それが、なんだかおかしい。
クミがそう感じ始めたのは、五月の連休に入って、久しぶりの家族旅行に出かけた時だった。
両親は共働きであり、二人とも仕事に追われている。それでもずっと会社に行きっぱなしではない。新型の感染症が流行して、世界中がその対策に一喜一憂する最中、彼らの会社も社員たちに対してテレワーク――つまり、在宅勤務を推奨するようになったのだ。
二人とも週に二、三日は、それぞれの自室に籠ってパソコンを睨んでキーボードを打ち続けていた。父――魚津恭一に至っては、モニターをもう一つパソコンにくっつけてしまって、深い睨み利かせるようになってしまった。
彼らはいったいどんな仕事をしているのだろう?
クミはなにも知らない。だけど、この夫婦は別々の部屋にずっと篭ってばかりで、ほとんど会話がなくなってしまっている。互いのコミュニケーションもそうだが、娘に対しても同じようなものだった。これは良い事ではない。
それがどう言う訳か、五月の連休前になって、二人の部屋のドアが同時に開いたのだ。
温泉に行こうと言い出したのは、果たしてどちらからだったのか。父の恭一がそう提案したような気がするのだけど、クミにはもう思い出せない。
珍しく三人の家族が揃って顔を合わせた夕食。目の前に大人が二人も並んで座っていると、いつものダイニングテーブルがやけに狭く感じてしまった。
その時から、あの温泉旅館に到着するまで、両親はずっと笑顔だった。
県北の山間部にある温泉旅館の予約は、どうやらずいぶん前から入れてあったらしい。
五月の初旬に一家で訪れたのは、渓谷の景色が自慢の宿だった。川沿いの露天風呂からは新緑の木々の絶景が楽しめる――両親はそう得意気に言っていた。
実際にクミが露天風呂に足を踏み入れた時、その謳い文句は大袈裟でもなかったと思えた。湯船に入っていても、間近に迫る川のせせらぎが聞こえていた。
部屋で出された夕食は、地元の山の幸をふんだんに使った贅沢なものだった。大人向けの凝った和食は、クミの舌にはまだ合いそうになかったのだけど、彼女は出されたほとんどの料理をペロリと食べてしまった。
お腹が満たされると、自然と眠くなってしまう。まるで重しがついたように、まぶたが徐々に下がってくる。いつしか、クミは布団の中でまどろんでいた。
まだ両親は夕食の席にいる。二人でお酒でも飲んでいるのだろうか。恭一の声がいつもよりも大きい。声が大きいのは美樹も同じだ。そう言えば、普段はあまり飲まない彼女も、今日はビールを何杯も呷っていたのだから、もう顔が真っ赤になっていた。
アルコールが入ると気分が大きくなるのだろう。それに、彼らは自分の娘が完全に眠ってしまったとでも思い込んでいるようだった。こちらには全く注意を払っていない。
「俺はもう無理だ!」、「我慢できないのは、あたしの方よ!」、「この旅行が最後だから」、「あの子の親権は……」などと、彼らは刺々しい声を出す。
その大声が布団をかぶったクミの耳まで届いている事に、二人とも自覚はないのだろうか。
あるいは酔った勢いなのか?
もちろんクミにとって意味不明な言葉も混じっている。だけど、二人の間に険悪な雰囲気が漂っている事なんて簡単に理解できる。
詰まるところ、この二人はもう「仲良し」ではないのだ。
むしろ仲が悪いと言った方が良い。仲が悪いとは言っても、小学校のクラスメイトたちのように、人の物を勝手に隠すようなイジメもなければ、互いに髪を引っ張り、爪を立てて襲いかかるようなキャットファイトもない。せいぜい今みたいに口喧嘩を続けるくらい。
そう言えば、今日も恭一はこの旅館にまつわる随分怖い話をしていた。美樹は眉を顰めて聞いていたのだから、これも父の意地悪だったのだろうか。
この旅館――特に、クミたちの部屋がある新館の建物は、元々この場所にあった古いお墓を壊して作られたものらしい。それも人のお墓ではなく、蝶々のお墓だと言う。だから、「悪い子」には、蝶々の祟りがあるのだと父は面白そうに話していた。
今のところ「悪い子」とは、クミではなく、口喧嘩を続ける恭一であり、美樹だろう。だから祟られるのはこの二人だ。
しかし、どんな祟りなのだろうか?
恭一は熱心に説明してくれたのだけど、難しい言葉が多すぎてクミにはあまり理解できなかった。なにやら「反対派」やら、「環境アセスメント」やら、「リベート」なんかの言葉が踊っていた。これは完全に大人の話なのだと思って、途中からうわの空で聞いてしまった。それに想像するだけで怖くなってしまうのだから、クミはもう深く考えないようにしていた。
そんな昼の出来事を思い出していると、なんだか眠くなってしまった。このまま眠って明日になれば、両親はすっかり仲良しになっているのかもしれない。いや。心からそうなってほしいと願っている。
糊の利いたシーツの匂いに包まれて、彼女の意識はスッと消えていった。
クミはそっと目を開けた。
瞬間、シーツの匂いがどこか変わったように感じた。
そっと上体を起こすと、左右には両親が横になっていた。二人とも静かに寝息を立てている。
周囲は真っ暗だった。まだ夜は明けていない。
親子三人で川の字になって寝ていたようだ。こんな風に両親と寝たのはいつ以来だろう。家にいると、クミは自分の部屋のベッドで一人きりだった。家族旅行もずいぶん久しぶりだったのだから、両親に挟まれて寝ていた記憶はあまり思い出せない。
ヘンな気分だった。
両親と一緒に寝てしまう事が、どうしてヘンなのか。なにもおかしくないのに、笑いそうになってしまう。つまるところ、これは苦い笑いだ。まるで大人みたい。そう思って少しは気が楽になった。
だけど――。
しばらくしてクミは、自分の中のこの違和感は、もっと別のところから来ているものだと気がついた。
クミは目を擦る。
カーテン越しの窓に映る影が、少し動いている。
そこに、なにかいる。
ゆらゆらと揺れているもの。だけどいくら目を凝らしても、それが生き物のようには見えない。もっと別のもの。それは実態のない空気のようなもののように思えた。
ふらりと窓に近づいた時、
「クミ!」
大声で名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。反射的に振り向いた。
恭一が目を見開いて、立っていた。まるでなにかに怒っているような、鬼のような形相。
その声で美樹は目を覚ましたようだった。
「なによぉ……」と彼女は恨めしそうに呟いて、目を擦っている。
「そこから離れろ!」
恭一は叫びながら、手を伸ばしてくる。
クミがその手に縋ろうとした瞬間だった。
ドンッとなにかが崩れる音がした。
ズンッと肩の辺りに衝撃を受けと思った瞬間に、目の前が真っ白になった。
その後の事は、ほとんど覚えていない。
次に目を覚ました時、クミは見知らぬベッドの上にいた。
上体を起こそうとすると、肩や腕、それに背中にジンジンと鈍い痛みを覚えて泣きそうになった。その時、本当に泣いていたのはベッドの側にいた母の美樹だ。彼女は涙を流しながら、あの夜に宿泊していた旅館の一部が、火事により焼け落ちてしまったのだと教えてくれた。
クミたちの部屋は半壊したらしい。そして、クミ自身は上半身に酷い火傷を負った。それでも命に別条がなかったのは、恭一が直ぐにクミの手を取って、焼け落ちた建物の破片から引き離したからだった。

