豹紋もどき

 雪がヒロと一緒に警察署を出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
 さつきはクミと手をつないだまま、警察署の駐車場に停めてある母親の車まで歩いている。今日は自分のマンションではなく、実家に戻るようだった。
 去り際に、ヒロに向かって「今日は、ありがと」とポツリと溢した。
「そう言えば、さ……」とヒロは、さつきに声をかける。
「なに?」
「魚津は、なんでクミちゃんをバレエ教室に連れていってあげなかったの?」
「そんなの、別に鏑木に関係ないじゃない」
「まあ、そうだけどさ」ヒロはじっとさつきを見ている。「魚津がずっとクミちゃんの側にいてあげれば、下井津先生が近づいて来なかったかもしれないし」
「もう先生じゃないでしょ、あの犯罪者は……」
 さつきは少し怒ったように言う。
 その顔を見て、ヒロは笑う。
「……なんか、嫌だったのよ」
 「嫌って、なにが?」
「クミが、あのバレエ教室でヘンな噂とか聞いたら、絶対嫌な思いするからね……」
 さつきはジロリとヒロを睨めつける。彼女は怒っているようにも思える。ただ、その怒りはヒロに向けられたものではないようだ。
 ならば誰に向けられたものなのか?
「あたしの本当のお父さん、あのバレエ教室にいっつもついてきてたのよ。まあ、あたしの送迎とか、つき添いだったわけ。それで、あたしの練習とかずっと見てたけど……いつの間にかあの人が見てたのは、あたしじゃなかったみたい」
 さつきはギリと唇を噛む。
 どうやら彼女の怒りの矛先は、実父に向かっていたらしい。
「それで、ちょっと教室で相手の親とか先生とかとトラブルになってね……。まあ、証拠もないし、大ごとにはならなかったけど、生徒の間では結構な有名人になってたわ。ロリコンとか言われちゃって……。結局そんな噂もあったから、あたしのお母さんはあの人と離婚したし」
 で、と彼女は続ける。
「ここまで話したんだから、鏑木。あんたにも一つだけ答えてもらうから」
「ぼくも?」ヒロは意外そうに言う。
「どうしてあのファミレスに、クミとあの犯罪者がいるって分かったの?」
 「単に直感だけど……」
「嘘」とさつきはヒロに顔を近づける。「あんた、ほとんど迷わずにあの場所に行ったでしょ」
「いや、そんな事は……」
 ヒロは彼女の迫力に押されて後退る。
 果たしてここで十三秒先の声の話をするのだろうか。しかし実際に声を聴いた事がなければ、その話は俄に信じられないだろう。
 雪がそう訝っていたところ、
「おーい、おねえちゃーん」
 黒いSUVの助手席から、クミが大声で叫んだ。
「早く帰ろう」
「直ぐ行くわ!」さつきが慌てて返す。「ねぇ、明日学校でもう一度訊くから、ちゃんと答えてちょうだい」
 彼女はヒロに釘を刺してから、家族の待つ車まで走っていった。
 魚津家の三人を乗せたSUVが側を通り過ぎる時、窓ガラス越しにクミが何度もこちらに向かって手を振っていた。
 ヒロも手を振り返している。雪も軽く手を上げる。
 黒いSUVの赤いテールランプが遠ざかっていく。
「ヒロ」
「ん?」ヒロはこちらをチラと見る。
「あたしもヒロに訊きたい事があります」
 へぇ、と彼は意外そうな顔で言う。
「なにを?」
「魚津さつきと同じ質問です。どうしてクミちゃんがいる場所が分かったんですか?」
「どうしてって……柳田ならもう分かるでしょ」とヒロは肩を竦める。
「十三秒先の声が聴こえたから、ですか?」
「まあ、そんなとこ」
「嘘です」
 雪はヒロの目を真っ直ぐ見据えた。
 ヒロは優しく笑っている。なにも驚いていない。
 そう。ヒロはいつもそうだった。
 少なくとも今の雪の声は、先に彼の頭の中に届いていた筈だ。ならば雪がこれから口にする言葉も、既に十三秒前に理解していたのかもしれない。

「ヒロは、全部見えている(・・・・・)んですね、十三秒先の世界が……」

 うん、と彼はあっさり認めた。
 だからこそ、彼は迷いもなく声の聴こえた下井津やクミの元にたどり着いたのだ。
「いつから……」
 彼はその世界を見ていたのか――そう思った時、雪に酷い悪寒が走った。
 それは、彼女にとって恐怖でしかない。
 ヒロにあの時の姿(・・・・・)――あの男にのしかかられた姿(・・・・・・・・・・・・)を見られてしまった。
 そう考えただけで、雪は頭が真っ白になる。こんなにも鳥肌が立ち、全身を掻きむしりたくなるほどの気持ち悪さを覚えるとは思わなかった。
 こちらを見つめるヒロの目はとても優しい。
 それでも彼はもう手を伸ばしてこない。雪に触れる事をなによりも禁忌だと感じているのかもしれない。
 それは、罪だから――。
 親の犯した過ちを、ヒロは繰り返してはならないと考えている。それどころか、彼は親の罪を自分のものとして受け入れているようだった。
 本当に罪を犯してしまったのは――鏑木里佳子の心を壊してしまったのは――雪の方なのに。
 ヒロの体が僅かに揺れる。彼はスラックスのポケットから、振動するスマートフォンを取り出した。
「もしもし……あ、山田さんですか」
 彼に電話をかけてきたのは、鏑木家に通っている家政婦のようだった。
「はい、はい、はい……」とヒロは何度も相槌を打っている。
 これから雪はヒロと家に戻って、家政婦が用意した夕食を一緒に食べるのだ。いつかのように里佳子も顔を見せに来るのかもしれない。それも今の鏑木家の日常の一つ。なにも特別な事はない。
 昔と比べると、雪にとっては本当に恵まれている生活だ。以前なら、雪の食事は冷食やコンビニで買ってきた弁当ばかりだった。朝も夜も母が居なかったのだから、いつも一人で食べていた。
「いないって、どう言う事ですか!」
 突然、ヒロが声を荒げた。彼が家政婦に向かってそんな声を出すのは珍しい。
 それでも、「……すみません」とヒロは直ぐに詫びた。その後、何度か相槌を打ってから、彼は電話を切った。
 ヒロはチラリとこちらを見る。漆黒の大きな瞳が僅かに揺れていた。
 嫌な予感がした。
「なにかあったんですか?」
「母さんが、いなくなったって……」ヒロは眉間に皺を寄せて言う。「山田さんが家に来た時にはまだ母さんは家にいたんだ。玄関のドアを開けてくれたって……。でも、気がついたら、どこにも姿が見えなくなったって」
「おばさんは、いつも自分の部屋にいますよ」
「だから部屋の中にもいないんだよ! それに車もなくなっているって言ってた。母さん、しばらく運転してなかったのに……」
 里佳子は精神を病んでから、恐らく一度も自動車を運転していない。本人は運転をした気分になっているのかもしれないが、車が必要な場合には、彼女はタクシーを使っていた筈だ。もちろん、ヒロがその手配をしていた。

《ごめんね、雪ちゃん……》

 十三秒先の声。
 それは鏑木里佳子の優しい声だった。
 聴こえたのは、雪だけではない。
 ヒロは目を見開いている。彼は僅かに震えている。行方の分からない母の声を聴いて驚いたのか。
 いや。違う。
 彼は声を聴いただけではないのだ。
「なんで――」とヒロは苦渋の色を浮かべて続ける。「母さんが、あんなところに……」
 ヒロの声は震えている。
 彼が目にしたのは、母のいる十三秒先の世界の筈だった。
 そこは、そんなにも恐ろしい場所なのだろうか。